ギャラリー外観
MIKITYPE・相澤安嗣志・狩野智宏
会期: 2025年7月26日 (土) – 8月23日 (土)
時間: 15:00 – 19:00 (木金土) ※ 他の曜日は要予約
会場: TAOS GALLERY TOKYO
(東京都港区元麻布3-10-1-3F)
2025年7月26日、東京都港区元麻布にコンテンポラリー・アートの新しいギャラリー「TAOS GALLERY TOKYO」がオープンした。六本木の森美術館から歩いて約10分の超が付く好立地にもかかわらず、木曜・金曜・土曜の週3日間、それも午後3時から午後7時までの4時間しか開廊せず、その他は完全予約制でのみ入室可能という何とも贅沢なギャラリーである。
開廊案内状には、アメリカの女性画家ジョージア・オキーフの次の言葉が記されている。
If you ever go to New Mexico, it will itch you for the rest of your life.
(もしニューメキシコに行くことがあれば、あなたの記憶に一生残るだろう。)
大都会ニューヨークの雑踏に倦んだオキーフが求めた心の拠り所は、アメリカ南西部ニューメキシコ州の小さな町タオスであった。オキーフが僻地の大自然の中に見出した癒しを、このギャラリーは目指しているのだろう。
開廊5日目に訪れた筆者の第一印象は、「プライヴェートな秘密の隠れ家」である。瀟洒なビルを3階まで上がってエレベータを出ると、確かに展示空間なのだけれども一瞬個人宅の応接間に入り込んだような不思議な感覚に包まれる。筆者には、そこは優しく親密な場に感じられた。きっと、これから知る人ぞ知る通好みのギャラリーになるに違いない。
左1 MIKITYPE《Untitled》2025年
左2 MIKITYPE《Untitled》2025年
左3 MIKITYPE《Untitled》2025年
右1 MIKITYPE《Untitled》2025年
左 相澤安嗣志《Untitled》2025年
中左 相澤安嗣志《Untitled》2025年
中右 相澤安嗣志《Untitled》2025年
右 相澤安嗣志《Origin #60》2022年
その開廊記念展が、グループ展「MIKITYPE・相澤安嗣志・狩野智宏」である。ギャラリー代表の飯泉宏之氏によれば、今彼が一番推したい3人の作家を選んだという。
MIKITYPE(1992‐)は、文字あるいは記号のような筆触を基に書体芸術と絵画芸術を融合させようとしている。また、相澤安嗣志(1991‐)は、人間と自然が交わる境界領域を主に鉄材の天然造形力を通じて追求している。二人とも、近年急速に頭角を現してきた期待の若手作家である。
ただ、今回筆者の関心は、10年以上フォローしてきた熟練のガラス彫刻家・狩野智宏(1958‐)の新作にある。狩野の作品は、繊細である。微かな音を聴き取る時はいつでも、耳を澄まさなければならない。今回の狩野の展示に入る前に、一度精神集中して欲しい。
狩野智宏 展示風景
2022年にkōjin kyotoで開催した個展「玉響」以来、狩野は絵画制作に精力的に取り組んでいる[1]。
元々、狩野は、幕末の奥絵師で東京美術学校日本画科で教鞭を執った狩野友信(1843‐1912)の玄孫であり、大学でも日本画を専攻するほど早くから絵画への関心を抱いていた。しかし、狩野は天性の資質に基づき、草分けの一人として長年ガラス彫刻の道無き道を切り拓いてきた。そして、還暦を超え、ガラスを用いるアーティストとして円熟の境地に達した今、満を持して改めて自分の内なる想いを表現するもう一つの手段として絵画作品を本格的に発表し始めている。
狩野の印象に残る言葉に、「夜空の星々を眺めて嫌な気持ちになる人はいない」というものがある。
