序論 美術大学とアート市場の断絶
日本の美術大学は毎年多くの卒業生を社会に送り出しているが、制作活動のみで生計を立てることができる作家は限られている。美術大学の教育制度は高度に整備されている一方で、卒業後に作家として自立するための制度的な「出口」は十分に整備されているとは言い難い。この問題は長年指摘されてきたが、日本の美術制度は必ずしも市場中心のシステムとして発展してきたわけではない。
戦前の日本ではアカデミーといえる美術学校に加えて、サロンといえる官展(文展や帝展)が、ある種の制度的な権威となり、それに入選することで価値が保証されて、市場価値を持つという機能をもっていた。戦後は、官展がなくなり、それを継承した日展や院展、あるいは二科展や独立展などの公募団体展がその代替となったが、まず戦前から萌芽のあった前衛表現が中心となり、売買に不向きな作品が増えたこと。戦前にアートを受容していた富裕層が解体されたこともあって、一部の日本画家をのぞいて、美術家を職業にできる人は少なくなり、子供が増加したことによって膨らんだ大学や予備校、高校といった教職が、美術家として活動するための職業となっていった。
筆者は、美術生態系として、作家・メディア・受容層の三要素で成立するメディア依存型のアートと、作家・制度・受容層・空間という四要素を必要とする空間依存型のアートに分類している。特に空間依存型のアートは、戦後、制度・受容層・空間の三要素が空襲やGHQの戦後政策、住宅空間の変容などの影響で解体され、作家だけが残されることになったことも、生計を立てることが困難になった理由である。
この問題は全国的なものであるが、京都においては特に切実な形をとる。京都には京都市立芸術大学・京都芸術大学・京都精華大学・嵯峨美術大学など複数の美術大学が集積しており、首都圏以外では最大規模の美術系卒業生を毎年輩出している。しかし京都のクリエイティブ産業の規模は大きくなく、多くの卒業生を吸収するだけの雇用は存在しない。東京とは異なりメディア産業も限られており、マスメディアや広告といった隣接産業との関係は弱く、作家がメディア依存型の回路で活動の場を広げる機会も限定されている。こうした構造の中で、教職の数が限られている現在、アーティストとして制作を続けるためのもっとも持続的な手段は、作品を売ることである。美術大学の集積と出口の不在という矛盾が、他のどの都市よりも鮮明に現れているのが京都という場である。
こうした歴史的・地域的文脈の中で、2018年に京都で開始されたARTISTS’ FAIR KYOTO(以下、AFK)は、戦後に失われた空間依存型の美術生態系を再編するための、きわめて具体的な制度的実験として位置づけることができる。その特徴は、アーティストが主導するアートフェアであり、若手アーティストが直接コレクターに販売することにある。本稿はAFKを、失われた四要素を21世紀の条件のもとで再編する試みとして分析し、その可能性と限界を明らかにする。
本稿の分析は、美術史家・富井玲子のいう「オペレーション」という概念とも接続する[1]。富井は、団体展や貸画廊を含む、作家が観客に作品を届けるための実践を「オペレーション」として捉え、戦後の美術生態系を読み解いた。本稿はその問題意識を引き継ぎつつ、AFKを21世紀における新たなオペレーションとして分析するものである。
第一章 制度の空白――戦後前衛から90年代まで
序論で述べた「美術大学とアート市場の断絶」は、偶発的に生じたものではない。戦後日本の美術が辿った歴史的経緯を追うと、制度との関係において一貫した選択の積み重ねが、この断絶を構造的に生み出してきたことが見えてくる。
その出発点として、具体美術協会(以下、具体)の位置づけを確認しておく必要がある。吉原治良は二科展に所属した後、1954年に具体を立ち上げた。具体は既存の団体展の枠組みを利用しながら前衛的な表現を実践するという、制度の内側に留まりつつ制度を更新しようとする試みであった。この点で具体は、制度を全面的に否定するのではなく、制度と緊張関係を保ちながら活動した例外的なケースと言える。
