ペンは酸よりも強し(おまけ)市原尚士評

「ペンは酸よりも強し」シリーズで合計6回にわたり、国内美術館におけるペン使用NGの謎について、多角的な視点から批判を展開しました。その中で、筆者が常に考える理想の鑑賞風景があります。連載は一応、終わりましたが、書き洩らしてしまったことがあったので、「おまけ」としてご紹介したいと思います。ペンNGと関係がないように見えて、実は関係がある話になりますので、お楽しみに…。

例えば、ヨーロッパやアメリカの美術館に行けば、しょっちゅうこんな風景に出くわします。

小学校低学年くらいのかわいい子供達30人くらいが、ある名作の前に集まっています。その子たちを前にして、美術館のスタッフが解説をしています。一つしかない正解を伝達するという姿勢からはかけ離れています。作品のポイントになる重要な一部分について、疑問を投げかけるスタイルが多いです。子どもたちは自分の考えた、思い思いの“答え”を率直に表明していきます。すると、スタッフは子どもの答えを決して否定することなく、さらに深い質問を続けていくのです。児童相手とバカにできません。非常にレベルの高い問いかけが続くので、筆者は子どもの近くに立って、自分もスタッフの質問に心の中で答えて、鑑賞のヒントにすることもあるくらいです。

もう一つ、しばしば出会う風景にはこんなのもあります。

やはり児童20~30人くらいが、自分の好きな作品、あるいは美術館側から指定された作品などの前に座って、模写をしているのです。鉛筆、色鉛筆、クレパスなどなど様々な画材を使っています。みんな熱心に制作に取り組んでいます。注目すべきは、その「姿勢」です。精神的な意味合いではなく、文字通りの姿勢です。子どもたちは、美術館の床に直接、お尻をつけていたり、寝そべっていたりと本当に自由気ままな感じで楽しんでいるのです! 別に美術館のスタッフの側も「行儀よく描きなさい」みたいな野暮なお説教は一切していません。だから、子どもたちも本当に自由気ままに模写を楽しんでいるのです。

美術館のスタッフの解説の声は、模写の指導の声は、いわゆる「ひそひそ声」ではありません。堂々とした、明瞭な発音、声量で話しています。子どもたちは作品のすぐ近くで模写をしています。作品は、ガラスケースに入っているわけでもないし、アクリル板が作品上を覆っているわけでもないし、結界が設けられているわけでもありません。むき出しの状態の名画を前に、わいわいがやがやにぎやかに、鉛筆ではない文具も駆使しながら、模写をしているわけです。国内ではほとんど考えられない光景です。

このように自由で、来館者を信用した姿勢に立脚した館の運営・運用がどうして日本ではできないのだろうか?といつも筆者は不満を抱きます。

皆さんに問いかけます、重要なことです。
幼児のころ、小学校低学年のころ、あんなに、みんながお絵描きを愛していたのに、いつから絵が嫌いになってしまったのでしょうか?
筆者は、幼児の絵も頻繁に鑑賞していますから、その魅力と限界を熟知しています。幼児の絵ならではの限界があるというのは、これは間違いありません。また、幼児の絵に特有のパターンというものも確かにあり、そのパターンもせいぜい5つか6つ以内に納まる程度しかありません。言い換えれば、お子さんの絵には、それほど多くのバリエーションはありません。しかし、そのような限界を忘れさせてくれるほどの魅力が児童の絵にはあります。(この児童の絵の魅力は、また別の原稿で詳述しましょう)。

小学校高学年、中学校くらいになると、進学に必須の「英語・数学・国語・理科・社会」(英数国理社)ばかりを重視しだします。そうなると、とたんに美術(含む書道)や体育や家庭科は内申点を良くするという観点でのみしか捉えられなくなります。つまり、割とどうでもいい科目、メーンではないサブの科目として軽視されるのです。受験や様々なテストで重視されていない科目に、子どもや親御さんが関心を持てなくなるのは、当たり前でしょう。

幼児のころに誰もが持った美術への関心が、小学校高学年ごろに受験のせいで断絶し、その後、二度と復活しないから、国民全体の美術、及びミュージアムに対するリテラシーが貧困になってしまう。読解能力が低い国民ばかりだから、ミュージアムも「声もペンも禁止」というある意味、利用者を子ども扱いするような対応しかできなくなるのではないでしょうか?