狩野によれば、あらゆる物事は波動であり、世界はその響き合いである。心地良い波動ほど、美として感受される。人々が大自然をどれほど眺めても見飽きず、その美しさに癒されるのは、その発する波動が全ての波動の中で最も心地良いからである。だから、「夜空の星々を眺めて嫌な気持ちになる人はいない」のである。
波動と波動は、響き合う。心地良い波動同士は調和し、そうでないものは不調和をもたらす。
もし自分が淀んだ低い波動を発していれば、同じ波長のものと引き合ってしまう。だから、不調和が不調和を呼び、不愉快な物事が連続することになる。そうした時は一旦そこから離れるべきだと、狩野は言う。そして、自分の心身を整えて、魂の波長を清く高める。望ましい方向は、美への憧憬が教えてくれるだろう。そうすると、その心地良い波動が周囲に広がり、世界に調和が生まれ、思いがけない福徳がもたらされる。そう、正に世界は波動と波動の響き合いなのである。
図1 狩野智宏《玉響》2025年
これは、狩野の制作姿勢そのものでもある。狩野は、世界に一つでも多く美しい作品を創り出すことで世界に調和を生み出そうとしている。
狩野のガラス彫刻は、とても美しい。それは、ただ単にガラスが「光りもの」として美しいだけではない。そこに、自然が表現されているから一層美しい。それも、ただ単に気泡やクラック等の偶然の効果が内包されているから自然に見えるだけではない。その滑らかな形態において、狩野自身が無我の境地を目指し内なる自然を表現しているから一層自然に見えるのである。
また、狩野によれば、ガラスに内包される気泡は「量子泡(quantum foam)」の象徴である。「量子泡」とは、量子力学上の空間概念で、極微小のスケールで見ると時空は連続体ではなく絶えず泡のように生成消滅しているとする考え方である。つまり、泡は無が存在を孕むときの揺らぎや震えであり、ガラス内部に閉じ込められた気泡は私達の宇宙が創造された始源の記憶を再生しているともいえる。
なお、オルダス・ハクスリーによれば、ガラス等の「光りもの」は天界の美の反映と解釈することもできる。いずれにしても、狩野のガラス彫刻には、最も自然で根源的な美へと立ち戻ろうとする姿勢を読み取れる。
図2 狩野智宏《Consious》2021年
図3 狩野智宏《ZONE 01》2021年
狩野の絵画にも、同じ制作姿勢が現れている。
今回の狩野の展示は、まず部屋の三壁面に絵画が展示され、正面の絵画の下に60㎝大の巨大なガラス彫刻の新作《玉響》(2025年)(図1)が配されている。左右の絵画は2022年の「玉響」展の出品作《Consious》(2021年)(図2)と《ZONE 01》(2021年)(図3)であり、正面の絵画は今回の個展のための新作《御座 MIKURA 001》(2025年)(図4)である。
当然、こうした左右対称な空間構成は、宗教的な三連祭壇画や三尊像を想起させる。ただ、ここにはそうした神聖な静的秩序への志向と共に、敢えて図様を左右非対称にして世界を動的に捉える感覚もある。
造形上、《Consious》(図2)と《ZONE 01》(図3)は抽象画に分類される。ただ、どちらも単なる主観表出的な抽象模様というよりも、閃光や霧霞あるいは慣性や風力といった気象的・天体的な自然現象を連想させる抽象表現である。まずそこに、自然に即して作品の発する波動を清く高めようとする狩野の意志が感じられる。
また、画材として、《Consious》(図2)にはブラジル産天然ダイヤモンドが使われ、《ZONE 01》(図3)にはヒマラヤ水晶が用いられている。さらに、どちらにもロシア産シュンガイトが使用されている。これらを「岩絵具」と見ればこの2枚は「絵画」であるが、狩野のガラス彫刻家としての背景を考えれば一種の「平面彫刻」と言えなくもない。少なくとも、狩野の中ではこれらの絵画はガラス彫刻と断絶せずに通底したものであろう。