しかし、戦後前衛の主要な舞台となったのは、団体展ではなく読売アンデパンダン展であった。無審査・無制限を原則とするこの展覧会は、既存の美術制度への反発から出発し、多くの作家を輩出すると同時に、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズやハイレッド・センターなど様々なグループを生み出した。ただし、赤瀬川原平の『反芸術アンパン』が詳述するように、回を追うごとに表現はエスカレートし、最終的には主催団体が展覧会の開催を取りやめ、アーティストたちも離散することになった。制度への反発から始まった運動は、制度なき自由の内的論理によって自壊したのである。
その後の世代、もの派や美共闘などのグループも、具体とは異なり団体展のような組織的な形をとらない緩やかな集まりであった。市場で取引されること自体を拒否するような形態をとったことで、作家の活動は生活基盤から離れていった。制度への反発と市場からの距離は、前衛としての純粋性を担保する一方で、作家が社会的・経済的に自立するための回路を同時に断ち切るものでもあった。
読売アンデパンダン展の自壊後、前衛の担い手たちは複数の方向へと分散した。荒川修作、工藤哲巳、篠原有司男といった一部の作家は活動の場を海外に求めた。赤瀬川原平のように、前衛美術から離れてイラストレーションや漫画、エッセイ、小説へと表現の場をメディア依存型に移した作家もいた。一方、岡本太郎は、テレビ出演や著作活動といったメディア依存型の実践と、《太陽の塔》に代表される公共空間での実践を併行させた。これは市場や団体展とは異なる回路によって作家活動を持続させた例であり、戦後日本における別様の生態系的解決として位置づけることができる。
この流れを受けて、日本画を除けば団体展に所属するアーティストは少数派となっていった。まだ現代アートの市場が小さく、コマーシャルギャラリーがわずかだった時代、教職に従事するアーティストは、貸画廊を主な発表場にしていた。もちろんそこから収入はほとんど得られない。貸画廊は日本独自の制度と言われるが、読売アンデパンダン展などの無審査のシステムを継承した民間の制度だったといえる。
1990年代に日本の現代美術が国際化を迫られた際も、参照できる制度的基盤はなく、アーティストは個別に試行錯誤するしかなかった。序論で述べた美術大学とアート市場の断絶は、こうした戦後の制度否定の歴史が残した構造的な空白の帰結である。
2000年代以降、日本各地で開催されるようになった地方の芸術祭もまた、パブリックアートのように地域行政と結びついた空間依存型のアートの新たな形態として位置づけることができる。しかし、こうした芸術祭に携わることのできるアーティストは限られており、多くの作家にとって制作と生活を持続するための回路とはなりえていない。AFKが取り組もうとしている問題は、この深い歴史的文脈の中に置かれている。
第二章 四要素の再編としてのAFK
AFKの制度的特徴を、空間依存型生態系の四要素(作家・制度・受容層・空間)の観点から整理する。
作家
AFKでは、ギャラリーを介さず作家が直接出展する。従来の空間依存型アートフェアにおいて、作家はギャラリーという制度を通じてのみ市場に接続される。AFKはこの構造を意図的に排除し、作家が受容層と直接向き合う形式を採用した。この直接性は、作家と受容層が媒介を短絡するという点で、メディア依存型の構造に部分的に近い。空間依存型の外皮を持ちながら、内部の論理においてメディア依存型の直接性を組み込んだ点がAFKの制度的独自性の一つである。
制度
AFKの中核的制度は、現役作家がアドバイザーとして若手作家を推薦するシステムである。ギャラリーという外部制度を排除しながら、作家コミュニティの内部に推薦という制度的論理を埋め込んでいる。この構造は、先輩作家が若手を育成・評価する戦後の公募団体展(日展・二科展等)の機能と類似している。団体展が担っていた新人育成機能を、市場型イベントの形式で再編したと見ることができる。
同時に、AFKは京都府や文化庁の支援を受けており、公的制度と市場原理が交差する独自の制度空間を形成している。制度を完全に排除したのではなく、ギャラリーシステムを排除しながら別の制度的支柱を調達しているのである。とはいえ、日本では現代アートのコマーシャルギャラリーの歴史自体が古くはないということもある。
