「ぼくのすみっこ」市原尚士評

書名】「ぼくのすみっこ」
作者】ジョオ(조오)←韓国の人気絵本作家
訳者】かみや にじ
出版社】ほるぷ出版
刊行年】2025年5月20日初版第一刷
ページ数】58ページ
サイズ】28.2×14.7センチ
定価】1800円+税

私の絵本評論がついに始まりました。

あらすじ(物語性)ばかりを追いかける、甘口の“なんちゃって評論”が私は大嫌いです。

絵本の核となるのは「絵」であって、「言葉」は添え物に過ぎません。
評論を本気で書こうと思うのであれば、絵そのものを真剣に何度も何度も見る作業は不可欠です。

実は同じことを子どもたちもしているのです。
飽きもせず、同じ本を何度も何度も食い入るように見つめるお子さんたちの真剣な目を見たことがありますか?
彼らは、絵の伝えるメッセージを、すべて吸収しようと必死なのです。

決して、予定調和的な「ハッピー・エンディング」なんか求めてはいない。
決して、道徳的な「ハート・ウォーミング」な物語なんか求めてはいない。
作者が、この世界とどれくらい激しく格闘しているのか?
その真剣さ、本気度を、全身全霊で子どもは求めているのです。

思い出してください。
子どものころは初めて出会うものばかり。
どれだけ恐ろしかったでしょう。
どれだけ怖かったでしょう。

恐怖を乗り越えるために最も必要なのは、親の愛情です。
しかし、いつだって親は忙しすぎて、我が子を充分に構いつけることができません。

そんなときに、子どもは絵本と出合う。
この世界に突然、誕生させられてしまった自分。
訳も分からずに世界に巻き込まれた自分。
この混乱を解決する答えを絵本の中に求めようとするのです。

「ぼくのすみっこ」は絵をよく見ると、恐ろしい作品です。さぁ、今から論じていきましょう。

構造

本書を論じるにあたって、最初に指摘しなければいけないのは、その絵本の構造です。

本を開いた時の中心、つまりページが綴じられている部分を「のど」と言います。
本書は、この「のど」が主人公であるカラスの子(黒色)が住む住宅室内の角、つまり隅っことして設定されています。
どのページを開いても、見開きの中心が、同じ部屋の隅っこになっているというわけです。
読者の目がカメラだとしたら、「定点観測」的に絵本の中で現れる様々な出来事を一定の角度で見続けることを意味しています。

さて、これから書く「内容」というコーナーは、絵本の絵に描かれていることを細大漏らさず、記述します。絵画鑑賞における「ディスクリプション」ですね。繰り返しが多いですし、細かいので、煩雑だと思われる方はすべて飛ばして、次の【解釈】を読んでいただいても結構です。

ただし、このディスクリプションがすべての解釈の基礎となるので、面倒でもすべて読んだ方が、「解釈」がより深く理解できるはずです。「内容」の主語は、すべて「カラスの子」です。初出部分のみ「カラスの子」と書きましたが、以降は省略しましたのでご了解ください。

