彩字記#24(採取者・市原尚士)

やや生ぬるい壁画

拙稿「時をかける彫刻」の取材・撮影のため、藤沢市内を回っている際、市民会館の外壁に巨大な壁画があることに気が付きました。「こんな場所に壁画なんてあったっけ」と思ったのも無理はありません。2025年12月14日に壁画の完成を祝ったお披露目式が催行されたばかり。つまり出来立てほやほやだったからです。

藤沢市の市民会館の壁画(部分)

2026年3月末で休館を迎える市民会館では、藤沢ゆかりのアーティスト・丸倫徳(1978年生まれ)と藤沢翔陵高等学校の生徒、さらにワークショップ参加者の子どもらと一緒に描画していたのだとか。

大型の壁画、もっとわが国で広がるといいなといつも思います。

筆者がわが国の壁画で不満に思っていることがいくつかあります。

期間限定のものが多いこと。まずは、これに尽きます。壊されることがあらかじめ決まっている建造物に、描かれているケースが多い気がするのです。将来的に、撤去されることが前提の作品をどうして末永く愛することができるでしょうか?

たとえ、制作過程を動画等で残したとしても、その作品が建物もろとも撤去されてしまったら、記憶には残りません。これは、あまりにももったいない気がするのです。アーティストと地元の子どもたちと共に作った壁画はできれば半永久的に残していくのが本来の姿でしょう。

藤沢の市民会館の場合は、どうなんでしょうね。「休館するから壁画」という流れを考えると、常識的には、「休館後、しばらくしたら会館は壊してしまう」という流れが自然な気がするのです。できれば長く保存してほしいのですが…。

作品のテーマが生ぬるいこと。これも不満です。行政がお金を出すから仕方ないのかもしれませんが、「明るくて、前向きで、建設的なテーマ」で描かれる壁画が多い気がするのです。筆者がいつも鑑賞しているグラフィティのような“凶暴さ”はどこにも見当たりません。

太陽がピカピカ、海がキラキラ、白い舟がプカプカ、未来に向かって走る若人たちの疾走感……みたいな作品ばかり。全国どこでも、こんな作品ばかりでうんざりします。これ、もう少し何とかならないですかね?

本物のばりばりハードなグラフィティを公共の場に露出して何が悪いのでしょうのか?

一見、何が描かれているか、よく分からない抽象的な作品の何が問題なのでしょうか?

公金を使うから、当たり障りのない道徳的、かつ向日的なテーマでしか描けないというのは明らかにおかしいです。まぁ、これは壁画だけでなく、よくよく考えれば、パブリックアート全般にも共通して言えることかもしれません。

自分の個展では、結構、過激な彫刻を並べている作家さんでも、街中に設置する際は、ややおとなしいというか、微温的というか、要するに中途半端な作品を置いている印象が正直あるのです。パブリック=公共ということで、自身の創造性を自由に追求させるよりも、市民からの反発を招かないような表現に逃げている印象さえあります。

本来は、作家さんの持っている個性を前面に押し出した力作を期待したいのですが、なかなかそうも行かないのが、パブリックアートの欠点かもしれません。もちろん、公序良俗に反するような作品は(少しは)、問題があるかもしれませんが、そうでないものであれば、もっと自由に展示してほしいものだといつも感じています。

不満点の最初に挙げたことと深く関係しているのですが、壁画でもパブリックアートでも、「いつまで、誰が、どうやって保存・活用するのか」というタイムラインがはっきりしていない点がもやもやします。設置の最初の段階から、「この壁画は●年●月で完全に撤去する」、あるいは「少なくとも30年は保存する」といった方針を示したうえで管理・運営してほしいのです。きっちり、期限が明らかであれば、市民もその作品の愛し方が自ずとはっきりしてくる。ところが、将来的な保存・活用計画が曖昧だと、すべてがグダグダになってしまうと思うのです。