ただし、ギャラリーを介さない直接取引という形式は、当初から課題も伴っていた。適切な価格のコントロールや国際的な展開における限界がその代表であり、排除されたギャラリー側からの冷ややかな視線もあったと思われる。しかし、AFKが実績を積み重ねるにつれて、この関係は変化しつつある。主要なコレクターとの取引実績を持ち、固定的な顧客を獲得したAFK出身のアーティストは、今日ではギャラリーや百貨店にとって魅力的な存在となっている。
その結果、ギャラリーや百貨店、あるいは蔦屋書店のような新興のアートディーラーとの関係を築くAFK出身作家が生まれ、生態系は当初の設計を超えて拡張しつつある。これは注目すべき逆転である。ギャラリーを排除した制度設計は当初、脆弱性とも見えたが、実績の蓄積を経た現在では、作家自身がギャラリーシステムに対してより対等な接続点を持つ契機ともなっている。
受容層
AFKが形成しつつある受容層は、旧来のコレクター像とは異なる。IT企業経営者やクリエイティブ産業に関わる人々など、冷戦終結後のグローバリズムと国際的な美術市場の拡大によって生まれた新興富裕層が多くなっている。これは明治期に洋館を持ち西洋美術をコレクションした富裕層の現代的更新として読めるかもしれないが、決定的な違いがある。明治の受容層は美術を飾り鑑賞するための物理的空間を自ら所有していたのに対し、今日の新興富裕層は必ずしもそうした空間を持たないし、自宅における応接文化が継承されていない。受容層は更新されたが、空間との結びつきは完全に更新されていないのである。
AFKにおける購買行為は、単なる消費を超えたパトロネージュとしての性格を持つ。作品を購入することはアーティストを支援するという意味において、かつての庇護者としてのパトロンの機能を現代的に更新するものである。売上が直接的な選抜に結びつくわけではないが、誰の作品が売れているかという情報は作家同士、あるいはコレクターの間で共有され、一つの評価指標として機能する。それは厳しい競争の場でもあるが、同時にどのような作品が受容層に評価されるかを可視化する場でもある。
ただし、現在では認知度が高まり、富裕層だけではなく、作品を購入する人も増加している。AFKの狙いは、国内における文化投資の拡大の側面があり、日本人が日本の文化を支える基盤そのものといってもよい。その意味で、アーティストフェアは、人材投資であり、広く一般客まで含む文化投資の側面を持つ。
空間

京都文化博物館別館会場

京都文化博物館別館会場内部
AFKの会場選択は、その制度的性格を最も直接的に表現している。初回から数年間のメイン会場となった京都文化博物館別館は、1906(明治39)年竣工の旧日本銀行京都支店であり、辰野金吾らが設計した国の重要文化財である。この天井の高い近代建築の内部に、建築グループ・ドット・アーキテクツが工事用の足場とフェンスによって二層構造を仮設し、空間全体を展示に使用した。二階部分ではヘルメット着用が義務付けられ、フェンス越しに作品を見るという非日常的な高揚感が生まれた。別会場として使用された京都新聞ビルの地下印刷場跡もまた非日常的な空間であり、巨大な彫刻やインスタレーション作品の展示に充てられた。さらにアドバイザリーボードの作家たちは、清水寺・渉成園・東福寺といった著名な歴史的空間で展示を行い、それらを巡ることで芸術祭的な広がりが生まれた。

京都国立博物館明治館会場

京都国立博物館明治館会場内部
近年、メイン会場は京都国立博物館明治館へと移行している。片山東熊が設計したこの建築は、ルーヴル美術館に代表されるフランスのバロック風の宮廷様式を参照したものである。この移行は制度的に見て極めて示唆的である。なぜならば、19世紀のサロンはまさにルーヴル美術館内で開催されていたからだ。当時のサロンの展示は、現代の美術館のように視線の高さで直線的に並べるものではなく、床から天井付近まで空間を覆い尽くすように作品が掛けられていた。AFKの展示もまた、空間全体を密度高く使うという点でこの形式に近い。フランス宮廷様式の建築の中で、かつてのサロンの展示方法を想起させる形でアートフェアが開催されるという構造は、比喩としてではなく建築史的・展示史的な意味においても、サロンの再出現と呼びうるものである。