内容

  • 1番目の見開き
    何もない、誰もいない空間。“光”だけがそこにある。
  • 2番目の見開き
    窓も扉もない空間にカラスの子が登場。
  • 3番目の見開き
    部屋の隅っこに力なくもたれかかる。表情はどことなく寂しそう、辛そう。
  • 4番目の見開き
    寝ころびながら、両足を上げて壁にひっかけてみる。退屈そうな印象だ。
  • 5番目の見開き
    どこかから調達したソファベッド(?)を押しながら、隅っこに設置しようと踏ん張る。
  • 6番目の見開き
    ソファ、上下二段の本棚、円形のクッション。本棚の中には5冊程度の書籍。床には8冊、ないしは9冊の書籍。「まどのデザイン」と書かれた本が一番、目立つ場所に置かれているところを見ると、窓を作ろうと考えているのか?
    照明器具を持ち運んでくる。これから読書でもするのだろうか?
  • 7番目の見開き
    本はすべて書棚にきれいに収納された。鉢植えの植物を両手に抱きかかえて運ぶ。照明器具は本棚の上に設置されているが、点灯はされていない。
  • 8番目の見開き
    ソファの横に置かれた鉢植えの植物。本棚の上の照明も点灯された。ソファの上で腹ばいになって植物の方を眺める。ここで、一番最初の文章が登場。「どう? ここ」の一言だけ。
  • 9番目の見開き
    鉢植えの植物の横で読書を始めた。「まどのデザイン」ではない本だ。本棚の上の照明は点灯中。
  • 10番目の見開き
    ソファに乗りながら、じょうろで植物に水をかける。結構、距離があるため、このかけ方だと壁も床もびしょびしょに濡れるはずだが、一切構わず、水をかける。植物は前よりも明らかに成長している。本棚の上の照明は点灯中。
  • 11番目の見開き
    本棚の上の照明器具を消灯して、ソファの上で眠る。植物はさらに成長している。
  • 12番目の見開き
    起きた。本棚の上の照明を点灯した。クッションに座りながら、ボウルに入ったコーンフレークのように見える食品を、今から右手に持ったスプーンで食べようとしているところ。植物は少しだけ成長。
  • 13番目の見開き
    本棚の上の照明を点灯している。食事終了。スプーンが入った空のボウルが本棚のそばに置かれている。部屋を見ながら、こう呟く。「あと なにが いるかな?」。これが本書では二番目の文章。植物は少しだけ成長。
  • 14番目の見開き
    本棚の上の照明は点灯している。ソファの上に立ち上がり、オレンジのクレヨン(?)を右手に持ちながら、何かを壁に描こうとしている。ソファの上には、これから描こうとする絵の構想を記したと思われるノート1冊が無造作に開かれている。このノートを何度も見ながら、壁に大きな絵を描くことが予想できる。植物はさらに成長を続けている。
  • 15番目の見開き
    本棚の上の照明は点灯している。ソファの上に膝をつきながら、右手のクレヨンで絵を描き続ける。ソファの上には壁画の構想ノートが開いた状態で置いてある。植物はやはり成長中。
  • 16番目の見開き
    本棚の上の照明は点灯している。ソファから降りて、床に立ちながら、どんどん絵を描く。高いところも描くために、木製の二段の脚立が新たに部屋に持ち込まれている。大きくて重そうな本が円形ソファの上に閉じた状態で置かれている。植物は成長を続ける。
  • 17番目の見開き
    本棚の上の照明は点灯している。手に持っていたクレヨンをいったん本棚の上に置く。二段の脚立では足りなくなったのか、七段もある金属製の本格的な脚立を室内に持ち込む。壁の絵はかなり描き進められている。大きな長方形、小さな正方形、小さな長方形、斜めに伸びる五月雨のような不定形がオレンジで描かれている。植物はさらに成長。
  • 18番目の見開き
    本棚の上にあった照明器具は床に移動させられている。消灯している。絵がかなり大きく成長したところで、ソファの上に立って、自分の描いた絵を眺める。短くなったクレヨンが床に置かれている。ソファの横に置かれた本棚の上には湯気のたった満タンのコーヒー(?)が入っているカップも見える。二段と七段の脚立は床に置かれたまま。「これで どう?」という本書では三番目の文章が登場。なぜか、ここでいったん植物の成長が止まっている。
  • 19番目の見開き
    床の上の照明は消灯している。新たに音楽が聴ける機器が室内に持ち込まれた。何かの音楽をかけている。ノリノリで踊る。二段の木製脚立は消えた。壁の絵は、さらに上部へ上部へと伸び、著しく成長している。本棚の上には、新品のクレヨン3本が入った紙製の箱が置かれている。コーヒーは飲み干したのか、空のコップが本棚の上に置かれている。
  • 20番目の見開き
    床の上の照明は消灯している。クッションが傷む恐れがあることも気にしないで、壁際の本棚をクッションの上を移動させて室内の中央まで運ぶ。本棚はクッションの上に少しだけ乗っかった状態。移動中、邪魔だから本棚の上のコップは床に移動している。新たに室内に持ち込んだ二十段もある金属製の脚立の頂点に腰掛けながら、壁のかなり上部に絵を描く。植物は成長している。音楽もかけずに集中して様子で描画中だ。
  • 21番目の見開き
    床の上の照明は消灯している。二十段の脚立から降り、壁の下部に絵を描く。すでに、箱の中のクレヨンは残り一本になっている。床には短くちびたクレヨンのかけらが二本、転がっている。植物はさらに成長。壁の絵もどんどん大きくなっている。
  • 22番目の見開き
    本棚は再び壁際に設置された。最初の位置と比べるとソファから離れた位置に。照明器具は再び本棚の上に置かれた。今は点灯中。床にずっと置きっぱなしだった、コーヒーカップ、スプーンが突っ込まれたボウル、二十段の巨大な脚立は撤去されている。新たに十段の金属製脚立が室内に持ち込まれ、そのてっぺんに立ちながら、植物の頭からじょうろで水をかけて、こうつぶやく。「おおきく なったね」。本書では四番目の文章が登場。
  • 23番目の見開き
    再び音楽をかけながら、うれしそうに踊る。照明は点灯中。壁の絵はほぼ完成した。隅から隅までびっしりと描き込まれている。植物はさらに成長。
  • 24番目の見開き
    音楽を消し、冷静な表情で部屋の中央に立ち尽くす。壁の絵をじっと見ながら、「まだ なにか たりない……。」とつぶやく。このつぶやきが本書では五番目の文章になる。照明は点灯中。植物はさらに大きくなっている。
  • 25番目の見開き
    音楽の再生機器は姿を消した。残されたソファ、クッション、本棚、じょうろ、照明器具の上には覆いがかけられている。透明なビニル(?)か何かでできたシートと思われる。さらに成長を続ける植物には、特に覆いはかけていない。照明は消灯中。丸鋸刃チェーンソーを両手に持ち、壁の一部分を切り始める。
  • 26番目の見開き
    ガラス窓が壁にはめ込まれ、外の光がさんさんと室内に差し込む。得意そうな表情で腕組みをしながら窓辺に立ち、外を見る。ビニルシートはすべて除去されている。ちり取り、ほうきとゴミを入れた黒いビニル袋が壁際に置かれている。照明は消灯中。植物は成長を続けている。
  • 27番目の見開き
    窓から差し込む日光がふんだんに当たるクッションの上で寝ころぶ。しかし、目は開いたままだ。先ほどの言葉、「まだ なにか たりない」が再び脳裏をよぎっているのだろうか? ちり取り、ほうき、黒いビニル袋はすでに撤去されている。照明は消灯中。
  • 28番目の見開き(最後の見開き)
    突然、視点が反転する。1~27番目までの見開きの真ん中(=のど)は、すべて室内の隅っこだった。ところが、28番目の見開きにおいては、のどは建物の外壁の角へと変容している。つまり、建物の外から俯瞰しているのだ。大きく開いた窓の内部は真っ暗な闇が広がる。室内に植えてあった植物が窓から大きくはみ出すほど成長した姿を見せている。窓辺にもたれかかったカラスの子は知り合いと思われる白いカラスの子(?)にこう話す。「やあ、こんちは!」(=六番目の言葉)、すると本書では七番目で最後の言葉「こんちは!」と白いカラスの子が返したところで、物語は終了する。

