【シスターフッド】
女性と女性の絆を感じさせるアート作品をしばしば見かけるようになってきました。街中のギャラリーや美術館を回っていると、はっきりとそれが分かる作品、または、それを暗示させる作品がよく目に付くのです。
横浜・黄金町の高架下スタジオSite-Aギャラリーで催行されていた企画展でも鑑賞しました。作者は実実生(みの・みお)さん。ミクストメディアの「波うつとき」という彼女の作品には、顔のよくわからない女性2人が並んで寝ているように見える情景が描かれています。手をつないでいるのでしょうか。向かって左の方は、ピンク系統の胴体。向かって右の方は、長い銀色の胴体です。

波うつとき
人間が手を結ぶと電流がそこに流れます。親密であればあるほど、電流は強くなるでしょう。あまりにも、その電流が強すぎると、漏電してしまい、お互いの関係性もショートしてしまうかもしれません。右側の長い方は、2人の関係性が安全で長持ちするためのアース線になっているのかもしれません。床まで到達した銀色の胴体のつま先から、「愛の電流」が放出されているようです。
実さんの作品が面白いのは、その形状です。神霊が宿る、依り代のような雰囲気が漂っているからです。通常、シスターフッドを表現する際に、「依り代」的な形状が引っ張り出されることは珍しいでしょう。依り代は、主として神や地霊との交信に使われるものだからです。女性間の親密なシスターフッドが、神さま経由で実現されているように見えるのです。

波うつとき
小さな箱のような形状の作品もありました。実さんは、ここで傘と木々と抽象化された形状の2人の女性を描いているのでしょうか? 詳細はよく分かりませんが、画面全体に漂う温かさ、親密な雰囲気は特筆すべきものがあります。驚くべきは、拙稿「ピンクの両義性」で紹介しましたマリア・ファーラ作品との類似性です。色味や雰囲気がそっくりなのです。もちろん、ファーラの影響を受けたのではなく、偶然の一致だとは思うのですが、それにしてもよく似ています。
実さんもファーラもシスターフッドを重んじている作家だと思います。似た考えを持っていると作品の雰囲気まで似てしまうことがあるのでしょうか? 思想傾向が作品に与える影響というのは、考察に値する問題だなと改めて考えてしまいました。
【素敵なマップ】
シスターフッド、あるいは、ブラザーフッド(男性同士の親密な絆)とかかわりを持つのが「クイア(Queer)」です。
性的マイノリティを包括的に指す言葉です。かつては、文字通り「奇妙な」存在として蔑視されていましたが、今ではそのような意味合いは薄れてきています。
そのような時代の移り変わりを反映しているのでしょうか?

マップの表紙
ヘルシンキの美術館、ホテルなど観光客が多く立ち寄るスポットでよく目にしたのが、「Queer Land」と書かれた大型のマップでした。レズビアンやゲイの人々が気軽に交流できるスポットが紹介されています。バー、セックスストア、サウナなど様々な空間です。レズビアンやゲイを始めとする性的少数者が楽しめる空間を堂々と情報公開している姿に好感を持ちました。

広告欄も充実している
フェミニスト経済学が批判するトピックの一つに、「『分離する自己(=男性)』『溶解する自己(=女性)』の二項対立」というものがあります。他人からも、自身の肉体からも、自然からも切り離された男性。身体や自然に近く他者に溶け込む女性。その両者に挟まれた性的少数者は、分離しているのか? それとも溶解しているのか? どちらなのでしょうか?
答えは、分離でも溶解でもない、です。そもそも、この二項対立は乱暴すぎます。男も女も性的少数者も、分離と溶解、どちらの側面も持って、生きているのですから。マサチューセッツ大学ボストン校名誉教授(経済学)のジュリー・A.ネルソンは、論文「『分離する自己』『溶解する自己』を超えて」(足立眞理子訳)の中で、こう論じています。
フェミニスト経済学者は、男性は根本的に個人的で分離的であり、女性は根本的に連結的で溶解的であるというイメージは現実を歪め、私たちが経済生活を想像し分析するあり方に不必要で有害な制約を与えると主張する。私たち全員がーー自らを、男性、女性、あるいはノンバイナリーと認識するかにかかわらずーー社会的・自然的環境によって深く形づくられた個人であることを理解することは、新たな可能性への扉を開くことになる。(法政大学出版局「フェミニスト経済学ハンドブック」、178ページより)
ネルソンの主張する通り、社会的・自然的環境によって個々の人々は作り上げられているのであって、ジェンダー二元論のような、ある意味、“分かりやすい基準”に基づいて作り上げられているわけではないのです。二元論的な思考からすると、性的少数者はクイアに思えるかもしれませんが、二元論を採用しなければ、もっと人間は自由に生きられるはずです。
わが国でも、堂々とした形で性的少数者が楽しめるスポットを紹介するマップが配布される日が来ればいいなと思います。そのような社会は、男も、女も、性的少数者も、みんなが伸び伸びできるはずです。
【こぼれる米】
男性の同性愛者の蔑称「おかま(オカマ)」と、そのオカマと仲良くする女性「おこげ」と、どちらも何となくお米に関係している言葉であるのは興味深いですね。(おかまは実は「お釜」とは語源的に関係ないみたいですが……)。
米の値段が相変わらず高止まりしています。日本人にとっては主食なだけに、「ぜいたく品」になってしまうのは本当に困ります。とにかく、高い米が某日、電車の座席の前に散らばっていました。約2合(300グラム)、粒で表すと、1万5000粒以上にも上る量です。
筆者は小食な人間なので、1合の半分炊けば、1食としては十分です。ですから、4食分の米が目の前に散らばっていたのです。米をこぼした方は、掃除、つまりお米を拾うこともなく、そのまま、どこかの駅で降りてしまったようで、現在は、4歳くらいの就学前児童(男児)とその母親がお米の真ん前の席に座っています。