AFKの会場選択を広い歴史的文脈に置くと、二つの系統の展示空間が浮かび上がる。京都文化博物館別館や京都国立博物館明治館のような近代建築は、西洋文化を取り入れた応接空間の系譜に属し、清水寺・渉成園・東福寺方丈のような和風建築は、床の間を中心とする和の応接空間の系譜に連なる。AFKは、この洋と和の二つの系統にまたがる象徴的空間を展示会場として選んでいたといえる。

東福寺会場 ヤノベケンジ作品

東福寺会場 Yotta作品
こうした空間の歴史的文脈に対して、アドバイザリーボードの作家たちも実践的に応答している。清水寺・渉成園・東福寺などの和系会場では、YottaやヤノベケンジがAFKのたびに大型バルーン作品を展示し、境内や庭園に祝祭的な高揚感をもたらし、芸術祭的な体験を生み出してきた。他方、加藤泉、ミヤケマイ、ヤノベケンジらは、掛け軸や床の間といった形式を用いることで、和風建築の応接空間としての文脈を活かしている。これらの実践は、AFKの会場選択が単なる借用ではなく、空間と作品の相互最適化を伴うものであることを示している。

清水寺会場 ミヤケマイ作品

清水寺会場 加藤泉作品

清水寺会場 ヤノベケンジ作品
しかし、問題はその延長にある空間が、現代の民間にはほとんど残っていないという現実である。客人を家に迎え入れる文化が失われ、洋館も和風の座敷も日常空間から消えた今日、空間依存型の美術生態系の「空間」要素をどこに求めるかは未解決の問いとして残る。
住宅だけではなく、外部化された応接空間ともいえる、ホテルやカフェ、あるいは病院やオフィスといった新たな展示空間との接合がこれから模索されることになるだろう。AFKが選んできた象徴的空間は重要な出発点であるが、美術と空間が真に結びついた新たな生態系へとつながるかどうかが、今後も問われ続けることになる。
第三章 サロン的社交空間の再出現
AFKのもう一つの特徴は、その社交的性格にある。会場では作家・コレクター・キュレーターが直接交流し、作品を媒介としてネットワークが形成される。この構造は、近代美術制度の歴史という観点から見ると、モダニズム以前のサロン文化の現代的再出現として捉えることができる。
19世紀ヨーロッパにおいて、サロンは国家が主催する展覧会として機能し、芸術家が社会的評価を得るための最も重要な舞台だった。サロンはルーヴル美術館内で開催されており、その展示は床から天井付近まで空間を覆い尽くすように作品が掛けられていた。
印象派をはじめとするモダニズムはこの制度に対抗して独立展を開催し、やがてサロンという国家制度は美術館・ギャラリーという新たな制度へと移行した。しかし芸術をめぐる社交空間そのものは消滅したわけではない。ニューヨーク近代美術館に見られるように、コレクターや企業家が理事として関わり、展覧会のオープニングや支援者イベントを通じて文化的社交空間が形成されてきた。
この観点から見れば、近代美術の制度史はサロンから始まり、美術館とアートフェアなどに分化したサロン制度の変遷として読むことができる。AFKはその変遷の最新形であるが、国家主導でも美術館主導でもなく、市場とネットワークによって形成される新たな社交空間として機能している。興味深いのは、第二章で論じたように、AFKが近年メイン会場をフランス宮廷様式の京都国立博物館明治館に移したことで、サロン的空間に回帰していることである。また、茶道を中心とした江戸時代の応接文化ともつながっているだろう。
さらに、このAFKの社交的構造を考えるとき、日本のポピュラー文化における「会いに行けるアイドル」というモデルとの構造的類似も指摘できる。AKBは、メディアを通じて存在していたアイドルを、観客が物理的に出会うことのできる存在へと転換した。AFKにおいても同様に、作品だけでなくアーティストそのものが可視化され、来場者と直接関係を結ぶ場が形成されている。この点でAFKは、空間をメディア化したメディア依存型文化の直接性を、空間依存型アートの制度に転用した試みとして読むことができる。