解釈

旧約聖書「創世記」第一章の冒頭部分を思い出してみてください。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

「ぼくのすみっこ」の1番目の見開きについて、「内容」欄で私は「光だけがそこにある」と書きましたが、これは嘘です。光なんてどこにもないです。この見開きは、まだ誰も入ってきていない、窓もない、扉もない闇だけの世界です。つまり、「光あれ」と神様が言う前の状態ということです。

本当は闇なのに、あたかも光があるかのような錯誤を意図的に持ち込んでいるのが、作者・ジョオの工夫です。絵本の内部において、窓が出来上がる前までの段階は、照明をつけない限り、室内は闇が覆っているのです。私が「内容」欄で、執拗に照明器具が点灯しているのか、消灯しているのかを記述したのは、つまり、消灯している時の室内は真っ暗であることを皆さんに理解してほしかったからです。

真っ暗な空間にカラスの子は単身で入り、ソファベッドや本棚や照明器具や植物や音楽の再生機器を持ち込んだりしていたということです。小さな照明器具を一つだけ点灯しても、かなり暗いものです。そのような暗い、暗い空間内でクレヨンで壁に絵を描いていたわけです、このカラスの子は。この絵本の中のようにはきれいに秩序だっては絵は絶対に描けないでしょう。

18~21番目の見開きにおいては、電気はついていないのでまったくの闇があたりを覆っているはずです。「これで どう?」と室内を見まわしたり、音楽をかけて踊ったり、巨大な二十段の脚立に乗り、壁の上部に絵を描いたりしているのはすべて闇の中ということです。丸鋸刃チェーンソーで壁を切り取る作業をしている25番目の見開きも真っ暗闇の中でカラスの子は作業しているのです。

「いやいや、いくらなんでもそんな訳はない」。読者の皆さんの声が聞こえてきます。しかし、28番目の見開き、すなわち最終場面をよく見てください。窓の奥、つまりカラスの子がずーっと閉じこもっていた室内は、恐ろしいほどの闇でいっぱいになっているのが確認できるはずです。つまり、絵本の中でカラスの子は、壁に絵が描けるわけがないのですよ。小さな照明器具一つしか室内に置いていないのに、どうやって、この結構大きな室内全体に光を届かせられますか?

