彩字記#5(採取者・市原尚士)

【李小龍のグラフィティー】

香港のアートに勢いがあると前々から思っていたので、久しぶりに行ってきました。2025年秋、国立新美術館で香港のM+との共同企画展「時代のプリズム:日本で生まれた美術表現 1989-2010」が開催されることを24年に知り、予行演習のために諸々、鑑賞すると同時に、アート・バーゼル香港2025やその関連プログラムも一網打尽にしようという狙いです。

とは言っても、へそ曲がりの筆者は、M+やアート・バーゼル香港のことを本稿で書こうとは思いません。そういった、アートの保守本流ネタは、ほかの真面目な方たちにお任せし、私はもっぱらわき道にそれていくのでした。

ブルース・リーが描かれた香港のシャッター

香港の地下鉄「佐敦(Jordan)駅」を下車すると北西の方向に市場、マーケット、屋台などがひしめく巨大なエリアがあります。ここをそぞろ歩いていると、香港人の偉大な武術家・李小龍(ブルース・リー)がシャッターに描かれているのを発見しました。映画「死亡遊戯」の中で彼が着用していた黄色いつなぎ(トラックスーツ)でビシッと決めているのですが、残念なことにお顔が全然似ていません。

日本の人気漫画家・榎本俊二先生の作品に登場する、いかがわしさとある種の抜け目なさが同居した怪しいキャラクターたちになぜかそっくりに描かれているのです。まさか、榎本先生が香港に出張して描いたのではないでしょう。はっきり言って、榎本先生よりもはるかに下手くそだからです。しかし、私は、榎本先生に限らず日本の漫画文化のクオリティーの高さが、香港のラクガキ人間にも大きな影響を与えていることを知り、とてもうれしくなってしまいました。

まして、1960年代後半に生まれた筆者にとって、ブルース・リーと言えば、神様のような存在です。学校ではみんなヌンチャクを振り回して、彼の真似をするのが大流行しました。ヌンチャクは、あまりにも危険なので、学校の先生から禁止されたのを今でも覚えています。

思いもかけぬ場所で、憧れの李小龍と出会い、帰国後、久しぶりに彼の映画作品を鑑賞してしまいました。アチョー!

【グラフィティ―だらけの一角】

香港島の中心部ともいえる地下鉄「中環(Central)駅」を降りて、香港植民地時代の歴史遺産「大館」に徒歩で向かう際のお勧めルートは、石畳の坂道が続く「ポッティンガー・ストリート」を選択することです。はっきり言って、どうでもいいようなお土産物やグッズ・アクセサリーのショップ、カフェなどが立ち並ぶ、観光客でにぎわう一角です。

ポッティンガー・ストリートのグラフィティー

この坂道を歩いていると、時折、90度に直交した細い路地が伸びています。そして、そのような路地には、多くのグラフィティーが描かれています。まぁ、あまりレベルは高くないかもしれません、正直な話し。ほぼ、ラクガキに近いものが目立ちますが、だからと言って決して嫌な感じはしません。ポッティンガー・ストリートのやや猥雑な感じと相性が良いからです。私は、一つ一つの“作品”を丁寧に鑑賞してから、大館にお邪魔しました。

ちなみにですが、この中環エリアには、David Zwirner、Gagosian、Hauser&Wirthなどなど世界の一流画廊がひしめいています。わが日本のWhitestone galleryも大健闘しています。ホワイトストーンでは、小松美羽の香港初となる個展が開催中でしたが、驚いたのはその人気ぶり。私は今回の香港滞在中、数十か所のギャラリーを回ったのですが、小松美羽の展示が文句なしに一番の大盛況だったのです。ギャラリー内は人々であふれ、モニターで流される制作風景の映像を多くの人が食い入るように見つめていました。神獣の世界観、香港のアート好きにも相性は良かったようです。

個人的には、Gagosianで開催中だった、Sarah Sze(サラ・ジー)の個展に戦慄を覚えました。いやはや、素晴らしい作品群でした。東京・銀座の銀座メゾンエルメス フォーラムでサラ・ジーの展示が催行されたのが2008年のこと。もう17年も前になるんですね。国内の美術館、例えば森美術館あたりで彼女の大規模な回顧展をぜひとも開催してほしいです。片岡真実館長、よろしくお願いします。

