隠された世界 市原尚士評

展示名:「袴田京太朗 隠された、」
主催:川崎市市民ミュージアム
場所:Museum+205(川崎市役所本庁舎復元棟2階)
会期:3月6日(金)〜29日(日)
9:30〜17:00 最終入場16:30
月曜休 観覧無料

めっちゃ気合の入った展示に出合ってしまいました。
川崎市在住の彫刻家、袴田京太朗(1963年生まれ)の最新展「袴田京太朗 隠された、」が素晴らしすぎました。
小さい会場なのですが、90分以上、じっくり鑑賞してしまいました。色々と気づきがあったので、以下、記録しておこうと思います。まずは全6作品のディスクリプションから…。

作品名【ザンダー(2nd Stage)

会場に入って、最初に目の前に見えるのは、四方を大きなカーテンで覆った空間。その空間をめくれ上がらせるように差し込まれた木製テーブルが一つ。そして、その上部に2人の人物が立っている。向かって右は少女、左は少年である。いずれも、ジェスモナイト(樹脂)が素材なので、石のような落ち着いた風合いを見せている。

アウグスト・ザンダーの写真が立体化された

少女の右手と少年の左手は固く結ばれている。身体は非常に近接しており、事実、少女のスカートと少年の着用しているエプロン(?)はくっ付いている。手と腕の上部に2個のレモン。硬く組んだ腕の下と腰との間に1個のレモン。さらにテーブルの上に3個のレモンが転がっている。

この2人、ドイツの写真家、アウグスト・ザンダー(1876~1964年)の写真作品「盲学校の子ども」をモチーフにしている。確かに2人とも目が落ちくぼんでおり、目の見える人とは、少し印象が異なっている。目が見えない2人と6個のレモンの取り合わせに驚かされる。もちろん、ザンダーの写真にはレモンなど入っていない。鮮烈な黄色い色彩、この2人には見えない。ただ、香気だけが鼻をうっているはずだ。

カーテン下端からはみ出す直方体3点

2人が立っている向こう側の辺のカーテンの下部からも木製の直方体2本が飛び出している。1本の直方体が下部に、その上にもう1本の直方体が乗っている。上部の直方体は、少しずらされた形で乗っている。そして、この直方体2本の右横にはアクリルのケースで出来た直方体が、やはりカーテンの下部から飛び出している。アクリルの色は赤。直方体の中には木の枝らしきものが2本封じ込められている。

カーテンの2辺には大小のバッジが付けられた

カーテンの連続した2辺には、42個の大きめの缶バッジと7個の小さい缶バッジが不連続に連続したような体裁で付けられている。バッジは二辺をまたぎながら、徐々に右肩上がりのようにして緩やかに上昇していく。(始点を反対側にすれば、左肩下がりに下降していくとも言えるだろう)。バッジには大理石か何かの石の模様のような写真がプリントされている。

カーテンの周りを歩くと、自身の動きが起こした風で、カーテンがびっくりするくらいよく揺れる。そして、その揺れる向こう側に確かに何かが存在する気配が漂っている。

少年少女の立つテーブルはカーテンに差し込まれているので、少しの隙間がある。這いつくばるようにして、その隙間からカーテンで覆われた空間の内部を覗いてみた。すると、内部にはやはり妙なものが存在していた。中国において墓に副葬されるためにつくられた人物模型を俑と呼ぶが、その中心となる陶磁器製の「陶俑」のような感じの立体が手前に2体、奥に3体、木製の直方体を台座として、その上方に設置されている。

また、この5体の人物像の右横には、薄っぺらい長方形の木板をプラカードか黒板のような形状をした物体が2本の柄と接地面のスタンド状の構造に支えられて自立しているのが見える。木製の直方体2本とアクリルの直方体もカーテンの内部に見えている。

以上が「ザンダー(2nd Stage)」という作品のディスクリプションになる。解釈は後ほど。

作品名【圓鍔の盲目の裸婦ー複製

広島県出身、1937年に現在の川崎市中原区小杉にアトリエを構えた彫刻家、圓鍔勝三(1905~2003年)のブロンズ製彫刻「裸婦と佛」(1976年)モチーフにした新作「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」(2026年)は高さ3メートルにも及ぶ巨大な作品だ。

「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」

元にした圓鍔のブロンズ像の高さは65センチだから、単純計算して4・6倍以上も巨大化したわけだ。発泡スチロール板を積み重ねて制作している。制作の際に、ずれや歪みが生じないための目印にするために使われたと思われるマスキングテープが、発泡スチロールのあちこちにあえて張られた状態になっている。