誰もが、受験とか偏差値には興味があるようですから、その興味を逆手に取った、美術の振興策を提言したいと思います。

受験において、問題の中に自然な形で「美術」を組み込むことに挑戦してみませんか?

例えば、国語の試験問題です。歌川広重(1797~1858年)の「東海道五十三次の内 蒲原」のカラー画像を問題用紙にバーンと大きく載せてみるのです。

問題は、シンプルです。「この絵は何を描いていますか」「この絵に描かれた人々が、どのような独り言を呟いているか、自由に書きなさい」「1週間後、絵の中の人々はどこに行って、何をしていると思いますか?」などなど。

数学や科学的な観点からは、「蒲原」を用いて、こんな質問もできるでしょう?
「この浮世絵の中に三角形はいくつありますか? なるべくたくさん列挙しなさい。そして、その三角形が作品にどのような効果を与えていますか?」
「この浮世絵の中に四角形はいくつありますか? なるべくたくさん列挙しなさい。そして、その四角形が作品にどのような効果を与えていますか?」
「この作品で使われている、色彩は何色ありますか? それぞれの色が作品に与えている効果を物理的、心理的な観点から自由に論述せよ」

小論文の問題にもなるでしょう。藤沢周平(1927~1997年)のデビュー作「瞑い海」(1971年)の中の、このくだりを試験問題中に引用するのです。「藤沢周平全集 第一巻」(文藝春秋)の28~29ページより。

恐ろしいものをみるように、北斎は「東海道五十三次のうち蒲原」とある、その絵を見つめた。
闇と、闇がもつ静けさが、その絵の背景だった。画面に雪が降っている。寝しずまった家にも、人が来、やがて人が歩み去ったあとにも、ひそひそと雪が降り続いて、やむ気色もない。
その雪の音を聞いた、と北斎は思った。そう思ったとき、そのひそかな音に重なって、巨峰北斎が崩れて行く音が、地鳴りのように耳の奥にひびき、北斎は思わず眼をつむった。

問題は、こうです。「あなたが北斎だとしたら、この作品(=蒲原)のどんな部分を恐ろしいと思うか?自由に論述せよ。ただし、藤沢周平の文章と似ていれば似ているほど減点するのでご注意あれ」

いかがでしょうか? 別に浮世絵ではなく、ルノワール(1841~1919年)の名画やメダルド・ロッソ(1858~1928年)の彫刻作品「Ecce Puer(この少年を見よ)」の画像でもなんでもいいんです。アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908~2004年)の「決定的瞬間」、とりわけ駅舎、鉄柵、ポスター、水たまり、瓦礫、はしご、人間とその影が同時に共存する奇蹟的な一枚、「サン=ラザール駅裏、パリ」(1932年)をテーマにしてもいいんです。

ブレッソンの写真だったら、こんな問題を考え付きます。
「写真中央右側にいる男性は、どうして、はしごからジャンプして水面に飛び込むことになってしまったのか? その理由や写真の撮られる前に存在したであろう物語や情景を自由に1200字以内で論述せよ。ただし、ブレッソンの指示に写真内の男性が従った“やらせ”だったという回答はNGとする」

この問題に答える際には、数学、物理、世界史、国語、美術(含む写真)などなど、どんなジャンルの知を活用してもよいのです。採点基準は、学問的に正解であるかどうかよりも、文章として面白いかどうか、です。美術史や写真史にのっとった四角四面の回答ではなく、受験する一人びとりの人間が自身の持っている記憶や体験や知識をフルに駆使して、どれだけ魅力的で面白い文章世界を作れるか否かを“採点”するのです。

このように、受験に美術を取り入れることによって、どんな効果が生まれるでしょうか?

