【東京都は浮世絵がお好き?】
公共空間に行政機関などが貼る啓発用ポスターをまじまじとご覧になったことはありますか?
東京都が2020年4月1日に受動喫煙防止条例を施行した際、足立区が作成したポスターをご紹介しましょう。

足立区が作成したポスター
向かって右側に、喜多川歌麿(1753?~1806年)が一躍人気絵師となるきっかけとなった重要作品「婦人相学十躰 ポッピンを吹く娘」(1792~1793年頃)が配置されています。オリジナルの作品は、ポッピンというビードロ(ガラス)細工のおもちゃを口に軽くくわえていますが、ポスターではたばこをくわえています。
「ポッピンを吹く娘」には「婦女人相十品 ポッピンを吹く娘」という別バージョンもございます。違いは色彩の鮮やかさです。十躰は非常に色彩豊かで、十品はやや色が薄めになっています。どちらであっても非常に珍しい逸品なのですが、色鮮やかな十躰の方がより希少性が高いことで知られています。
ポスターの女性が着用しているのは、とても鮮やかな色味なので、2020年時点ではハワイのホノルル美術館に1点だけしか存在していなかった十躰を東京都は参考にして制作したのではないかと想像しました。本当は、十品を参考にしたが、ポスター制作者の判断で色彩だけを鮮やかにしたのかもしれませんが、どちらが正解なのかは私にはよく分かりません。
まぁ、どちらのバージョンでもいいのです。本題に戻りましょう。「ポッピン娘」がたばこを吹かしているので副流煙が空中に舞っています。その煙が「煙 人に吸わせるのはNG。」という文字と接続しております。さらに「煙」という漢字の下部から、副流煙が漏れ出て、左方にいる男性の顔面を直撃しています。
この男性が、東洲斎写楽(生没年不詳)の代表作にしてデビュー作「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」(1794年)にほかなりません。両手のやや不自然な描写が殺気を生み出していると評される、まさに浮世絵を代表する作品です。
ポスターにおいては、江戸兵衛のこめかみに怒りや苛立ちを表現する怒りマークが書き足されています。たばこの副流煙を吸い込まされ、顔面は怒りに満ち、指先からは殺気があふれ出ているというわけですから、これは穏やかではありません。ポッピン娘も早くたばこの火を消して、この場を立ち去った方がよろしいかと思いました。
実社会で考えると、このシチュエーションは変です。男がたばこを無神経に吹かし、女が顔をしかめながら、煙を手で振り払っている姿というのが現実に即した絵になるはずです。しかし、ポスター制作者はあえて現実社会の実態とは反対にしてしまったわけです。
理由は単純でしょう。「ポッピン娘」の方が、たばこと置き換えるのが容易だったからでしょう。しかし、ポスターを作りやすいという理由で現実社会とは乖離した絵柄が生み出されてしまったのです。やや、釈然としないものがありますが、まぁ、浮世絵のパロディー作品に過ぎないわけですから、あまり目くじらを立てても仕方ないのかもしれません。
とはいえ、副流煙で苦しんできたのが圧倒的に女性だったことを考えると、このポスターの絵柄、やや気になるところではあります。
【真贋一如の世界到来か?】
つい、最近出たばかりの「週刊ダイヤモンド3月21・28日合併号」をぱらぱらとめくっていたら、東京都が出稿した広告に目が留まりました。

法改正に伴う荷待ち時間短縮を訴える江戸兵衛
物流効率化法改正に伴い、荷主は荷待ち時間等の短縮や積載効率の向上等の措置に取り組むことが求められるのだとか。この広告の左下に登場したのが、東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」でした。大人気ですね、江戸兵衛。
殺気があふれ出ている両手は、引っ越しか何かの段ボール箱を持っています。箱の下部には、波のイメージまでくっつけられており、なかなか芸が細かいです。確かに、段ボールに何も描かれていないと少し絵として寂しい感じがするので、あえて波を足しているのでしょう。いわゆる「青海波」模様では、穏やかな海面表現になってしまうので、あえて、もう少しだけ荒々しさの漂う波にしたのでしょうね。