興味深いのは、両方共に使用されているシュンガイトが、組成上はダイヤモンドや黒鉛と同じ炭素だけの単一元素でありながら、約20億年前に形成され、世界で唯一ロシアのオネガ湖周辺でしか採取できない希少鉱石なので、宇宙から飛来した隕石かもしれないと推測されていることである。しかも、シュンガイトは、強力な抗酸化力を有する炭素の集合体フラーレンを含む地上唯一の天然鉱石なので、ストレスを軽減し、自然治癒力を高め、老化を防止する「癒しの石」として医療や美容でも注目されている。つまり、狩野は素材上でも作品の発する波動を清く高めようとしている。
図4 狩野智宏《御座 MIKURA 001》2025年
その上で、新作《御座 MIKURA 001》(2025年)も、造形上は一見抽象的な単色絵画に見えながら、実際には表面に様々な形態が繊細に浮かび上がっている。実際に、目を凝らしてみると、まず左右に並ぶ二つの四角形が両界曼荼羅のように立ち現れ、そこにいくつもの不定形の形態が浮かんでは消えていくように感じられる。それは、やはり世界が「量子泡」的に揺らめくヴィジョンである。
おそらく、この画面をずっと眺めていると、何だか生成する宇宙の深淵を覗いているような気分になるだろう。その点で、ここで狩野は世界が波動から成り立っていることを絵画的に表現している。
その一方で、右下の目立つ縦長の長方形は、即物的な物質性を露呈している。これにより、画面は完全に平面的なイメージに回収されずに、彫刻的な立体性も感受される。さらに、この彫刻的な立体性は、素材が鉛で画面全体が凹型に湾曲していることでより強調されている。従って、この絵画も狩野の中ではガラス彫刻と断絶せずに通底したものであろう。
そうした湾曲画面が正面に置かれることで、左右の平面絵画にも連続的に曲面的な空間感や運動感が生まれる。それにより、鑑賞者はまるで球体状の立体空間の中で、世界が「量子泡」的に波立つのに立ち会っているように感じられる。その意味で、ここでも狩野は世界が波動から成り立っていることをインスタレーション的に表現している。
筆者は、こうした三方向を絵画に囲まれた聖なる空間について、狩野の出自からすぐに狩野山雪(1590‐1651)の天球院における畢生の大作《梅花遊禽図襖》(1631年)を含む「梅の間」を想起した。天球院は、妙心寺の塔頭で、臨済宗の仏教寺院である。ただ、両者の違いは、山雪が江戸時代初期の画家として大自然の感覚を通じて鑑賞者を浄化しようとするのに対し、狩野は現代のアーティストとして大宇宙の感覚を通じて鑑賞者を浄化しようとすることである。
また、筆者は、こうした「コ」字型に絵画が配された聖なる空間について、ちょうど最近鑑賞した最初の抽象画家として脚光を浴びる「ヒルマ・アフ・クリント展」(東京国立近代美術館:2025年3月4日‐2025年6月15日)における「祭壇画、グループX」シリーズの《No. 1》(1915年)、《No. 2》(1915年)、《No. 3》(1915年)も連想した。ただ、両者の違いは、西洋人のアフ・クリント(1862‐1944)の造形と彩色にはどうしても彼女なりの個性の主張が伺えるのに対し、日本人の狩野の造形と彩色にはむしろ匿名的・脱個性的な方向性が見て取れることである。
狩野智宏 展示風景
さらに左奥に続く細い通路から次の展示室に入ると、こうした空間の神聖化はさらに進展する。この展示室でも、正面と左右の壁面にそれぞれ新作の絵画が展示されている。
この空間でも、こうした左右対称な空間構成は、宗教的な三連祭壇画や三尊像を想起させる。ただ、ここでもやはりそうした神聖な静的秩序への志向と共に、敢えて図様を左右非対称にして世界を変化するものとして捉える感覚もある。
