「第3回 みつめて、かんじて、たべてみて! ―作品のみかた・味わいかた」と題する子ども向け公募展を埼玉県立近代美術館(埼近美)で拝見し、すっかり感心してしまいました。
通常、美術館が実施する子ども対象の公募展というものは、つまらないお題に基づいて絵を“自由”に描かせるものが多いです。ところが、本展は非常に伸び伸びとした内容でした。
埼近美の収蔵作品4点のうち、自分の好きな1点を選んで鑑賞するところまでは、普通なのですが、その先が面白いのです。感じ取ったことや想像したことを、食べ物・料理になぞらえて絵で表現するのです。

ポール・シニャック「アニエールの河岸」に触発されて、子どもたちが描いた作品群
マックス・エルンスト(1891~1976年)に、こんな名言があります。
Art has nothing to do with taste.
Art is not there to be tasted.
芸術はいわゆる「趣味」とは無縁であって、(趣味の良い人が)味わうために存在するのではない、みたいなニュアンスの言葉だと理解していますが、この言葉の中の「taste」を趣味ではなく、あえて「味覚」と訳すのも面白いな、と思います。芸術は味覚とは無縁、という言葉として理解するということです。
筆者はエルンストにこう反論したいです。美術作品の持つ色彩や形状は、かなり人間の生理に作用するものだと思うのです。例えば、皆さんもこんな体験はないですか?

テルイェ・エクストレムの名作椅子にインスパイアされた子どもたちが描いた作品群
美術館内で作品を鑑賞している際、空調が利きすぎている訳でもないのに、寒くて寒くてたまらなくなったことはないでしょうか?
あるいは、さっきご飯を食べたばかりなのに、作品を鑑賞していると、おなかが空いてきたような感覚に襲われたことは?
感動して涙がとまらなくなるのは日常茶飯事ですよね。筆者の場合、感動しすぎて、背中に電流が走ったこともありますね。具体的には、尾てい骨(下方)から腰椎を経由して背骨の上方に向けて「ビビビッ」と電流が走りました。これは、別に病気とか妄想とかではありません。本当に感動しすぎた余り、電流が走ったのです。
また、美術館内での鑑賞だけでなく、本当に素晴らしいコーヒー(紅茶、抹茶)を飲むのも芸術的な体験の一つだと思います。たくさんの段階が存在するのです、賞味という行為には。
まず、液体の持つ視覚的な美しさを愛でます。そして、香りを嗅覚で堪能した後、おもむろにカップの縁に口を付けて、ほんの少量を口内に含みます。「飲む」というより「含む」というのが適切ですね。そして、口中に広がる香り、味覚を堪能した後、初めてコーヒーを飲むのです。
がぶがぶ飲んでしまってはいけませんよ。そうですね、一口あたり多くて6~9㏄程度でしょうか? そして、液体が食道に流れ落ちた後は、口中と喉元に付着した微量のコーヒーから発せられる香気が鼻腔にまで立ち上ってくる、いわゆる「アフターテイスト」を満喫するわけです。
思う存分、アフターテイストを楽しんだら、また、次の一口に移行するわけです。コーヒーは温度変化によって味わいが徐々に変貌していきます。つまり、湯温の変化によって、味も変化するのです。これも楽しみの一つです。
このような一連のサイクルを楽しむのが、「喫茶」です。これはもはや芸術なのです。45~50㏄しか入っていないデミタスカップのコーヒーが本当の専門店では1500円という値段だったりします。そして、飲み方が分からない方は、一口か二口ですべて飲んでしまって、「何だこりゃ。高すぎるよ、このコーヒー」などと頓珍漢なことを言っています。
筆者のような道楽者ですと、デミタスカップのコーヒーを20分以上かけて賞味するのが当たり前なんです。全部飲み終わっても、欲が深いので、カップの底に残った0.5㏄にも満たないような微量のコーヒーが放つ香りを嗅いで、楽しんでいる始末です。
随筆家・寺田寅彦(1878~1935年)は「コーヒー哲学序説」で、力強く言い放っています。
一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。(中略)少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。
岡倉覚三(1863~1913年)の「茶の本」もお茶の尊さを説いた素晴らしい本です。筆者は「茶の本」を自身の聖典として、常に拳拳服膺しているのでした。ただ、寅彦のコーヒー哲学ももっと多くの方の目に触れてほしいと思い、本稿で紹介しました。
あっ、また筆者の脱線癖が出ちゃいましたね。コーヒーとか紅茶とかお抹茶の話をしている原稿ではありませんでした。エルンストさんに“反論”していたら、いつの間にか、コーヒー礼賛の文章になってしまいました。本題に戻りましょう。
埼近美の公募展では、同館所蔵の彫刻、絵画、名作椅子などを題材にして、小・中学校、高等学校の児童・生徒が食感、味、匂いを表現する絵画作品を制作したのです。今回は合計73点の応募があったのだとか。筆者は一つ一つ丁寧に鑑賞しました。新印象派の画家ポール・シニャック(1863~1935年)の「アニエールの河岸」を鑑賞し、「晩秋の夕日スープ」と題する中学1年生の作品をご覧ください。