ああ、お米が、お米が、がしがし踏まれている
筆者がびっくりしたのは、そのお子さんが長靴をはいた足で米をがしがし踏んでいたことでした。全然、楽しそうな感じではありません。単なる暇つぶしのように米を踏み続けているのです。20歳代後半くらいのお母さんは、我が子が米を踏んでいるのを見て、何も注意しません。
「お米一粒の中には88人の神様がいる」と言われて育ってきた筆者には、正視するに忍びない光景です。「あーっ、お米様が踏まれて、痛そうにしている。ごめんなさい、ごめんなさい」と、その母子になりかわって、心の中でお詫びをしました。
それにしても、お米を踏むことに何の罪悪感も覚えない世代が生まれているのですね。ちょっとびっくりです。筆者が特別、道徳家というわけではなく、わが国では、お米に対して、非常に丁寧な態度で接してきたはずなのです。
昔は、たとえば外食店でご飯をお代わりする際も、茶碗の内側に一粒でもお米が付いていると、「きれいに一粒残さず食べてから、お椀を出して」と“大将”に怒られたりしたものです。米を踏み続ける子どもの姿を見たら、あの大将、卒倒するかもしれません。
「サイン・シンボル大図鑑」(三省堂)で「米」を調べてみました。すると、米にはこんな意味があるようです。
豊穣・不死・精神的滋養・純潔・知識を象徴する。婚礼で米を投げる習慣はインドに由来し、多産や幸福を表す。日本では、悪魔祓いの力があるとも考えられた。
つまり、お米を踏めば踏むほど、もしかすると貧しくなっていく恐れがあるということです。あの母子は二人とも無邪気そうな雰囲気だったのですが、本来はお米様を踏むなど畏れ多いことなのです。
1929年から1930年にかけて「短歌戦線」「短歌前衛」などに出詠している泉春枝(生没年不詳)の「教壇の歌」から米の重さをひしひしと感じさせる短歌をご紹介します。
ひどい病気は好きだと言ふのだ聞けば米のまゝが食べられるつて児童の話にうたれる
病気にかかれば「米のまゝ」(白米のご飯)が食べさせてもらえるから、「病気は好きだ」と語る教え子の姿を見て、胸を痛める泉教諭の真情が吐露されています。泉さんがこの歌を詠んだのが何歳かは分かりませんが、仮に新米教師だったなら、1929年に20代前半。今、生きていたとしたら、どんなに若くても120歳ということになります。まぁ、とっくの昔に彼女、お亡くなりになっているのでしょうね。
ただ、もし泉さんが今、生きていて、電車内のこのこぼれ落ちたお米を見たら、多分、丁寧に手ですくって、風呂敷に包んで持ち帰り、約100年前に戻った上で、そのお米を欠食児童の親御さんにプレゼントするでしょうね。歌の中に出てくる児童と、電車の中でお米をガシガシ踏んでいる子供と、多分、年は数歳も違わないと思います。物質的には1世紀前と比べて豊かになったかもしれませんが、それと引き換えに精神的には貧しくなってしまったのが、現代を生きる私たち日本人全員なのかもしれません。
いい、坊や!お米だけは絶対に踏んじゃダメだよ。(2026年2月25日20時10分脱稿)