これらの3つの絵画も、一見抽象的な単色画に見えるが、実際には表面に様々な形態が繊細に浮かび上がっている。実際に、目を凝らしてみると、《御座 MIKURA 002》(2025年)(図5)では、画面左上に水の波紋のような複数の同心円が円環を描いている。また、《御座 MIKURA 003》(2025年)(図6)では、画面中央に垂直に落下する光点を巡って燐光が輪を成し渦を巻いている。さらに、《御座 MIKURA 004》(2025年)(図7)では、画面中央に正円と正三角形の深奥で光点が瞬いている。これらの純粋な幾何学性は、いずれも清らかな神聖性を示している。
やはり、これらの画面をずっと眺めていると、何だか生成する宇宙の深淵を覗いているような気持ちになるだろう。その点で、ここでも狩野は世界が波動の響き合いであることを絵画的に表現している。
その一方で、これらの3つの絵画も、いずれも素材が鉛製で画面全体が凹型に湾曲している。そのため、やはり画面は完全に平面的なイメージに回収されずに、彫刻的な立体性も感受される。従って、これらの絵画もまた狩野の中ではガラス彫刻と断絶せずに通底していると考えられる。
さらに、そうした湾曲画面が三方に配されることで、鑑賞者の周囲には曲面的な空間感や運動感が生起する。それにより、鑑賞者はまるで球体状の立体空間の中で、世界が「量子泡」的に共鳴しているように体感される。その意味で、ここでも狩野は世界が波動の響き合いであることをインスタレーション的に表現している。
図5 狩野智宏《御座 MIKURA 002》2025年
図6 狩野智宏《御座 MIKURA 003》2025年
図7 狩野智宏《御座 MIKURA 004》2025年
現代美術の文脈では、こうした神聖さを感じさせる瞑想的な展示空間は、マーク・ロスコ(1903‐1970)の「ロスコ・ルーム」を想起させずにはおかない。ただ、両者の差異は、ロスコが大画面のかなり大まかな抽象表現で鑑賞者を覆うのに対し、狩野は小画面の極めて繊細な抽象表現で鑑賞者を包み込むことである。
精妙なる清浄。それこそが、狩野の絵画の特徴である。
図8 狩野智宏《御座 MIKURA 005》2025年
これに加えて、この展示空間の残るもう一つの背後の壁面には、《御座 MIKURA 005》(2025年)(図8)が展示されている。この作品は、鉛板の表面に繊細な模様が描き表わされている点では絵画的平面性を有しているが、その鉛板が厚みを持ち中央に円盤状のガラス造形が据え付けられている点ではやはり彫刻的立体性も示している。従って、やはりこの半立体絵画も狩野の中では従来のガラス彫刻の延長であろう。
造形上、この作品は、正対する壁面に展示された暗闇の中で光が円弧を描く《御座 MIKURA 003》(図6)と呼応している。また、形体上、四角形と円形の純粋な幾何学性により清らかな神聖性を表し、ガラス造形により天界の光輝を暗示しているといえる。
ただし、重要なのは、配置上この作品が正面の《御座 MIKURA 003》(図6)と一直線上に並ばず、左右対称な構成から少し外れていることである。また、四角形が正四角形ではなく長方形であることで厳格性が緩み、さらに一点だけ立体的なガラス造形が存在することで空間全体に不規則性も生じている。これらにより、三壁面の湾曲画面が作り出す超越的な瞑想空間に、わずかに遊び心が現れている。それにより、鑑賞者はこの展示空間に没入しても完全な忘我状態には陥らずに朗らかな芸術鑑賞という構えを保ち続けることができる。
つまり、この《御座 MIKURA 005》(図8)があることにより、この展示空間は宗教信仰ではなくあくまでも芸術鑑賞の場であると担保される。より正確に言えば、ここで狩野が試みているのは、何か特定の宗教による説法ではなく、あくまでも芸術的な感興の中で本来誰もが持つ精神性を活性化することなのである。
左 図9 狩野智宏《ピュシスの庭5》2016年
右 図10 狩野智宏《ピュシスの庭6》2016年
さらに、この展示室の左側には隠し部屋のような空間があり、そこには2017年の東京画廊での「狩野智宏・神代良明展」に出品されたガラス彫刻《ピュシスの庭》(図9-図12)が4点展示されている[2]。