レモンのようにも見える仏陀(下)の頭部

通常なら、作品が完成した時点で、剥がして取ってしまうと思われる、マスキングテープがそのまま残っているため、作品は作りかけの状態のまま、放り出されたような“途中感”が漂っている。跪く少女は右腕と左腕とで仏陀の頭部を捧げ持っている。しかし、その頭部は、黄色く塗られており、大きめの1個のレモンのようにも見える。以上がディスクリプション。解釈は後で。

作品名【三半規管と石(2点)

会場奥に距離を置いて鮮やかなネオングリーンのアクリル板で造形された三半規管が2つ置かれている。どちらの三半規管も冷たそうな石の上に置かれている。ディスクリプションはここまで。

作品名【走る馬と石

金色に塗られたブロンズ製の置物の馬が完全に倒れ掛かった状態で石の上に乗っかっている。4本の脚は斜め上方(空中)に向かっている。石の上にあるとは言え、やや危ういバランスで静止しており、何かがどうかしたら、石から転げ落ちそうな雰囲気だ。ディスクリプションは終了。

作品名【カーテンー空洞(2nd Stage)

自分の頭部を外しながら、カーテンの内部を覗く裸婦

アルミニウム板のような台座の上に、ジェスモナイト(樹脂)製の白い立体が乗っている。よく見ると、前述した「ザンダー(2nd Stage)」のカーテンのひだひだが彫られていることが分かる。そう、これは、あの作品の構造をやや縦横比を変えて構築したものであることが分かる。

カーテンの前には圓鍔のブロンズ彫刻のミニチュア版のような光造形樹脂製のワインレッドの女性が両膝をついて佇んでいる。ただし、両腕で持っているのは仏陀の頭部ではなく、自身の頭部である。本来、頭があるはずの空間には何もない。つまり、切り取られた首を自分自身で捧げ持つといういささか異様な光景が現出している。この頭部は、カーテンの隙間から内部を懸命に見つめているように見える。ディスクリプション終了。

解釈

「ザンダー(2nd Stage)」

元は写真(二次元・平面)だったものを三次元の立体にした少年・少女と鮮烈な黄色のレモンの取り合わせに驚かされる。彼らには、この黄色はまったく見えないのに、なぜ、レモンを置くのだろうか。また、写真では感じられなかった、見えなかった、肉体の量感が新たに生み出されているのには驚かされる。

そして、四辺で覆うことで隠された内部(秘密)を作り出しているカーテン。少年・少女から見て奥側の下辺からは素材の異なる直方体が3本、飛び出している。カーテンに付けられた49個のバッジは、月のようにも見える。よく、月が夜じゅう、移動しているのを長時間露光で撮影した写真があるが、それと同様、1個しかない月が移動する様子を分離した月の形式で一枚の写真の中に収めるかのようになっている。つまり、このバッジは時間を表象しているように思えました。この世の万物は常に変化していって、同じ状態にはとどまらないことをバッジの移動によって表現している気がしました。

わずかな風で驚くほど揺れるカーテンの向こう側には、陶俑のような形状の祈る人物像5体が隠されていた。また、木の巨大プラカードも隠されていた。陶俑ではなく、関根正二(1899~1919年)の代表作「信仰の悲しみ」(1918年)で行列する女性5人のようにも筆者には見えた。這いつくばらなければ、この立体5体は見えない。這いつくばって中を見るのは筆者くらい酔狂な人間しかいないはず。ということは、ほとんどの鑑賞者にとっては、このカーテンの中にいる5体は見えていないことになる。あえて、「隠された立体」を仕込む袴田の真意は何か?

この世で見える現実は、実に表層的なものであって、よくよく、隠された内奥を想像しない限りは、「真実」に到達できないーーそんなメッセージを袴田が発してくれているような気がしました。あまり加彩されていない素朴な陶俑は、そもそも墓の内部に埋葬されるもの。ということは、このカーテンで覆われた区画は、陵墓や古墳のようなものをイメージしているのかもしれません。墓場の横に佇む2体の少年少女も、幽霊のようなものなのかもしれません。

ザンダーの写真の中の2人の少年少女は、五感もなければ肉体もない、平面でしかない存在、つまり幽霊のような存在なわけです。五感もない、魂だけの存在として幽霊のような写真を元にして、無理やり立体化されて、そこにある矛盾。立体なのに幽霊のように不確かな存在が、そこに現出する恐ろしさを感じました。

袴田がこの作品で見せたのは、「不在のはずのものを現出させること」、「この世界から隠されているはずのものを露出させること」だったのだとひとまずは言えそうです。

「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」

ブロンズ製の彫刻は、純然たる立体でしたが、本作は発泡スチロール板という平面を積層させて複製した作品です。「ザンダー(2nd Stage)」は平面を立体にしていますから、まるで反対のベクトル(立体を平面化)になっています。マスキングテープを随所に残し、いかにも作りかけのままで終わらせた感じの漂う“複製”には、当然のことながら、リアルな肉感はまったくありません。ブロンズ製の彫刻には、いかにも自然な肉体の雰囲気があったのに、しょせん、この作品は発泡スチロールですから、張りぼて感しか漂ってきません。

その張りぼてのような女性に付けられたタイトルがねじれにねじれているのを気が付きましたか?
「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」というタイトルに違和感は覚えませんでしたか?