漫然と壁画を描いたり、彫刻を街中に置いたりしても、その後、それらの作品をどうしていくのか方向性をあらかじめ決まっていないと、付き合う市民の側の頭もすっきりしません。公金を使った事業だから、半永久的に保管する、というのは、あまりにも無理があります。公金は使ったけど、あえて10年の期間限定で展示し、期間終了後は、金属の廃品回収業者に引き取ってもらうということでもいいと思うのです。市民から非常に人気で、存続を要請する声があれば、その時に審議して公開期間を延長するか否かを決めればいいだけです。

以上が、筆者がいつも壁画、パブリックアートを見ていて感じる、不満点でした。藤沢の市民会館の壁画は、やや残念ながら、筆者が言うところの「当たり障りのない作品」に見えました。でも、壁画がないよりは、やっぱりあった方がいいのは確かです。もっと、「平地人を戦慄せしめ」るような作品に出合えたら、楽しいだろうな、というのが当方の偽らざる本音になります。

シール付き交通標識

街を歩いている時は、「かすかな違和感」を大事にしています。何か変だな、と思ったら、すぐに立ち止まり、その『奇妙な感じの原因』がどこにあるのかをじっくりと探すのです。

違和感を覚えた交通標識

先日も、ある交通標識の横を通ったときに、かすかな違和感を覚えました。早速、標識、そして標識の周辺を凝視した結果、原因が分かりました。

妙なシールが柱に貼られていた

「レンジで温める際は必ずはずして下さい」と書かれたシール(?)が柱にぐるぐる貼り付けられていたのです。これは、冷凍食品か何かの商品の包装の一部と思われます。同じ冷凍食品を毎日食べている方が、包装から剥がしたシール状の物体をそーっと持ち運び、この標識まで持ち運んだ上で標識のポールにぐるぐる巻きの状態で貼り付けているということになります。誰が、なぜ、なんのために、こんな訳の分からないことをしているんでしょうかね?

何かの願掛けでしょうか? このポールに、冷凍食品のシールを10枚貼れば、願い事がかなうみたいな……?

いくら考えても、謎は謎です。こんな奇妙なことをやってのける人間存在は、本当に不思議です。

水漏れの詩情

東京メトロの駅構内でおなじみの光景と言えば、水漏れの現場です。駅員が応急処置しているわけですが、その様子は、まさに“病人”のようです。点滴を受けている患者さんに見えて、見るたびに「お大事に」と言いたくなります。

もはや現代アート、です

地下鉄の構内のあちこちに様々な形状の応急処置の跡が残っており、その多様な姿を観察しているだけで楽しめます。毛利悠子(1980年生まれ)の「モレモレ」シリーズも鑑賞していてかなり面白いですが、普通に駅構内のそれも毛利作品に匹敵するのです。

駅員さんはアーティストではありません。それにもかかわらず、現場でなるべく早めに最善の処置をしようと頑張って生み出された造形が、実に魅力的に見えるのです。本職のアーティストにもなかなか出せない味を出しています。つまり、素人さんの“生成りの造形”には時として、とんでもない破壊力があるということです。人間だれしもが持っているクリエイティビティが緊急時に図らずも発露されるのでしょう。

やはり、日常生活の中の詩情こそを私たちはたっぷりと享受しなければなりません。建築家レム・コールハース(1944年生まれ)の次のテクストの中の「建築家」を「美術家」に、「建築」を「美術」に置き換えて読んでみてください。「建築雑誌」2026年1月号43ページより引用。

日常生活に関心をもたずして建築家にはなれません。なぜなら、建築という行為自体が日常生活への介入だからです。だからこそ、建築家は日常の専門家でなければならない。

しかし現在、建築家と一般の人々とのコミュニケーションは非常に難しくなっています。共有しているはずの基本的な価値や関心事を言葉にすることすら難しい。建築家という存在を、まるで日常から切り離された抽象的な人間像として描き出そうとする強烈な傾向があるのです。

 

美術家だって日常の専門家でなければいけません。日常の謎に徹底して肉薄する者のみが、本当に面白い作品を生み出せる。だから、私たちは、地下鉄の駅構内にも無限の可能性があると信じて、目を光らせておく必要性があるのだと思います。(2026年2月26日19時26分脱稿)

*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。