計画都市の光と影 市原尚士評

モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエ(1887~1965年)は生涯に23回もインドを訪れています。最初は1951年2~4月、23回目、つまり最後は1964年4~5月です。たいていは1か月ほどの滞在ではありました。しかし、20回以上も訪問するというのは尋常ではありません。よほど、魅了される要素があったのでしょう。

1953年、建築家が記者会見で配った論文の中にこんな言葉があります。ノーマ・エヴァンソン『ル・コルビュジエの構想』(井上書院)、81ページより引用しましょう。

悩むことの多い昨今であるが、私はインドの地に安らぎを見いだした。この古くからの伝統の中で、人間は自然と隣り合わせに住まい、また一方ではその猛威にも直面している。ここでは自然、動物、生物と触れ合い、屋外で眠り、また、ある種の愚かしい安楽ー往々にして問題のある快楽ーから解脱している。

 

さて、建築家がインドに残した作品と思想からインドとコルビュジェとの深いかかわりを読み解くドキュメンタリー映画が日本で5月1日から公開されます。2作品が同時に公開されるのですが、そのうちの1本を一足早く、鑑賞してきましたので、そのご報告をしましょう。

タイトル:「ユートピアの力」(85分)
製作年:2023年
監督:カリン・ブッハー、トーマス・カラー

前説

建築に詳しい読者の皆さんなら、インドと建築家の深い縁をもちろんご存じでしょう。しかし、それほど詳しくない方もいらっしゃるでしょう。ということで、本稿ではあえて概要を説明することにいたします。

長くイギリス領だったインドがイギリスの支配から脱したのは1947年のこと。インドとパキスタンとして分離独立を果たしたわけです。パンジャーブ州は両国に分割され、州都ラホールはパキスタンの帰属になってしまいます。州都がなくなってしまったインドは早急に州都を作り上げる必要性が出てきたわけです。

初代首相ジャワハルラール・ネルー(1889~1964年)は、過去の伝統に縛られない都市の建設を望みました。そこで、白羽の矢が立ったのがコルビュジェでした。巨匠が生涯で唯一、実現させた計画都市、その名はチャンディガール。ヒンドゥー教の女神「チャンディーカ」と砦を意味する「ガル」とを組み合わせた都市名となります。

州議会議事堂

計画都市ですから、徹底して理詰めです。都市のすべての要素が計画的にデザインされております。街路樹の花も通りごとに色分けがされているくらい…。コルビュジエ自身は、自然の秩序と近代技術を完全に調和させた「人間中心のユートピア」を目指したようですが、私は計画都市に対しては、冷ややかな目を持っております。オーストラリアのキャンベラ、アメリカのワシントンD.C.、イタリアのEUR(エウル)などなど、これまで訪問した数々の計画都市、まったく私の琴線に触れなかったからです。

インドに関しては、ニューデリー、ジャイプール、ファテープル・シークリー、アグラ、バラナシといった都市は訪問したことがありますが、残念ながら、チャンディーガールは行ったことがありません。ドキュメンタリー映画の画面越しですが、旅行をしたつもりで、映画を鑑賞することにしました。前説はこの程度で終了です。映画の紹介をしましょう。

本編

映像の冒頭、フランスの作曲家エリック・サティ(1866~1925年)の「グノシエンヌ第一番」がシタールで流れていて、思わずニヤリとしました。東洋(オリエント)音楽の影響を強く受けた西洋音楽家の著名作品をシタールで演奏することによって、両洋の統合を図ろうとしたサティの、さらにコルビュジエの願い、大げさに言えば「祈り」のような気持ちを表現しているように思えたからです。

映画、ドラマ、CMに頻出するサティ作品ですが、北野武(1947年生まれ)の映画デビュー作「その男、凶暴につき」(1989年)で非常に効果的に「グノシエンヌ第一番」が使われていたのが、印象に残っています。

高等裁判所

それにしても、画面に登場するチャンディーガールの風景は、まったくインドらしくありません。ヨーロッパの都市風景そのままです。インドの魅力は、あの雑踏、混沌、喧噪、アナーキーなまでの無秩序だと思っているので、びっくりしました。

映画には10数人の主に知識人階級の方々が登場し、コルビュジエ及びチャンディーガールの街並みについての自身の考えを披歴していく形で進行していきます。皆さん、エリート中のエリートのように非常に賢そうな顔つきの方ばかり。建築家、俳優、芸術家、都市活動家、上級弁護士などの面々です。

庶民らしき印象の方は「一般人はチャンディーガールで家なんか買えないよ」と愚痴るレストラン店主くらいです。庶民中の庶民である私の立場としては、2人の監督さんに「もう少し普通のインド人のコメントを盛り込んでください」と注文をつけたくなりました。

大雑把に区分すると、映画の前半は、コルビュジエが人工的に作った街への肯定的な意見が多かったです。後半には、否定的な、あるいは批判的なニュアンスのコメントもちらほら出てきます。

登場する知識人たちも意外と正直です。「本来の自分ではない何者かになろう」と思わせるものがチャンディーガールにはあったと告白する方がいました。また、建築家を絶対的に崇拝しているだけでは「疑問を抱けない」と警告する方もいました。さらに、構想としてはユートピアだったが、結果として、街が「完全なユートピアだったかどうかは分からない」と懐疑的な見解を披露する方も。

