彩字記#12(採取者・市原尚士)

銀座は変な物件の宝庫

日々、ギャラリーを回る筆者にとって、京橋と銀座とを結ぶラインは、まさに「画廊回りの大動脈」とも呼ぶべき存在です。このルートを毎週最低でも2回は歩くのがルーティーンとなっています。大体は、「銀座1〰4丁目コース」「銀座5~8丁目コース」の2つのルートに分けて、重要な展示もそうでない展示も一網打尽にするのです。感覚的なことしか言えませんが、銀座の1〰8丁目を回れば、都内で開催されている展示の15~20%程度は掌握できている安心感が得られます。1週間の残り5日間は、天王洲方面、六本木方面、日本橋方面などなどに充てます。すると、(多分ですが)30%弱くらいにまで展示掌握率が上昇するわけです。

他人様の鑑賞履歴はあまり気にし過ぎないようにしています。つまり、自分の回っていない画廊ばかりを回っている方がいても、あまり気にしないということです。ご縁があれば、遠い町の画廊にだっていきますし、ご縁がなければ近所の画廊にだって足は運びません。自分が回っている画廊は、ご縁があるから回っているーーそれでいいんです。自分の体は一つしかありません。そして、自宅がどこにあるかによって、画廊の回り方もかなり制約が出てきます。ですから、他人様の質・量ともに輝かしい(ように見える)鑑賞履歴をSNS等で見ても、まったく焦る必要性はないのです。

さて、本題に入りましょうか。銀座を週に最低でも2回は歩く筆者の目から見て、この街は妙な物件の宝庫なのです。変なものが貼ってあったり、置かれていたりすることがちょいちょいあります。ただし、あっという間に撤去されてしまうというのも銀座の特徴です。変なものを発見して、次の日に確認しにいくと、もう跡形もなく消えています。それを知っている筆者は、見かけたらすぐに観察し、撮影をするようにしています。

自然淘汰の人?

銀座1丁目の路上で見つけた、奇妙な文面のビラ。発見した翌日には消え去っていた

銀座1丁目の路上で、おかしな文言のビラ(?)が貼られていました。A4判サイズくらいのビラにはこんな奇妙な文言が書かれていました。部分引用いたしましょう。

全ての人よ!自然淘汰の人たれ!永久に老いることなかれ!その白髪も!その無数の傷シワも!曲がった身体も!本来のあなたの姿ではない!未知を追求しなかった社会の限界だ!無限の力を社会と調和の未来を拓きながら、悩みながらも活発に自分の決めた未知を突き進もう!と、亡き父たちは申し上げます。竹の!竹炭の力を知り給え!(後略)

支離滅裂な内容で何を言いたいのか判然としません。ただ、多い白髪と無数のシワに覆われ、身体もややへたってきた筆者にしてみると、ちょっと引き込まれてしまいます。どうやら、竹炭をうまく活用することによって、すべての問題が解決すると主張したいようですが、具体的に竹炭をどう活用すれば、人生が見違えるように改善されるのかの方策が書かれていないので、モヤモヤします。「続きはウェブで」という文言の横にQRコードでもついているのかな?と思ったのですが、そのようなものもないので、永久に老いないためのメソッドが分からないままで放置された感じになってしまいました。

「自然淘汰の人」という言葉と「永久に老いない人」という言葉の間に何の関連性も感じられないので、分かりにくいのです。また、「と、亡き父たちは申し上げます」も削除した方がいいでしょう。つまり、「自然淘汰の人たれ!」「と、亡き父たちは申し上げます」の両方を削除すれば、もう少し文意が明瞭になったと筆者は考えました。しかし、街の珍物件には、必ず「自然淘汰の人」のようなノイズが混入しています。このノイズがあるからこそ、奇妙な味わいも生まれるのです。竹炭をうまく活用すると不老不死になるのでしょうか? うーん、気になります。

銀座の刈り上げクン

銀座の7~8丁目の18~19時、高級クラブに勤める「夜の蝶」が大量に闊歩しています。勤務先の店舗に向かって出勤途中なのです。鼻の下を伸ばしたオジサンを同伴している場合もありますが、多くの場合は独りで歩いています。他店への引き抜きを狙うスカウトの男性たちが、「これは金になりそうだ」と狙いを付けた対象に近づいては、「もっと儲かるお店を紹介してあげる」と必死になって口説いています。