この室内のオレンジ色の明るい絵は、すべてカラスの子の妄想に過ぎません。仮に何かを描いたとしても、ぐちゃぐちゃの線や面となってしまうはずです。あんなに小さな照明器具では神の「光あれ」と同じ状態にはなりようもない。ほぼ、闇が領する小世界の中でカラスの子は生きていたのです。

こういう状態を何と言いますか?
そう、「引きこもり」です。カラスの子は、この社会とうまくなじめず、真っ暗な空間に独りで向かったのです。自分の好きな音楽を聴き、好きな本を読み、自由気ままに生きられると夢見ながら、暗闇の世界を自ら選んだのです。ところが、その独りを満喫するはずの生活は意外にも退屈だった。植物が大きくなる姿を見ても、何かが満たされなかった。だから、真の闇の中、オレンジ色のクレヨンで思う存分、絵を描く姿を妄想した。そして、妄想世界の中で絵は見事に完成したのです。しかし、それでも真の満足は得られなかった。

闇に耐えられなくなったカラスの子は、窓をつけ、外光を取り入れます。それでも、何かが足りないと感じていた、その瞬間、知り合いの白いカラスの子が通りがかり、「やあ、こんちは!」「こんちは!」と会話を交わすのです。この他者との交流があって、初めて人は真の満足が得られるという事実が簡潔に描かれた28番目の見開きは、非常に重要な意味を持っています。

実は、白いカラスの子は偶然、ここを通りかかったわけではありません。この子は、引きこもった、黒いカラスの子のことが心配で、心配でたまらず、何回もこの建物を訪れ、内部に存在する黒いカラスの子のことを考えていたのです。「どうして、そんなことが言える?」「エビデンスを示せ」とおっしゃる方がいたら、私は表紙(=表1)と裏表紙(=表4)をじっくり見てほしいと思います。

実は、この絵本の種明かしは、表紙と裏表紙にすべて説明されているのです。
まずは、裏表紙を見てください。黒いカラスの子がいる空間が描かれていますが、影ばかりがあたりを覆っている状態で描かれています。つまり、「真の闇」に覆われているのです。

1~7番目の見開きが一番、分かりやすいのですが、これらはすべて裏表紙と同じ、闇の状態だったということです。照明器具が点灯されていないと、裏表紙のような真っ暗な空間になってしまうということです。それでは、なぜ、作者ジョオは絵本内部の空間について、照明がなくても光があるかのように描いたのでしょうか?

この問いへの答えは簡単です。あくまでもカラスの子の主観的な視線に基づいて空間を描写しているから、実際は真っ暗でも、そうではない空間のように描いているのです。つまり、ほぼ「空想の世界」を「現実の世界」のように描いているということです。また、作画上の問題点として、裏表紙のように真っ暗な空間の中で、一連の物語を進行させるのはかなり難しい。だから、本当は暗闇でも、光があるかのようにしているのです。

カラスの子は、自らが「神」となって、空想上で「光あれ」と言い、その結果、空想の光が空間を満たし、読者も時々刻々、進行していくストーリーをちゃんと見えるように処理されたということになります。

表紙もよく見てください。10段の金属製脚立の下から9段目に足をかけたカラスの子が黒いクレヨンのような筆記具を右手にして「ぼくのすみっこ」というタイトルを壁に書いた、という体裁になっていますが、これも空想でしょう。壁のかなり上の方に「ぼ」「す」の字は書かれており、この字を書こうとしても、まったく手は届きません。絵本の中に出てくる20段の金属製脚立を仮に持ち込んでいたとしたらと仮定してみたのですが、10段の脚立を単純に2倍に伸ばしてみても、「ぼ」と「す」の字を書くのは非常に厳しいことが分かります。「ぼ」は100%書けません。最上段の10段目の上に立ったとしても「す」の下端の縦棒の極小部分しか、カラスの子の手は届きません。つまり、このタイトルは、やはり、カラスの子が空想上、書いた文字に過ぎないのです。