いいですか。圓鍔の元作品は「裸婦と佛」ですよ。佛がなくなり、さらに裸婦は「盲目」になっているのです。会場内で作品を見ると、何となく意味は分かる気がします。「ザンダー(2nd Stage)」の盲目の少年・少女と向かい合わせのように「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」は存在しているのです。いわば、ザンダーの少年・少女から圓鍔の裸婦に「盲目」が転移しているのです。

媒介となっているのがレモンでしょう。本作で仏陀の頭部がレモンのように黄色く塗られているのは、ザンダーの少年・少女から盲目を円滑に転移・移行させる際の媒介(橋渡し役)としてレモンが活用されているのではないか、というのが筆者の考えた謎解きです。合っているか、どうかは知りませんが。多分、袴田だって「正解」なんて知らないはずなので、筆者の推量が、当たろうが、外れようが、そんなことはどっちでもいいのです。後は読者の皆さんが推理してください。考えれば、考えるほど、面白いですよ、この作品。

「右の三半規管と石」「左の三半規管と石」(計2点)

ぱっと見で思い出すのは、彫刻家、三木富雄(1937~1978年)の一連の「耳」の作品です。ただ、三木の場合は、外耳、つまり、身体の外に露出した部分を作品化していました。ここで、袴田がモチーフとして選んだのは、三半規管という外部からは絶対に見えない内耳の感覚器官です。ここでも不可視(隠されているはず)のものが露出させられています、「ザンダー(2nd Stage)」と同様に。

石の上に乗った三半規管

それでは、石の上に三半規管が乗っかっていることをどう解釈すればよいのでしょう?
筆者が直観的にひらめいた単語は「Stone‐deaf」でした。「全く耳が聞こえない」「完全なろう者」という意味の形容詞です。三半規管はそれ単独では音を聴くことはできません。「蝸牛」「前庭」「鼓膜」「耳小骨」「聴神経」「脳」などなど様々な器官と複雑精妙な連携を取りながら、やっと「音が聴こえる」状態になるのです。ポンと三半規管だけが投げ出された状態は、すなわち「deaf」です。それが石=stoneの上に乗っているのですから、これすなわち「Stone‐deaf」なわけです。

「ザンダー(2nd Stage)」「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」は目が見えない状態が作品の中の一つの大きなテーマになっていましたが、本作においては「耳が聴こえない」状態がテーマになっていると推量されるのです。石の上の三半規管だから、「Stone‐deaf」という連想、飛躍がいかにも芸術家らしく、筆者は興味深く作品を凝視してしまいました。

「走る馬と石」

走る馬と銘打っている割りに、本作の馬は完全にひっくり返っています。これでは全く走れません。しかも、石の上にやや不安定な状態で静止している馬が、一体全体、どうやって走れるというのだろうか?

到底、走れなさそうな金色の馬

見えない→聴こえない、の後に続くのが「走れない」になるのです。すべて「~ない」という否定形です。「走れない馬と石」が本来は正しいタイトルでしょう。考古学が好きな筆者は、ここで慄然としました。「石の馬=Stone horses」って、要するに石で作られた馬の像(石馬)ですよね。日本の古墳時代に、まさに墓の守りとしてよく置かれていたあれじゃないですか!

「ザンダー(2nd Stage)」のカーテンの奥に隠されていたのは、陶俑のような5体の祈る立体でした。本作も墓の守りに備えられた石馬じゃないですか! つまり、本作の馬も幽霊の親戚のようなものかもしれないということです。この展示会場内は、幽霊のようなもので満ち満ちているわけです。心霊というのは通常、目に見えません。その不可視の存在を可視化させるために袴田は様々な“装置”を用意して、私たち来場者に謎かけをしているのかもしれないのです。

「カーテンー空洞(2nd Stage)」

いよいよ、最後の作品です。己の頭部を捧げ持ってカーテンの中を覗き込む真っ赤で小型の裸婦を表現した立体作品です。この作品を解くヒントは「ザンダー(2nd Stage)」のカーテン部分にあります。カーテンをよく見ると、1か所だけ切れ目があるのです。少しだけ隙間が空いていて、見えるか見えないかくらいの感じで、カーテンの内部が覗けます。この隙間の位置が「カーテンー空洞(2nd Stage)」で裸婦の頭部が覗き込む場所とほぼ一致しているのです。