そうです、子どもたちは、受験対策という名に釣られて、美術作品をよく見るようになるでしょう。そして、教科書的な回答ではなく、創造性あふれる自由な記述こそが評価されると分かれば、参考書、問題集の丸暗記という不毛な勉強ではなく、発想力や表現力こそを伸ばそうと努力するでしょう。

参考書の丸暗記式教育には、未来がまったくありません。生成AIがすべての教科の参考書を丸暗記してくれるからです。2030年代、2040年代……2100年代に生きる人間にとって求められるのは、生成AIが決して出力できないような、自由な発想力の産物です。

また、生成AIは、決して作品に「感動」することができません。彼らができるのは、作品に感動したことを叙述した人間の言葉をまとめることだけです。つまり、ある作品を見て、感動できるのは今のところ人間だけです。

「英数国理社」のいわゆる主要科目よりも、美術(つまりアート)に感動する心の方がより重視される世の中がまもなく、いえ、もう、すぐそこまでやってきています。美術科を主要科目の上位に据えた形のカリキュラム、そして受験システムに改変することによって、現在の日本人に最も足りない独創性、突破力、異文化理解への感性が育まれると確信しています。

文科省の皆さん、各県教委の皆さん、私が拙文で書いたカリキュラムや受験問題は、たいしてお金もかからずに実現できるはずです。英数国理社の上に位置するアート力の重要性に、もう少し気づいてください。

読者の皆さんに最後にプレゼントがあります。

「ペンは酸より強し」だけでなく拙稿全般に、温かく励ましの言葉をかけてくださる富井玲子先生ですが、お連れ合いはストリート・フォトグラファーとして知られているジェフ・ロススティーン(Jeff Rothstein)氏です。富井先生を通して、ロススティーン氏がメトロポリタン美術館で撮影した、素敵な作品(2006年)の画像を無償提供してくださったのです。

Photo by Jeff Rothstein

いかがでしょうか?
この写真を見て、筆者は「これ、これ、これなんだよ。筆者の好きな美術館の姿って」と激しく共感しました。

ロススティーン氏に「作品に込めたメッセージは?」と尋ねて、次のようなキャプションをいただきました。

お母さんと娘さんは、模写とカメラというメディアを使って作品に興味を示していますが、息子さんはなんというか二人のしていることにも、絵にも興味ないというか、早く帰りたい風情が見え隠れしたりして…

さすが、写真家です。作品へのディスクリプション(Description)も完璧です。作品を丁寧によく見ること、そしてそれをなるべく精細に記述するのが、鑑賞の基本です。そして、ディスクリプションを行う上で、彼が披露してくださった、遊び心の精神、「sense of humor(洒落っ気)」は絶対に必要なのです。生成AIには、この遊び心の精神、つまり、真の創造性はないのですから…。

ロススティーン氏の写真1枚を見て、自由に思ったこと、考えたこと、感じたことを制限時間60分で1200字以内にまとめる、なんて問題が大学受験で出題されるようになれば、日本の未来も安泰ですね。

この写真で描写されている光景は、「話し声もペンもNG」という世界から遠くかけ離れていることに、読者の皆さんも気が付いたことと思われます。いいですか? 日本で厳禁とされている行為が、海外の先進諸国では、今、この瞬間も自由に楽しめているんですよ? 自由な創造性を養う行為が片やNG、片やOKなんですよ? どれくらい、国力に差が付くと思いますか?

日本が他国から真に尊敬される国になることを本気で目指そうと考えているのであれば、「ペンは酸よりも強し」などと、くだらないことを言っている場合ではありません。今すぐにでも国際標準にのっとった芸術鑑賞が可能な態勢に変革しなければなりません。生成AIにまったく負けない、クリエイティブな感性を生み出すために、日本の美術館はもっと自由にならなければいけません。読者の皆様、そしてミュージアムの皆様、あなたもそう思いませんか?(2026年2月22日20時10分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。