これらのガラス彫刻は、ガラスを様々な自然素材と共に焼成して自ずから生じるひび割れや焼け焦げを風合いとして生かしている。そこでは、人為で自然を完全にコントロールするのではなく、ガラスの性質や偶然の効果を取り入れることで自然そのものが出現している。つまり、ここでも狩野は作品の発する波動を自然に即して清く高めようとしている。
なお、ここでいう「ピュシス」は、古代ギリシャにおける「自然」を意味する言葉で、近代西洋科学により魂無きものとして脱聖化される前の本来人類に普遍的な神聖的自然という含意がある。明治以後に近代西洋の「ネイチャー」を翻訳した「自然」が「しぜん」と呼ばれるのに対し、この意味での古語の「自然」は「じねん」と呼ばれる。狩野は、これらのガラス彫刻でこの「じねん」をテーマとして追求していたことを付言しておこう。
図11 狩野智宏《ピュシスの庭8》2016年
ここで重要なのも、これらのガラス彫刻が遊び心のある不規則な配置で展示され、やはり芸術上のオブジェであることを示唆していることである。さらに言えば、今回の狩野の絵画が、三福対を二段階で反復し、いずれも空間構成では左右対称という神聖な静的秩序を志向しながら、図様では敢えて左右非対称な不揃いで展示されているのもまた、宗教ではなく芸術の範囲に留まる意志を表明している。
これらにより、鑑賞者は、今回の狩野作品の展示全体に没入しても無用な野狐禅状態には陥らずに明澄な芸術鑑賞という心持ちを維持し続けることができる。すなわち、今回の展示全体で狩野が意図しているのは、やはり何か特定の宗教による説教ではなく、あくまでも芸術的な感動の中で本来誰もが持つ霊性(スピリチュアリティ)を賦活することなのである。
図12 狩野智宏《ピュシスの庭9》2016年
このように、狩野が一貫して宗教ではなく芸術にこだわるのには理由がある。というのも、普段私達はできるだけ目を背けているが、現実には今人類は滅亡寸前の深刻な危機にある。私利私欲のために、自然が破壊され、戦争が勃発し、人々が殺害され続けている。その一方で、AI技術の発達や科学技術の暴走は人々の心身を陰に陽に蝕んでいく。これらの問題を解決するためには、本来人類が皆兄弟であり、万物が一体であり、誰もが神性を分かち持っていることを思い起こさなければならない。
しかし、宗教の発する波動では、他の宗教の発する波動と調和せずに不調和を生み出してしまうだろう。だから、狩野は何か特定の教義による宗教ではなく、それ以前のあくまでも芸術の具体的な美を通じてより普遍的で相互理解可能な神聖な感覚を鑑賞者の内に蘇らせることを目指しているのである。狩野が従来のガラス彫刻に加えて、改めて絵画というもう一つの表現手段に本格的に取り組むようになったのも、その分世界に対する危機感が高まったからに他ならない。
この観点から、狩野自身が今回の新作絵画シリーズに付した自作解説「御座(みくら)の覚書き」もよく理解できるだろう。
人類が誕生した紀元、または神の存在を考える時、私たちが「神の分け御霊(わけみたま)」であるとするならば、宇宙の成立ちや超新星爆発といった現象は、私たち人間を構成する原子や粒子と深い関係を持つといえるでしょう。
宇宙は、ビッグバンにより膨張を始め、元素が形成され、恒星が誕生し、やがてその恒星が寿命を迎えるとき、超新星として爆発し、より重い元素が生成されました。
鉄、鉛、金、そして炭素や酸素など、我々の肉体を構成する元素の多くは、こうした宇宙の大爆発によって生まれたのです。つまり、我々の身体をつくる物質は、かつて星の内部にあったもの。我々の意識は、星々の記憶を内包し、この宇宙の流れの中で、「今ここ」に現れた神性のひとつの現れでもあります。
人間は「神の分け御霊」であり、同時に「星の塵」でもある。