もっとも、アーティストとコレクターが直接出会う空間には、関係性の管理や安全確保という課題も伴う。AFKは約10年の運営を通じて一定のノウハウを蓄積してきたと考えられるが、この点もまた直接性を制度化する上での課題の一つである。
第四章 椿昇というビジョンと制度の持続可能性
1 作家・椿昇の軌跡と制度への問い
ARTISTS’ FAIR KYOTOのディレクター、椿昇(1953年〜)を単なる行政や市場の調整役として理解することは適切ではない。椿のキャリアは、既存の制度や空間に対する継続的な介入と再構成の試みとして展開してきた。
1980年代、関西ニューウェイブの旗手として登場した椿は、鮮やかな蛍光色に塗られた巨大な生物を思わせる《フレッシュ・ガソリン》(1989)など、SF的な想像力を想起させる、物理的・心理的圧迫感を伴うオブジェによって、美術館という制度化された展示空間の静謐さを撹乱した。そこには、自然物への最小限の介入を重視した先行世代との批評的距離と、欧米中心のアートシステムに対する問題意識が一貫して存在していた。AFKは椿にとって巨大オブジェの延長線上にある実践として理解できる。素材が物質から制度へと変わっただけで、既存の構造を撹乱し再編するという姿勢は一貫している。
椿がこうした制度的実践へと向かった背景には、序論で論じた京都の構造的問題がある。卒業生がアーティストとして制作を続けるための出口を整備すべく、椿は長期にわたる試行錯誤を重ねてきた。まず卒業制作展をアートフェアのように販売できる形式に転換し、コレクターやギャラリストを積極的に呼び込んでいった。次に、企業向けに作品をレンタル・販売する組織を京都芸術大学内に設立し、卒業生とも連携しながら運営する仕組みを作り上げた。AFKはこうした一連の試行錯誤の延長線上に生まれた制度であり、京都という場の構造的問題に対する長期的な応答として理解される必要がある。
その問題意識は、「ARTISTS’ FAIR KYOTO」という命名に端的に表れている。国内外で巨大化するアートフェアという産業形態においては、作家はギャラリーの背後に隠れた存在となり、制度の主体から客体へと後退しがちである。「アートフェア」ではなく「アーティストフェア」と名付けることは、作家を制度の中心に取り戻すという意志表明にほかならない。その命名自体が、既存のアートフェアという制度への批評的介入として機能している。
この点でAFKは、芸術を社会構造の変容プロセスとして捉えたヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻(Soziale Plastik)」の概念と響き合う。ボイスが「すべての人間は芸術家である」と述べたとき、彼が念頭に置いていたのは社会的諸関係そのものを造形する行為であった。椿がAFKという制度を通じて、作家・コレクター・批評家・行政・スポンサーという異質な主体を一つの場に統合しようとする試みは、まさにそうした意味での社会彫刻として読むことができる。
2 ギャラリーシステムへの介入
椿がAFKにおいてギャラリーを介さない直接出展形式を採用した背景には、序論と第一章で論じた日本の美術制度の構造的問題への応答がある。作家が市場と接続する回路がギャラリーに一元化されている状況に対し、AFKは作家自身が来場者やコレクターと直接対話する場を制度として設計した。
この構造は作家にとって厳しい条件でもある。作品の価値を自ら言語化し、即座の市場的評価にさらされることは、ギャラリーという緩衝装置を失うことを意味する。しかし同時に、それは作家が市場と主体的に接続する回路を自ら持つことでもある。第二章で論じたように、AFKで実績を積んだ作家がギャラリーや百貨店から声をかけられるようになるという逆転は、この構造が生んだ予期せぬ成果である。
3 団体展との制度的連続性
AFKの制度的構造は、戦後の公募団体展と断絶しているわけではない。現役作家がアドバイザーとして若手作家を推薦するシステムは、先行世代が若手を評価・育成するという団体展の構造を、市場型イベントの形式で再編したものである。官展から団体展へ、団体展からアートフェアへという制度の変容の中で、AFKは日本の近代美術制度の系譜の中に位置づけられる。