【トランプ大統領×飲食店】

レベルの高い展示をしているのに、お客さんはそこまで多くない、いわば穴場スポットが香港大学美術博物館です。こちらで開催中の展示を鑑賞しようと、大学周辺をうろちょろ歩いていると、いきなり、アメリカのトランプ大統領に出会いました。飲食店の看板なのですが、「うちの店のこと、ぜひともSNSで拡散してね。Like(いいね)とコメント、お願いします」と訴えています。

トランプ大統領が描かれた飲食店の広告(香港大学近くの路上で)

さらに「WINNER WINNER FREE YOU DINNER」(勝者は、ディナーが無料)とも書かれています。WINNERが大好きなトランプのことですから、こんなセリフを確かに言いそうです。思わず、笑ってしまいました。NNER(ナー)の部分で韻を踏んでいるのも、呟いていて気持ちの良いポイントですね。

ただ、この香港大学周辺は、非常に急坂が連続しますので足腰の弱い方には訪問をお勧めできません。「箱根八里」の歌詞「箱根の山は天下の険(けん)」を思い出してしまうくらいの高低差が都会の真ん中にもかかわらず存在します。筆者がトランプ看板を見つけた場所もまさに急な坂の途中でした。ちょうど、息が切れてきたときに、トランプの笑顔と出会い、ちょうどいい休憩スポットになりました。

【魔窟ビル?】

香港と言えば、昼でも薄暗いビルが魅力の一つです。九龍公園と大通りを挟んで東のエリアの一部に韓国料理店が多い場所があります。その周辺を歩いている際、薄暗い小道が右横に伸びていたので、筆者は吸い込まれるようにその奥に入りました。すると、昼なのに夜のようなビルに入り込んでいることに気が付きました。見上げれば、四方ぐるりはビルの壁ばかり。空は、はるか上方の小さい開口部からのぞいているだけ。とても、とても、暗いのです、真昼間なのに。マグリットの絵そのままです。

昼なお薄暗い香港のビル

しばらくたたずんでいましたが、だんだん怖くなってきました。ここで、屈強の男たちに囲まれて、ビル内の一室に連れ込まれたら、もはや抵抗するすべはありません。「こうやって、人は突如、行方不明になってしまうのか」と考え出したら、もうたまりません。写真を撮影後、あわてて大通りの方に戻りましたが、しばらくは心臓の動悸が収まりませんでした。

【遠近法の消失点が堪能できる駅】

巨大な駅舎「九龍駅」に向かっている時、駅構内にバスや乗用車が入るための出入り口を見つけました。奥に向かって伸びる道路の上部には、蛍光灯と思われる照明設備が設置されています。この照明の様子を見ていて、美術の授業で「遠近法」を学んだ時のことを思い出しました。照明が奥にある消失点に向かって、収斂しているのです。美しいです。スピード感が感じられます。

九龍駅の構内に向かう道路。照明が消失点に収斂しており美しい

ポルシェを高速で乗り回した神戸市出身の抽象画家・菅井汲は、美術界きってのスピード狂で知られます。彼は、高速の世界で夾雑物を捨象し、「高速だからこそ見えてくるイメージ」を作品制作に活かしました。九龍駅構内の、この道をじっと見ていて、筆者は「菅井が見ていた(求めていた)のはこんな風景だったのでは?」と思いました。

ただ、この写真を撮るためには、道の真ん中に立たないといけないので、常に車に轢かれる恐れがあります。良い子の皆さんはマネしないように! 筆者も大慌てで2枚だけ写真を撮って、すぐにその場を離れたくらい、危険な場所です。でも、魅力的な場所です。

久しぶりの香港でしたが、やはり香港は香港でした。高層建築の現場で相変わらず、竹の足場が使われているのも確認できて、何だかとても楽しかったです。香港、また行こうっと!(2025年4月20日17時57分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。