そのようなスカウトから身を守るためでしょうか、それとも、プライドの高さの故でしょうか? 銀座の夜の蝶たちは、非常に面白い仕草を見せてくれます。筆者は、いつもその仕草を見て、必死に笑いをこらえているのですが、ご紹介しましょう。

頭を後ろに一切倒さず、つまり、頭そのものはまっすぐ前を向いているのに、非常に遠方の山並みの中腹でも見るかのように目線だけをわずかに上げているのです。そうですね、角度で言うと、2度とか3度くらいでしょうか。地上を歩く、そんじょそこらの人間には目線なんか断じて合わせてやるもんか、と言いたげに、目だけ遠方を見上げているのです。

男性の場合、偉そうな方は、よく、じろっと辺りを見回し、若干の威嚇も込めた仕草、「睥睨(へいげい)」をしますよね。夜の蝶たちの場合、目を一切、合わさずに歩くのが、「女性版睥睨」になっているのです。つまり目を合わせないこと、他者を見ないことがある種の睥睨になっているのです。男と女で睥睨の表現法が正反対なのが面白いですね。

銀座8丁目の路上に生息していたマスクマン

閑話休題。また、話しがそれました。本題です。そういう夜の蝶たちが闊歩する銀座8丁目に妙なステッカーが貼ってありました。頭部のサイドをかなり極端に刈り込み、マスクを着けた若い男性(仮称・マスクマン)のステッカーです。これは、いったい何を意味するのでしょうか。「夜の蝶」に懸命に声をかけるスカウトに見えなくもないし、あるいは、ゴールドジムのサウナ常連さんに見えなくもない。いったいぜんたい、この男性が何を表象しているのかが判然としないのです。

すぐ左横にはしゃれこうべのステッカーが貼られていました。その右下部にかぶせるようにしてマスクマンのステッカーは貼られている訳です。もしかしたら、マスクを真面目に着けようが、若かろうが、死ぬときはあっという間に死ぬのが人間存在であるということを訴えようとしているのかな、とも思いました。つまり、「メメント・モリ(死を忘れるな)」と訴えているのではないか、が筆者の結論です。あるいは、いつ死んでしまうか分からないのだから「カーペ・ディエム(今を大切にしよう)」と訴えているようにも思えました。

ただ、しゃれこうべのステッカーを貼った人間と、マスクマンを貼った人間は、おそらく異なると思います。とすると、マスクマンのステッカー単体だけで鑑賞した際には、何が何だか意味が分かりにくいです。一つ手掛かりになるのは、マスクマンの目線です。「夜の蝶たち」ほどではありませんが、仰角1〰2度になっているのがお判りでしょうか?

マスクマンは、決して私たちに目を合わせてきません。ほんの少し上方を見ることによって、他者と視線が絡み合うことを回避しているのです。マスクマンは傲岸不遜な姿勢で睥睨しているのか? それとも、目を合わさないことで高級感を醸そうとする夜の蝶たちと同じニュアンスを作ろうとしているのか? すべては謎です。

画廊巡りの道のりには、ありとあらゆる人生の悲喜劇と不条理が顔をのぞかせています。必ずしも、美術鑑賞だけが目的ではないから、筆者の銀座・画廊巡りは長続きしているのでしょうね。あっ、補足です。京橋周辺は珍物件をあまり目撃できませんよ。あのエリアはオフィスのビルばかりで、猥雑な雰囲気のエリアがほとんどないからです。

歩いていて、面白いのは、やはり猥雑さの漂う場所です。ただ、新宿・歌舞伎町は猥雑さを通り越して、濃厚な暴力の気配が漂っているので、「都会のネズミ」である筆者は、よほどのことがない限りは近寄らないようにしています。読者の皆さんも危険に巻き込まれないように留意しながら、画廊(=様々な人生)巡りを楽しんでください。(2025年8月10日15時2分脱稿)

*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。