ただし、AFKのアドバイザリーボードは固定した制度ではなく、課題に応じて動的に改良されてきた。創設の経緯から、当初のアドバイザリーボードはヤノベケンジ・名和晃平・鬼頭健吾といった京都芸術大学の教員アーティストが中心を占めていた。しかしこの構造は必然的に京都芸術大学出身者への推薦の偏りを生む。この問題を自覚したAFKは、他大学の教員アーティストや国際的に活躍するアーティストをアドバイザリーボードに加え、推薦の多様性を広げていった。さらに若手アーティストの参加ニーズの高まりに応じて、アドバイザリーボードの推薦がなくても出展できる公募制も導入した。この一連の変化は、AFKが制度の欠陥を認識し自己修正する能力を持っていることを示している。
団体展との類似はあくまで機能的なものであり、動機の構造は大きく異なる。団体展においては画壇での地位確立という社会的動機が制度を支えていたが、AFKにおけるその代替が何かという問いは、後述する持続可能性の問題と直結している。
4 リーダーシップの構造と継承の問題
AFKの制度的強度は、椿昇という個人のビジョンと求心力に大きく依存している。この構造は、具体美術協会における吉原治良の存在と相同的である。吉原は「人の真似をするな」という言葉で作家たちを導き、自らが評価基準として機能することで制度を駆動した。しかし1972年の吉原の死後、協会は翌年に解散した。制度の外皮ではなく、それを動かしていた求心力が失われたのである。
ただし、AFKと具体のあいだには重要な差異がある。椿のビジョンはAFKの設計者であるが、制度を実際に動かし続けているのは、若手アーティストがAFKで作品を販売することによって制作と生活を続けているという切実な需要である。椿が辞任したとしても、この需要は残る。したがって、問題は制度そのものが存続するかではなく、それを誰が率い、いかなる組織形態で継承するかである。
AFKの組織的実態を見ると、その問いの難しさが浮かび上がる。アドバイザリーボードには国際的に活躍する作家が多数含まれているが、彼らはそれぞれ独立した個人であり、かつての団体展のように組織化された集団ではない。AFKの実態はディレクターである椿と事務局のみの小部隊であり、組織的な厚みを持っていない。椿の後継者問題は、したがって単なる人事の問題ではなく、この小部隊を団体として組織化するかどうか、椿以外の人間でも吸引力を持てるかという制度設計の問題と不可分に結びついている。
5 価値の普遍化と、美術生態系の再編
AFKのアーティストとコレクターの直接対話の仕組みは、成功しているといえるが、作品の価値は売買とサークル内の相互承認に留まっている。それらを外部化するためには、空間依存型の美術生態系への参与は不可欠である。その点は椿も自覚し、様々な手を講じている。
若手批評家養成プロジェクトは「歴史・批評・芸術」と命名されおり、若手批評家がAFKに選抜されたアーティストなどの批評を来ない、カタログネゾネなどのの制作を行っている。この命名は、市場における売買だけではアーティストの価値づけが不安定であり、批評による言語化と歴史への記録があって初めて作品の価値が保証されるという問題意識を端的に示している。
また、マイナビアワードは、制作費と個展発表の機会を提供しながら、審査員に美術館学芸員や批評家などの専門家を加えることで、アーティストとコレクターという閉じた関係の外に美術館という制度的承認の回路を開こうとする意図的な設計である。
この二つの装置が照準しているのは、現代の美術生態系が抱える構造的分断である。今日、空間依存型美術生態系は、美術館・芸術祭とアートフェアに大きく二分されている。前者は社会的・制度的文脈を重視する一方で市場から距離を置き、後者は売買に適した作品を中心としながらも、美術館的評価とは接続しにくい。
前者は社会課題をテーマにしたインスタレーションが多く、後者は売買のしやすい絵画や彫刻、工芸といった伝統的形式をとることが多い。しかし、逆説的に市場での価値は、美術館という最大の認証機関と接続しないと、価値が向上しない構造になっている。AFKの批評家プロジェクトとアワードは、この分断を橋渡しする制度的装置として構想されている。