「晩秋の夕日スープ」
この多幸感あふれるスープ、絶対においしいに決まっています。作者の方のコメントが実によかったので、全文紹介します。
まるで、秋の夕日を連想させるような、口にいれたしゅんかん、ふわっと心があったまる味をしています。スープは少しトロトロしていて、具もよくにこまれている。匂いは少し甘めで、口にいれると、たまねぎとにんじんの甘さが最初に感じられる。このスープを見たとき、表面がかがやいている様子から、夕日を思ってほしい。
何と素晴らしい自作解説なんでしょうか。スープの表面の輝きから夕陽を想起してほしいーー確かにそうです、その通りです。夕日を浴びながら、さんざめいている海の水面のように、カップの中にも小さな海と太陽が確かにきらめいていたわけです。この子の作品と言葉に出合ったおかげで、筆者はこれから先、おいしいスープを飲む時は、夕陽を思い出すことでしょう。
それにしても素敵な絵ですね。カップに入ったスープが夕陽そのものに変容し、空中に浮かんでいるみたいです。太陽の光は世界中、分け隔てなく届いています。そのように、温かくておいしい一杯のスープが飢えている方、戦乱で苦しんでいる方にも届いてほしいな、と心より思いました。
埼近美の近くにお住いの方、そうでない方も、この子供たちによる素晴らしい作品群はぜひ見てほしいです。
ただ、お子さんを対象にした公募展に不満がない訳でもありません。この埼近美の公募展の話をしている訳ではありませんが、あくまでも一般論として苦言を呈しておきます。
筆者が思う最大の問題点は、パターン化した作品が多く見られる点が目に付く、ということに尽きます。美術の教科書に載っていた大人の有名作家の発想を真似しているのか、過去の子ども対象のコンクール等の最優秀作品を真似しているのか、それは分かりませんが、とにかく似通った作品をよく見ます。
絵画の場合は、こんな感じです。
▽大きく描かれた子供の目の辺り、瞳の部分が地球になっている。環境が荒廃していることを憂えているのだろうか? 目尻からは涙が流れている。
▽砂時計がどんと画面全体に大きく鎮座している。砂が下方にどんどん落下している。ところが、その下方には、地球が入っている! 砂が最終的に全部落ちると、地球は砂で埋め尽くされて、窒息してしまう。こりゃ、えらいこっちゃ、みたいな作品。
▽教室内と思われる部屋の中で、女子生徒(中学生?)がどこか憂い気な顔をして、こちらをぼんやりと見ている。ところが、この空間には水が満たされているようで、お魚も泳いでいる。水中のどこかフワッとした浮遊感の中で、ぼんやり椅子に座る生徒の姿にはどことなく夢見るような寂しさも感じられる。
写真の場合は、こんな感じです。
▽海辺。波打ち際の前で友人たち3人の女子高生がジャンプしている姿をあえて白黒でプリント化。青春の一瞬よ、永遠なれ、みたいな作品。
▽秋のお祭り。手前左方にキツネの面が大きく映りこむ。奥側(右方)には、何やら妖の者の面をかぶった同級生の女子高生の姿が入っている作品。
▽今どき、珍しい、嫁入り行列のような地方風俗的な行事、慣習をちょっと俯瞰気味に捉えた作品。
いかがでしょうか?
筆者は、全国各地の美術館、市民ホール等で開催されている児童画などのコンクールも大量に鑑賞しているので、手あかのついたような子どもたちの作品にいつもうんざりしています。これは、子供もいけないのですが、もっと悪いのは審査している大人たちだと考えています。
要するに審査員の皆さんが、きちんと全国各地のコンクールを回っていない、子供たちの作品をよく見ていないから、月並みな、手あかのついた作品を高く評価してしまうのです。その「評価」を見て、学んでしまった子供たちは、また、似たような作品を描いてしまうーーという悪循環が続いているのです。
審査員の皆さんは、著名な芸術家だったり、識者だったり、教育委員会の重鎮だったりと色々な顔ぶれですが、総じて、勉強不足が目立ちます。だから、似たような発想の作品が全国各地どこの公募展でも高く「評価」されてしまっているのです。
ちなみに埼近美の今回、ご紹介した公募展では、審査員の皆さんがよく勉強をなさっているようで、月並みで手あかのついたような作品はあまり見受けられませんでした。とにかく、審査する側が、もう少し、たくさんのコンクールや公募展を鑑賞していないと駄目ですね。審査員の不甲斐なさばかりが目立つコンクールが多すぎです。もっと新鮮な発想の作品を評価・顕彰して行かないと、日本の美術教育の底上げにつながらないと思います。
筆者が指摘した月並みな作品群、実は成人以上の大人を対象にした公募展、コンクールでも非常によく見かけます。もう、嫌になるくらい見かけます。作家さんに提言します。せっかく貴重な時間を使って、作品を描こうとするのであれば、「今まで世界で誰も描いたことのないような作品」に挑戦しましょうよ。そして、審査に当たる方も、そういった作品をきちんと評価しましょうよ。現状のままですと、どこかで見たことがあるような無難な作品ばかりが評価されてしまいます。そんなの創造の名に値しませんよ。(2025年12月2日22時16分脱稿)