表紙で重要なのは、室内に差し込む一条の光です。これ、何を意味すると思いますか。今、まさに真っ暗な空間に足を踏み入れたカラスの子が最初に見た光景だったのです。まさに旧約聖書の「光あれ」の状態ですね。ところが、カラスの子は即身成仏を願う僧侶のように、この部屋に入った後、自ら、光が差し込んでいた扉を閉め、恐らくは二度と開けられないように、扉の内側に木製の突っ張り棒のようなものを釘で固定しているはずなのです。ちょうど、猛烈な台風が来る際に、扉を補強するように……。

誰も入ってこれないように、自らを内部から閉じ込め、真っ暗な室内に引きこもろうとするカラスの子が最後に見た自然光、それが、この表紙で描かれている光景なのです。さて、ここで、一条の光の中に見える、「影」に注目してください。ぷくっと膨れた唇と滑らかな稜線を描く頭部が見えるはずです。これは何だと思いますか?

このシルエットは誰でしょう?

賢明な読者の皆さんなら即答できるはずです。28番目の見開きで登場する、白いカラスの子の輪郭なのです。白い子は、黒い子が闇に引きこもろうとする直前まで、すぐそばで見守っていたのです。そんな白い子ですから、当然、黒い子が引きこもっている間、何度も何度もこの闇の空間を訪ね、内部の物音を懸命に聴き取ろうとし、黒い子がちゃんと生きているかも心配していたのです。

黒い子が窓から外に半身を乗り出したその時、白い子が通りかかったのは、偶然どころではなかったのです。白い子の「こんちは!」という一言の裏側には、万感迫る思いがこもっていたのです。その思いを知ってか、知らずか黒い子は、ごく当たり前のような調子で「やあ、こんちは!」と言っていますが…。

シンガーソングライター、ベン・E・キング(1938~2015年)の名曲「スタンド・バイ・ミー(Stand by me)」(1961年)が28番目の見開きのBGMです。自分の生きる、この社会に違和感を覚え、あえて暗闇の中に閉じこもった黒い子ですが、その気ままな黒い生活には満足感が得られず、結局は「誰か私を支えて」「私のそばにいて」という魂の声を叫びながら、窓を開いたわけです。

実際のところは、黒い子が閉じこもっている間、白い子がいつも「そばにいた」のです。スタンド・バイ・ミーの歌詞の和訳をよーく読んでみてくださいな。黒いカラスの子と白いカラスの子の魂の交流を見事に描いており、びっくりさせられます。

つまり、この絵本は、黒いカラスの子の魂の再生と、白いカラスの子の惜しみない愛をたたえた、非常にドラマチックな作品なのです。子どものころは誰だって「スタンド・バイ・ミー」と叫びながら生きていました。でも、大きくなると、誰にも頼れなくなってくる。いえ、頼れなくなってくるような気がする。だから、孤立して、場合によっては苦しい引きこもりの状態に陥るのです。

今、この瞬間にも、引きこもりの辛い状態になっているお子さん、それを見守る親御さんや恋人の方々がいらっしゃるでしょう。そういう方々に、「ぼくのすみっこ」をぜひ読んでいただきたいです。また、引きこもっていなかったとしても、心が苦しい状態に追い込まれ、誰にも助けを求められないような気がしているあなたにも、この絵本を読んでほしいのです。

「ぼくのすみっこ」を読んでいると、引きこもり当事者であった芸術家・渡辺篤(1978年生まれ)の作品を嫌でも思い出します。渡辺が、あえて密閉空間に閉じこもり、そこからの脱出を図る作品は、まさに「ぼくのすみっこ」そのものです。絵本作者のジョオが引きこもりの体験者であるのか否かはよく分かりませんが、とにかく、「ぼくのすみっこ」が恐ろしい闇からの再生を描いた作品であることは疑いようもないです。

幼年時代、すべての人間は、不思議な闇の中に棲んでいます。

不思議な闇をすべて失ってしまうと、お金や権力のことばかりを考える「つまらない大人」になってしまいます。

不思議な闇から逃れられないまま生きていると、最悪、自裁の道を選ぶことになってしまいます。

不思議な闇を持ち続けながら、サバイブできた人間は「芸術家」になれます。

すべての芸術家は、その内奥に「幼年の闇」を宿し続けているのです。

絵本「ぼくのすみっこ」は、芸術と人生と闇との相克を描いた不朽の一冊なのです。

ぼくのすみっこ、あなたのすみっこ、彼のすみっこ、彼女のすみっこ、私たちのすみっこ……すべてのすみっこに、光あれ!(2026年2月23日15時47分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。