AFKの持続可能性を決定する問いは、したがって二層構造を持っている。第一に、椿の後継者として制度を率いる人物あるいは組織をいかに形成するかという問いである。第二に、美術館・芸術祭・アートフェア・批評家という美術生態系の構成員全体が、アーティストの持続可能性という課題に協働して取り組む動機をいかに生み出すかという問いである。AFKが提示した制度的実験の真の意義は、これらの問いを日本の美術制度の前に明示的に置いたことにある。
結論
本稿はARTISTS’ FAIR KYOTO(AFK)を、戦後日本において失われた空間依存型美術生態系の四要素(作家・制度・受容層・空間)を、21世紀の条件のもとで再編しようとする制度的実験として分析してきた。
AFKは、ギャラリーシステムを介さない作家と受容層の直接的接続、団体展の新人育成機能を部分的に継承する推薦制度、新興富裕層、あるいは現代アートを好むビジネスパーソンという更新された受容層、そして京都の歴史的建築を舞台とした象徴的空間を組み合わせることで、日本の現代美術が長く抱えてきた制度的空白に対する一つの応答を提示している。この意味においてAFKは、単なるアートフェアではなく、日本の美術制度そのものに対する実験的装置として理解することができる。
また本稿で指摘したように、AFKの制度的構造は、戦前の官展や戦後の公募団体展と完全に断絶しているわけではない。むしろその内部には、先行世代の作家が若手作家を評価し育成するという団体展の構造が、新たな市場型イベントの形式で再編されている。この観点から見れば、AFKは日本の近代美術制度の系譜の中に位置づけられる試みでもある。
さらにAFKは、展覧会や市場としての機能にとどまらず、作家、コレクター、キュレーターが直接交流する社交空間としても機能している。19世紀ヨーロッパのサロンが担っていた社交的機能や江戸時代に茶道で育まれた応接文化が、21世紀のアートフェアという形式の中で再構成されている点も重要である。AFKは市場、制度、社交空間という複数の機能を重ね合わせることで、新しい文化的ネットワークを形成しつつある。
しかし同時に、AFKの制度的中核はディレクターである椿昇の個人的ビジョンとリーダーシップに強く依存している。具体美術協会における吉原治良の例が示すように、カリスマ的リーダーシップによって成立した制度は、その継承という課題に直面する。椿が導入した批評家養成プロジェクトやアワード制度は、この問題に対する制度的応答として理解できるが、それらの装置が椿個人の求心力を離れた後も自律的に作動するかどうかは、依然として未解決の問題である。
本稿が提示した空間依存型の美術生態系という視点は、AFKという個別事例にとどまらず、戦後日本の美術制度全体を再考するための枠組みでもある。メディア環境の変化や新興富裕層の登場によって、文化の流通構造は大きく変化しつつある。そのなかで、美術館・芸術祭とアートフェアという二つの回路の分断をいかに橋渡しするかは、日本のみならず世界の美術生態系が直面する構造的課題である。さらに、漫画・アニメ・ゲームのようなメディア依存型文化と、空間依存型の美術生態系をいかに接続するかという問いも、今後の重要課題として残されている。
AFKはすでに10年近い歴史を持ち、椿昇の多くの試みの中でももっとも成功したプロジェクトの一つとなっている。富井玲子のいう「オペレーション」であり、見えにくいが最も創造的な実践としてAFKを捉えることは、決して誤りではないだろう。しかし同時に、AFKが制度として定着しつつある今、椿自身の反骨精神は次にどこへ向かうのかという逆説も浮かび上がる。おそらく、椿自身は、現状でも不十分と認識しており、国内文化投資を経て、世界に開かれることを想定しているのではないか。
そして、椿の挑戦が真に成功したかどうかが明らかになるのは、美術生態系が変わり、AFK出身のアーティストたちが20年、30年先にも制作を続けられているかどうかによって測られるはずである。
[1]富井玲子『オペレーションの思想 戦後日本美術史における見えない手』(イースト・プレス、2024年)
本稿は草稿であり、引用文献・参考文献および注釈については稿を改めて補足する。
協力:一般社団法人ヤノベケンジ財団

