【ダラット記3(最終回)】
ベトナム・ダラット市街中心部の「ダラット市場」から、そんなに遠くない一角に、壁画通りがあります。
ここは、お洒落なアンティーク・ショップ、雑貨店、チョコレート・ショップ、もちもちピザが売りの本格イタリア料理店などが立ち並ぶエリアです。また、一般の住宅や学校、空き地などが混在しています。拙稿「彩字記#2」で言及したポルトガル・リスボンのアルファマ地区と同様に、高低差のある迷路のような場所です。

壁画が存在するエリアのマップ。オレンジの線の周辺に大量の壁画がある
ダラット市とアーティスト集団らが協働して2019年に生まれた空間を経めぐるだけで、アートを満喫できるのですが、面白いのは、多分、公式のアートと非公式のアートがせめぎあっている点でしょう。
NYの下町を舞台に、イタリア系不良グループのジェット団とプエルトリコ系のシャーク団の抗争と愛を描いた「ウエスト・サイド物語」を筆者は思い出したくらい、まったく異なる“アート”が拮抗しております。まぁ、このミュージカルは「不良対不良」の闘いですが、ダラットの場合は「行政公認の優等生対不良」の闘いということになります。

女性と花々という何とも面白みのない作品
まずは、筆者がそれほど評価しない、優等生の作品をご紹介しましょう。
大きな黄色の花を頭部にあしらった女性のポートレートが建物の側壁に描かれております。その奥には、色とりどりの花々が外壁を覆っています。まぁ、確かにきれいと言えばきれいですが、しょせんは観光スポットの記念撮影の背景に過ぎない、大して面白味のない作品と言えるでしょう。

「チェリーブラッサム」
高級なチョコレート・ショップの外壁部分には、満開の桜の花が描かれています。ちゃんと、作家の名前や作品名「チェリーブラッサム」などの諸情報が記載されたプレートまであります。いかにも公式作品の顔です。関係ありませんが、筆者はこのタイトルを見た瞬間に、松田聖子先生(1962年生まれ)の同名ヒット曲(1981年)の歌詞が頭をよぎりました。
何もかもめざめてく 新しい私
走り出した船の後
白い波踊ってる
あなたとの約束が叶うのは明日
胸に抱いた愛の花
受けとめてくれるでしょう
どうでしょう、この「ユーフォリア(Euphoria)」な感じは?
筆者にはついていけません。あまりにも甘すぎる。そして、陽気すぎる。
拙稿「彩字記#24」で「(社会公認の)パブリックアートは生ぬるい」という指摘をしたのを読者の皆さんは覚えていらっしゃいますか?
結局のところ、松田聖子のこの歌詞的なるものは生ぬるいパブリックアートに通底するものなのでしょう。本来、アート作品は、資本主義と完全にフィットしてしまうことを良しとしないはずです。ところが、ダラットの優等生壁画は、松田聖子のヒット曲の歌詞をそのまま表現したような向日的な明るさに満ちています。
筆者は、このような作品を見ると、正直、「偽善的だなー」という印象を禁じ得ないのです。壁画、グラフィティというものは、本来、ジェット団とシャーク団の抗争さながらの激しさがあるものなのです。ところが、この花の壁画には、まったく荒々しさがありません。すべての反抗的精神を去勢された、明るくてきれいな世界しか、そこにはない。

五芒星のモチーフをうまく生かした作品
まぁ、中には「五芒星」のモチーフを巧みに生かしながら、ストリート感覚あふれる作品やベトナムとゆかりの深い細菌学者アレクサンドル・イェルシン(1863~1943年)のポートレートなどもありますが、観光客向けの小粋な撮影スポットのような作品が目立ち、げんなりします。

細菌学者イェルシンの壁画
ところが、面白いのはここからです。優等生の作品は、大通りから比較的、距離的に近い場所に描かれていますが、奥に入れば入るほど、非公式の作品が多くなってくるのです。狭い路地で、人が一人通れるくらいの道幅の場所もあります。また、建物と建物の隙間のような空間に壁画が描かれております。こちらの方が、松田聖子的なる作品よりもはるかに面白いのです。
みんな狭い場所に描かれているので、超広角で撮影しても作品の全体は入りません。みんな斜め方向から撮影していますので、ご了承いただいた上で、筆者の撮影した作品群の一部を今から公開いたします。

親子のオクトパス

ツートン・カラーにそれぞれ作品が乗っている

ワニみたいな作品

簡易食堂のイスなどに覆われた作品

こちらも屋外の食堂に覆われそう

人一人が通り抜けるのがやっとな通路

狭い通路に描かれた作品
いかがでしたでしょうか?
少なくとも、花々よりも面白いことは間違いないでしょう。花々が公式アートで、このいかにもグラフィティそのもののような作品は非公式アートなのだと思います。非公式作家は、生ぬるい公式アートに対して「ふざけんなよ」と抗議しています。すなわち、「アートがジェントリフィケーションに利用される」ことに対する抗議をしているのでしょう。
「魅力あふれる街並み(空間)を創出するためのアート」
「居住者をハイクラスな人間ばかりにそろえるためのアクセサリーのようなアート」
このような「ジェントリフィケーションアート」は、電通や博報堂が利活用するものであって、実はアートの名に値しない、ただの松田聖子的なる甘やかな叙情に過ぎません。
ダラットのこの壁画プロジェクトを見ていると、資本主義に貢献できる正式な作品と、資本主義に「No」と抗議する非公式の作品が拮抗していました。反資本主義の立場である筆者が評価するのは、もちろん後者です。
グラフィティはヴァンダリズム(破壊行為)の一種と見られることが多いのですが、実は多くの場合、慎重に作品を描く場所を選んでいます。不文律のルールのような感覚が描き手にも備わっており、一般人の個人的な空間に迷惑をかけるような例は実は少ないというのが筆者の結論です。安易に「落書きは犯罪です」と決めつけてしまう行政や知識人の不見識にはあきれてものも言えません。

街並みに活気を与える作品
素晴らしいグラフィティ作品があるおかげで、街にどれほど活力や魅力が生まれていることか、そのポジティブな側面を皆さんも考えてみませんか?
拙稿「一期一会の芸術」でも皆さんにお伝えしましたが、ストリートアートには一期一会の感覚があふれています。
人生に限りがあり、様々な移ろいがあるのと同じように、グラフィティには「瞬間にしか感じられない移ろいの美学」が確かにあるのです。半永久的に守られることを前提にしたミュージアムの中の作品は、ある意味、甘やかされているのです。そして、生ぬるいのです。
筆者はこれからも世界中の街のやんちゃな作品たちを求めて、隅から隅まで歩いていこうと思います。(2026年3月7日17時25分脱稿)
*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