「ザンダー(2nd Stage)」に開けられたカーテンの切れ目

しかも、恐ろしいのが、仮に「ザンダー(2nd Stage)」の切れ目の前に裸婦が立って内部を覗いたと仮定すると、奥に見えるカーテンのその先には「圓鍔の盲目の裸婦ー複製」がこっちを向いて立っていることになるのです。つまり巨大な裸婦と小型の裸婦はカーテン越しに向かい合うことになるのです。巨大と小型というサイズの違いはありますが、要するに同一人物、つまり「裸婦」が向き合っているのです。小型の裸婦は頭部を己の首から外して、カーテンの内部を覗いています。尋常ではない見方を試みているということは、これは、通常の「視覚」ではなく、超常現象的な「透視(clairvoyance)」をしていることが示唆されています。

「~ない」「~ない」と、ないない尽くしだった作品群が、ここで初めて、「~できる」という形に変容するのです。ただし、超能力を使ってです。目には見えない不思議な能力を通して、不可視のものを可視化する奇跡が、ここで誕生したわけです。

「目には見えない作品」

出品リストに載っているのは、上記の6点だけになります。ところが、袴田は、とんでもない仕掛けを本作で施しています。実はもう一つ作品があるのです。本作の展示会場がそれになります。会場の「Museum+205(川崎市役所本庁舎復元棟2階)」には面白い歴史が潜んでいます。

コピーされた復元棟。これこそが、袴田作品の本体かもしれない

1938年2月に刊行した川崎市役所旧本庁舎(総工費56万8670円)は耐震性能不足や老朽化から2016年に解体され、いったん78年の歴史に幕を閉じました。しかし、建築的な価値は有識者らからも高く評価されていたこともあり、外観の一部を再現し、創建当時の姿を復刻する「新築復元」の手法を採用して工事を進め、2023年10月から一般への供用開始(お披露目)を行ったのです。

旧本庁舎の建築図面を見ると、Museum+205のあった場所は当時、市議会の「議長室」と市長の「応接室」があった空間のようです。さて、ここで読者の皆さんに問いかけましょう。旧本庁舎の部分的な「新築復元」と袴田の作品群って何かが似ていませんか?

復元と言っても、これはレプリカです。つまり、1938年に建てられたものがオリジナルだとしたら、2023年10月以降、私たちが目にしているのは、見た目は1938年とそっくりでも完全なる「コピー」ということです。「コピー(偽物)だけど本物そっくり」という状態を私たちは寿ぎ、歴史の重みを感じながら、この建築を堪能しさえしているわけです。

袴田が本展でやったこと。それは、圓鍔の彫刻をコピーし、ザンダーの写真をコピーしたことにほかなりません。しかも、立体は平面化し、平面は立体化するという“蛮行”を加味しながらのコピーです。そこに漂う、いかがわしさはどう否定しようとしても否定しきれません。しかも、このインチキ臭さにどうしようもなく魅力を覚えてしまう私たちがいるのも確かなことなのです。

偽物をあたかも本物のようにして見せている川崎市役所本庁舎復元棟も、もしかすると袴田作品同様、何かの墓場なのかもしれません。そう、たくさんの暴力や裏切りや嘘偽りを隠ぺいした「ないない尽くし」の墓場なのかもしれません。袴田作品ではオカルト的な力を借りるという留保はついていますが、「~できる」という形の作品が登場しました。復元棟にも前向きで明るく民主主義的な「できる」力が、はたしてみなぎるのか否か?

90年近い、川崎の歴史そのものを作品群の中に組み入れてしまった、袴田のとんでもない力量に感動した筆者でした。

2001年のベネチア・ビエンナーレで建築インスタレーション「死の家ur」で金獅子賞を取ったのはドイツのグレゴール・シュナイダー(1969年生まれ)でした。筆者も、あの立体迷宮のような作品に冷や汗をかいた一人でした。当時は、シュナイダーの力技に心底、興奮しました。

しかし、袴田の作品の深い歴史性をよーく考えてみてください。川崎市役所本庁舎復元棟の内部に仕掛けたのと同じようなそれを仮にベネチアの古い建物に仕掛ければ、金獅子賞だって軽く受賞できそうです。少なくとも、シュナイダー作品よりも深みがあるように思えました。まぁ、今でもシュナイダーは大好きなアーティストなので、袴田とシュナイダーを天秤にかけようとしているわけではありませんが…。

復元棟あり、ザンダーあり、圓鍔あり、三木富雄あり、もしかしたら陶俑ありと、要するに長いスパンの時空、歴史を踏まえて、個展が催行されている。だから、会場の面積は小さくとも、スケールの非常に大きな展示にすることが可能だったわけです。すべては袴田の知性、感性、構想力、芸術家としての豊かな発想力があってのこと。本当に圧倒された展示でした。

袴田京太朗という偉大な芸術家に最大の賛辞を贈りたいです。(2026年3月8日23時25分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。