とはいえ、結構、厳しいことを指摘する、これらの方々の根底には、チャンディーガールへの強烈な愛着とそこに住む誇りもにじんでいます。

実際、すごい都市計画、建築であることは間違いありません。有名な話ではありますが、人体をイメージした都市設計は秀逸です。州議会議事堂、高等裁判所、合同庁舎が立ち並ぶキャピトル・コンプレックスは都市の頭脳、つまり「頭」と位置付けられます。商業の中心部は「心臓」です。緑地帯や公園は「肺」で、道路は「循環器系」に見立てられ、それぞれが、人体と同様の位置に配置されているわけです。

また、都市全体を網目状の構造「グリッド」で区切って、「セクター」という多くの単位を設けています。道路システムは7つの階層に分け、人と自動車の交通を分離し、緑地を整備し、人造湖を作るーーまさに至れり尽くせりです。

インドや東南アジア諸国は、通常、車(含む多くのバイク)中心の動線が都市内を支配しており、歩行者にはまったく優しくありません。徒歩で10数分の場所であったとしても、歩く気がしないくらいの混雑ぶりなので、どうしても、タクシー、トゥクトゥク(3輪タクシー)、バイクタクシーを利用せざるをえなくなるのです。ところが、チャンディーガールでは、すべてが「歩行の尺度」で設計されており、車やバイクに煩わされることなく、安心して移動ができるようなのです。

さらに、緑の多さも驚異的です。公園が多くあり、緑地帯も街路樹も多くあるので、結果として街の3分の1以上が緑で覆われているのです。インドや東南アジアは田舎はともかくとして、都市部では意外と緑が少ないものです。コルビュジエの高い理想が街並みのあちこちに当たり前のような顔つきで溶け込んでいるわけです。

また、インドと言えば、強烈な日差しにうんざりしますが、映画では、コルビュジエの建築が完全に日光を制御し、その内部にいる人間に快適な日陰や風を提供していることも指摘されていました。

そう、コルビュジエは光の使い方に卓越した技量を持っているのです。光にリズムを与え、審美的な喜びを住民に味わわせてくれるわけです。光と影を使って、チャンディーガールという大きな“キャンバス”に絵を描いているようにも見えるくらいです。

ただ、私の実体験から言っても、計画都市には計画都市特有の息苦しさがあります。「すべての中心に人間」を置いたチャンディーガールは、人間中心を掲げているだけ、余計に息苦しさを覚えるような気がしました。

映画の中でも、具体的な問題点が数多く紹介されました。▽街の老朽化が急速に進んでいる厳しい現実▽住民間の貧富の差が広がり、貧乏人はチャンディーガールから結果として追い出され、新たに出現した大きなスラムへと移動を余儀なくされている▽不動産が急騰し、高額所得者しか住めない街になってしまったーーといった感じです。

また、街を区切るセクター間の格差まで紹介されていました。セクター2~5とセクター9は裕福な人たちが集まるエリア。セクター22は、下位中産階級の集まるエリアなどなどの格差がありつつ、街全体としてはインド最高の平均所得を誇る「エリート・シティ」なのだそうです。

チャンディーガールという非常に理想的な都市の光と影がバランスよく紹介された本作を鑑賞すると、計画都市への違和感ばかりを覚えていた自分の器の小ささに気づかされました。

チャンディーガールそのものに欠点があるのではなく、この街を取り囲む「社会の変化の波」が、正しくこの街並みに映し出されているだけのような気がしたからです。極端なまでの資本主義化が社会全体に広がっている中、チャンディーガールだけが、それと無縁でいられるわけはありません。

街に何らかの問題や矛盾があるというのは、政治、経済、外交、文化といった各分野のひずみが反映しているということなのです。そして、地球全体の問題点がとりわけ現れやすいのが計画都市なのかもしれないと映画を鑑賞していた思ったのです。与える手と受け取る手、平和と繁栄、そして人類の団結を示した、コルビュジエの有名な「開かれた手」の崇高な理想そのものが、そもそも矛盾や葛藤の産物であることを私たちは知っています。

「開かれた手」

コルビュジエの言葉を『ル・コルビュジエのインド』(彰国社)69ページから引用しましょう。

「開かれた手」はパリでいつのまにか生まれた。いや、正しくはこうだ。人々を引き裂き、しばしば敵をつくってしまう苦痛や苦悶、対立の感情から引き起こされたさまざまなイメージや精神的な葛藤の結果だ。

巨大な牛糞があちこちに落ちていて、ぬかるんだ道、迷宮のようなマーケットがあり、そこかしこで、どなったような声のやり取りが響くバラナシが個人的には大好きです。ガンジス川に己の遺骨を流せたらいいなと夢見るくらいバラナシが好きです。でも、チャンディーガールにも興味を持とうと感じさせてくれる映画でした。建築に興味のある方、インドに興味のある方、どちらにも鑑賞をお勧めしたいと思います。

なお、本作「ユートピアの力」だけでなく、コルビュジエの薫陶を受けて大活躍したインド人建築家、バルクリシュナ・ヴィタルダス・ドーシ(1927~2023年)の内面に迫る作品「誓い 建築家B・V・ドーシ」(90分、ヤン・シュミット=ガレ監督)も上映されるそうです。インドの大地に刻まれた、巨匠たちの対話に耳を傾ける好機かもしれません。(東日本大震災を風化させてはならないと改めて誓った2026年3月11日22時10分脱稿)

 

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。