フランスのシャルトルといえば、大聖堂が誰の頭にも浮かぶと思います。聖堂はほかにも多くあり、パリからの日帰りではいかにももったいない瀟洒な街並みです。著名なグラフィティ作家として知られる、EZK StreetArtの作品をこの街で発見しました。
【電波お祈り】

Wi-Fiこそが神なのか?
お祈りをしている女性の「お祈り」部分が、電波のようになっているという図柄です。この作品に込められた発想は、祈りも電波のようなものに過ぎないという批判的な視点でしょうか? それとも、「Wi-Fiこそが現代の神である」というメッセージを表出しようとしているのでしょうか? 筆者には、そのどちらなのか解釈ができません。
ただ、この「電波のような祈り」的なモチーフは、これまであちこちで見てきました。果たして、EZK StreetArt氏のオリジナルなのか、それとも誰かの模倣なのか、それは分かりません。このような絵柄というのは割と多く存在します。筆者の場合、「はいはい、また祈り≒電波パターンね」と軽くいなしております。絵画作品と同様、グラフィティにおいても、頻出するパターンのようなものがどうしても登場してしまうのですね。
パッと人目をひく、インパクトの強い絵を描こうとすると、ある種の類似したパターンに頼ろうとしてしまう恐れがどんな名手にもあるということです。どうせ描くなら、世界初の斬新なイメージを発表したいものですが、なかなか容易じゃないのです。EZK StreetArt氏ほどの著名な方でも、よくあるパターンに依拠したような作品を描くこともあるんだな、と思い、ご紹介しました。
EZK StreetArt氏が、世界で最初に、電波お祈りを描いていたのだとしたら、ここまで筆者が書いた文章については訂正して、お詫び申し上げます。
【人質?】

余白の美を感じさせる作品
同じくEZK StreetArt氏による作品と思われる、窓枠状のフレーム内に顔面がみっしり詰まったような作品も発見しました。上方を見ると、農薬を散布しているのでしょうか、何やらセスナ機のようなものが飛んでいます。顔面の左方には、何かを塗りつぶした痕跡が見られます。
本作の特徴は、「余白の美」です。あえて、余白を多く設けることによって、見る者が様々な想像をしやすくなっているのです。
「余白の美」と関係はありませんが、筆者の場合、この顔面を見て、最初に想起したのはジャン・フォートリエ(1898~1964年)の「人質」シリーズでした。
さらに鑑賞を続けると、ジャン・デュビュッフェ(1901~85年)のことも想起しました。ほぼ、同時代に活躍した2人の「ジャン」の作品がグラフィティから想起されるなんて、不思議だなと正直思いました。
「アール・ブリュット(生の芸術)」で知られるデュビュッフェは落書きから着想を得た「ご婦人の体」シリーズ(1950~51年)も制作しています。
そんなグラフィティとも関係の深いデュビュッフェの名言中の名言が、これです。
真の芸術は、思いもよらない、名も知らない、予期しないところに潜んでいる。
この名言、まさにグラフィティの定義のようです。思いもよらない、名も知らない、予期しないところに、どうやって己の作品を潜ませるのか。グラフィティのライターだけでなく、すべての芸術を志す方にとって有益な名言だと思います。
【油絵のようなグラフィティ】

パリ市内のグラフィティ。中央の男性肖像が油絵のようなタッチだ
シャルトルからパリに移動すると、通りに面した建物(それとも塀?)の壁面いっぱいに多くのグラフィティが描かれていました。筆者が注目したのは、男性のポートレートです。油絵の具を厚塗りで使い、あえて荒々しいタッチで描いているように見えるのです。もちろん、屋外の壁面に、まさか油絵の具を使って描いているわけはないと思うのですが、どう見ても、油絵の具の雰囲気を醸しているのです。

パリのグラフィティ。肖像作品のアップ
ここまで来ると、グラフィティと美術館内に収められた絵画作品と、ほとんど差がなくなってしまいます。美術館の作品は表面を触ったら、もちろん怒られますが、グラフィティであれば、表面を触っても誰にも怒られません。要するに「ただの落書き」であるが故に、逆説的に“自由”がある、ということです。まぁ、権威のあるバンクシー様の作品だったら、屋外であっても気軽に触ったら、誰かに怒られそうな気もしますが…。
以上、フランスのグラフィティ、三連発でした。拙いご報告、ここまで読んでくださって、「メルシー ボークー」。(2025年10月17日19時27分脱稿)
*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。