たばこポスターでも登場した江戸兵衛が物流ネタにも登場して驚きました。同時に一つ、謎が解けました。なぜ江戸兵衛が左下に配置されるのか? その理由が分かったのです。江戸兵衛は体の向きが右方に開いているので、画面の右方に配置すると、体が画面の外に向いてしまい、絵として妙な印象になってしまうのです。どうしても左下に置かないと座りが悪いということです。
それなら、画像の左右を反転させてもいいのではないかと考えてしまいます。オリジナルの浮世絵と比較すると、様々な点で改変を加えているわけですから、左右反転させて、体の向きが左方に開いた江戸兵衛をレイアウトしても何の問題もないと思うのです。
ただ、デザイナーさんには、職業的本能として、オリジナルを左右反転させて使うのはご法度という感覚が染みついているのを私は知っています。写真をまだフィルムで撮影していたころ、表裏を間違えて現像する、いわゆる「裏焼き」をしてしまったことが私にも何回かあります。人物の向きが左右逆になってしまうのです。これ、新聞や雑誌でやってしまうと訂正事案になってしまうくらいの大ごととして認識されています。
しかし、現在は写真もデジタル時代です。撮影後に様々な加工や修整を施した上で「完成作」として世に発表するのはもはや当たり前のことになっています。左右反転させたくらいで大騒ぎするような時代ではないような気も正直するわけです。
撮影者の所有する「元データ」と様々な修正を施した「完成作」との間にあまりにも違いがありすぎることが多く、「写真って何だろ?」「画像って何だろ?」「オリジナルとフェイクの違いは何だろ?」といった様々な問いが湧いてくることが多くなっているのです。
昔は、元画像に手を入れることに関してはかなり神経質でした。手を入れることは罪悪であるという感覚が皆に共有されていた気がします。今は、罪悪感どころか、めちゃくちゃ手を入れるのが普通になってきているように思えます。
そうなると、もはや、カメラで撮影した時点の画像は「(仮)」のものに過ぎなくて、フォトショップ等で諸々、加工した画像こそが「本物」になってしまっているのです。昔の感覚ですと、完全に「フェイク」と見なされかねない画像が、堂々とオリジナル画像として流通している時代なのです。
そうであれば、あえての左右反転、あえての裏焼きも表現の一環として、容認されてもいいような気さえしてしまう私がいます。逆に読者の皆さんはどうお考えか、ご意見を広くうかがいたいくらいです。正確性を追求する報道写真では、さすがに左右反転や裏焼きは現在でもご法度でしょうが、報道写真以外であれば、容認されてもいいような気さえしてくるのです。画像の片隅に、「この画像は表現上の効果を狙い、左右反転の上、使用しております」と注意書きを入れさえすれば、何の問題もないような気もするのです。
もし、左右反転が容認されれば、週刊ダイヤモンドの広告でも右下に江戸兵衛をレイアウトすることが可能になります。表現により幅広い可能性が生まれるわけです。写真(画像)のプロの皆さんが、この問題についてどう考えているのか、私は勉強不足で追い切れていない部分がありますが、写真界でもっと広く議論すべき問題のような気がしました。どんなにきれいごとを言っても、実際の運用としては皆さん、加工をしまくった状態の作品を完成作品にされているのは事実だと思います。
そもそも、スマホで撮影すると、自分の実力よりも、はるかに上手に(勝手に)撮れてしまう、という新たな問題も浮上してきています。高度なアルゴリズムに基づいた補整・修整が瞬時に施された写真を自分が撮影したことになっています。でも、これは間違いなく、自分の撮った下手くそな写真とは別物のはずなのです。
話がややこしくてすみません。私の撮った下手な元写真は、瞬時に上手な写真に変換されて私の撮影した「元写真」としてスマホに記録・登録されてしまうのです。このような事態が、世の中全体に蔓延していると思うのです。もはや、元画像・元写真と加工画像・加工済み写真との間に何の差異もないような時代に私たちは生きているということです。