物質と精神の統合体として、宇宙の進化の中で目覚めを迎える存在なのです。
また、宗教で言う「無の座」とは、いかなる形にも染まらず、いかなる音にも共鳴せず、すべてが発する前の「源」のような場。それは「空(くう)」でも「虚(うろ)」でもなく、すべての存在がそこから現れ、また帰っていく「最も静謐なる座」。人間の意識が静まり、思考が波を立てず、自己という輪郭すら融けてゆくとき、その深みにふと姿を現す。仏教で言えば「無分別智」の境地。道教で言えば「玄(くろし)」の座。量子のゆらぎさえ沈黙する、「有と無の間(はざま)」に開かれる場所。アートにおいて「無の座」を表現するとは、描かないことで表すこと。沈黙を響かせること。見る者の意識がその沈黙のなかで目覚めること。それは、無限のはじまりであり、一切の終わりでもある。
「わたし」が「わたし」を越えてすべてとひとつになる座。
「無の座」とは、すべてが始まり、すべてが還る「ゼロポイント」である。
それは何もない虚無ではなく、全ての可能性が静かに孕まれている場。光も音も届かぬ“無”の中に、自らの存在を感じたとき、人は「私はすでに神であった」と思い出す。
御座に坐すとは、自分の中の“真の空”に戻ること。そこから生まれるアートは、技法ではなく、“響き”である。
私が用いる鉛という素材は、沈黙し、重く、地に根ざした「闇」のような存在でありながら、変容のプロセスを内包している。
作品には、ムトウハップなどを用いて黒化させることで、「混沌から光への旅」を表しています。鉛が黒く酸化してゆく過程は、まるで魂がカルマを溶かしながら、神性へと還元されていくようです。この黒は死の象徴ではなく、むしろ“始原”であり、“ゼロポイント”。そこから生まれるわずかな輝き、金やダイヤ、隕石の閃きは、自己の中にある神の光の顕れです。黒く沈む鉛板の中に見えざる意志が光を孕む積層された闇に微細な金のひらめきが宿るときわたしが神の囁きを聴く。
御座(みくら)とは、神が顕れるための“座”、空間、または場です。それは決して目に見える王座ではなく、「存在を許す空白」、「内なる静寂」「沈黙の中心」にして、すべてが生まれる原点である[3]。
過ちを責めるのではなく赦すには、愛情に満たされた広く深い心が必要である。それが、「ラブ・アンド・ピース」の精神である。なお、狩野はリアルタイムでヒッピー・ムーヴメントの洗礼を受けた最も若い世代に属している。
相手を変えようと思っても、変わらない。変えられるのは自分だけであると、狩野は言う。
そこで、狩野は人知れず世界の平和と安寧を祈る。私達は本来一つであり、魂の同胞であり、争いは無益である。相手の幸福なくして、自分の幸福もない。それなのに、なぜ人々は分かり合えないのだろう?
そこに、大声の自己主張は要らない。狩野は、ただ真摯に寡黙に祈るだけである。そして、その祈りを形にする。狩野は、その形の美の追求を通じて清らかな波動を発し、人々に友愛を伝え、世界を浄化しようと試みているのである。
狩野の作品には全て、無音の祈りが木霊(こだま)している。その点で、ガラス彫刻も絵画も一体のものである。聖なる沈黙の共鳴。それこそが、狩野の芸術作品の本質である。
ぜひ、その美しく繊細な波動の響き合いに耳を傾けて欲しい。狩野の芸術作品は、世界の平和と安寧への清らかで切実な希求なのである。
註
[1] 狩野智宏「玉響」
【京都】
会期:2022年6月26日-2022年7月10日
会場:kōjin kyoto(京都府京都市上京区上生洲町248-6)
【東京】
会期:2022年7月13日-2022年7月29日
会場:athalie(東京都港区南青山6-6-25)
[2] 狩野智宏・神代良明展
会期:2017年1月21日(土)–2017年 2月18日(土)
会場:東京画廊(東京都中央区銀座8-10-5 第4秀和ビル7階)
[3] 狩野から筆者に提供された覚書きによる。
(写真は全てギャラリー提供)