写真のこと、何も詳しくないので、かなり頓珍漢なことを書いてしまったかもしれませんが、私の普段、感じていることを正直に綴ってみました。江戸兵衛の話が、とんでもないところにまで飛躍してしまい、どうもすみませんでした。
【現代版「大首絵」?】
現代美術家・森洋史(1977年生まれ)の個展「メタやたら」を拝見した際に、ちょっと面白い発見をしました。

上がジャック・ニコルソン。下がマドンナ
マドンナ、マイケル・ジャクソン、ブラッド・ピット、レディー・ガガら時代を象徴するスターの肖像を様々なゲームのイメージと接続させた「ポップスターシリーズ」を鑑賞した時、瞬間的に「これは浮世絵、特に大首絵にそっくりじゃないか」と思ったのです。
大首絵といえば寛政期(1800年頃)に喜多川歌麿や東洲斎写楽によって完成され、広く普及した画法です。顔、上半身をアップした絵でが題材に選んだのは、役者や遊女など江戸の人気者(ポップスター)たちです。ということもあり、画面の放つ雰囲気に類似点が確かにあったのです。

上がマイク・タイソン。下がブルース・リー
ただ、江戸の大首絵は背景を省略し、画題に選ばれた人気者を目立たせていたのに対して、森作品はまったく様相が異なります。背景を省略するどころか、その真逆。ゲームに登場するキャラクター画像などが背景をびっしりと埋め尽くしているのです。また、マドンナらの顔面上も文字類が横切っており、せっかくの人気者の顔面をある意味、毀損しているのです。いったん令和版大首絵を描いた後、そのポップな姿をゲームのイメージで大きく浸食させています。実に手の込んだ大首絵です。「大首絵の“大首性”を否定したような大首絵」です。
しかも、さらに面白いのは、大首絵を否定するような作業に何の底意も含意も感じられない点です。俯瞰的な“メタ視点”へと位相をすらず「メタる」という発想に、「やたら(過剰さ)」を重ねた造語が展示名の由来ということなのですが、やたらとゲームのイメージで埋め尽くし、メタ化した挙句、「ネオ大首絵」が誕生しているように見えたのです。顔面の一部を隠されている方が、かえってリアルさを感じるという逆転現象さえ発生しています。現代のアイコンは、オリジナルと毀損・改変を受けたフェイクとの間に何の差異もないと森が主張しているようです。
展示会場で配られていたハンドアウトに文化研究者・山本浩貴(1986年生まれ)が「森洋史の美しい空虚」と題したとても素敵なテキストを寄せていました。うーん、なるほど、うまいこと言うわいと私が感心した部分を引用します。
森洋史の作品に表出する空虚は、皮肉やシニシズムの重力からも解放された透明で純粋で、ゆえに美しい空虚である。
なるほど、なるほど。私が本稿で東京都のポスター、広告を引き合いに出して、論じてきた「オリジナルとフェイクとの境界線」を巡る問題群を解き明かすために、一番重要なのは「空虚」というキーワードなのではないかと今、思い至りました。現代社会に流通する写真、画像の類は、すべて「美しい空虚」なのではないかと考えたわけです。そう仮定すると、すべての謎が解決するような気がしたのです。山本から「美しい空虚」という補助線を提示してもらったことで、私の考えも少しは深まったようです。
森作品、山本のテキストからの刺激を受けて、私の考えはさらに広がります。生成AI(人工知能)やVR(仮想現実)を用いて再現された“死者”はオリジナルでしょうか? それともフェイクでしょうか? 技術が進歩して、生前の故人と本当にそっくりそのままな「死者AI」があなたの前に現れたとき、オリジナルと考えたい、いや、どうしても信じたくなってしまう心情は確かにあるはずです。ただ、この死者AIは山本の言う通り、美しい空虚そのものであるような気もするのです。
問題は、映像などがオリジナルかフェイクかではなく、むしろ、人間の欲望が何を見たいと願い、その見たいものを実現させるためにどのようなテクノロジーを駆使しようとするのかという部分にあるのではないでしょうか? そこにこそ、真の問題点が潜んでいるように思えたのでした。(2026年3月17日21時16分脱稿)
*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

