根性なしの展示・下篇 市原尚士評

まったく「学芸員魂」が感じられない、根性のない展示について、前回の原稿では厳しく批判しました。

本稿では、展示内のあるコーナーから筆者が感じた疑問を提示したいと思います。まず、本題に入る前にイントロダクション的な内容から軽く入りましょうか。

国内外各地の美術館・博物館・文学館を訪れるのをライフワークにしている筆者は、同時に考古学好きでもあります。旅行の計画を立てる際は、訪れる県や市町村に大きな遺跡、古墳、近代化遺産などがないか、必ず調べています。そして、美術館や博物館をはしごする行程のなかに遺跡訪問も組み込むのです。

いざ、遺跡を訪れると、筆者はある時は、じっと立ち尽くし、ある時は、あちこち歩き回りながら、「この遺跡が作られたころのリアルな風景」を懸命に想像するのです。なかなか難しい作業です。しかし、解説パネルを読んだり、持参した遺跡の解説本を読んだりもしながら、なんとなく当時の風景が頭に浮かぶまで、そこに居続けるのです。そのような時空を超えた太古との対話がとても楽しいのです。

遺跡と言うのは、拙稿「魅力的な枠組み「縄文不動産」を全国に広げませんか?」でも触れた通り、遺跡とは要するに「住居=不動産」の一種です。作られた時代がかなり昔なだけの建築の跡です。そして、建築史家・鈴木博之(1945~2014年)の名言「建築は記憶の器」ではないですが、遺跡や古墳ももちろん記憶の器なのです。だから、筆者はその器に満たされた記憶を何とか感じ取ろうと五感を駆使して、遺跡の前に立つのです。

さて、そういった遺跡行脚を繰り返しているなかで、筆者はある問題点に気が付きました。横浜都市発展記念館の「戦争の記憶」展でも、まさに筆者が昔から考え続けていた、その問題点が露出していましたので、本稿で指摘をしておこうと思います。

展示チラシ裏面から。右上が「舞岡熊之堂遺跡・照空中隊本部跡」

展示内で、横浜市戸塚区にある「舞岡熊之堂遺跡・照空中隊本部跡」について、かなり丁寧に紹介されていました。実は、この遺跡の紹介は、2022年夏、戸塚区役所と舞岡地区センターレアリアでも開催されていました。遺跡好きの筆者は、戸塚区役所の展示をじっくり拝見したことを覚えています。あれから3年半が経過し、再び同じ遺跡の説明に触れたわけです。

まずは遺跡の説明を簡単にしましょう。2017年から2020年にわたり、神奈川県の埋蔵文化財センターは舞岡熊之堂遺跡の発掘調査に取り組みました。その結果、縄文時代中~後期の集落跡、弥生時代後期の環濠集落、さらには、太平洋戦争末期の照空隊陣地跡などが発掘されました。まさに歴史が積み重なった遺跡の調査結果に考古学界からの注目も集まりました。ただ、ここで注意しなければいけないのが、戦時中に遺跡に“上書き”された照空隊陣地の存在です。

今、筆者は「上書き」とやや控えめに申し上げましたが、要するに当時の軍部が、貴重な縄文時代の遺跡をごく一部分ではありますが破壊し、その上部に陣地を作ったということです。

類似の事例は、全国各地にたくさんあります。仙台市の川内C遺跡の場合、陸軍第二師団の施設や米軍の駐留地として使用されたこともあり、遺跡が破壊されていたことが知られています。神奈川県逗子市にある池子遺跡群の場合は旧日本海軍が弾薬庫として接収し、戦後はアメリカ軍提供用地となりました。ここでも、遺跡は破壊されています。沖縄に至っては、アメリカによる凄絶な艦砲射撃によって、遺跡どころか貴重な文化財が根こそぎ破壊されています。

このように、多くの遺跡は戦争の影響で破壊されており、考古学的な損失を考えると膨大なものがあるのは間違いないです。ところが、この戦時中の破壊行為を反省する声がほとんど聞こえてこないのです。専門家は、皆、口をそろえて、こう言うのです。

▽1950年の文化財保護法の制定よりも前、つまり戦前においては、現在のような文化財保護の意識は薄かった。だから、貴重な縄文遺跡が破壊されたとしても、当時の旧日本軍(=日本政府)の法的責任を問うのは難しい。

▽戦時中は、国を挙げて、戦争協力を最優先にしていた。そのような風潮では、遺跡の保護よりも何よりも国策協力が求められた。軍事上、必要な場所であれば、半強制的に接収してでも、軍の施設が建設された時代なのだから、遺跡の破壊は仕方ない。

まぁ、大体、有識者の皆さんは、こんなことを言うのです。でも待ってください。「戦争中だったから仕方ない」というレトリックが本当に通用するのでしょうか?

少し極端な例えかもしれませんが、ナチスの残党を追及する人々が今も活躍している例は?

逃亡したナチス戦犯が戦後もその行方を捜索され、法的責任が追及されてきました。アドルフ・アイヒマン(1903~1962年)が一番、有名ですよね。彼は戦後、アルゼンチンで逃亡生活を送りましたが、その後、拘束され1962年に絞首刑に処せられました。

アイヒマンは裁判の中で「自分は命令に従っただけの歯車」と言い続け、戦争責任を逃れようとしましたが、その言い訳はまったく通用しませんでした。「あなたは歯車にならない自由もあったはずだ」という言葉の前にアイヒマンはぐうの音も出なかったのです。

このアイヒマンの伝で言いますと、「文化財保護法がなかったのだから、軍部による遺跡の破壊は仕方ない」というレトリックが、ただのトリック的な言説であるのは火を見るよりも明らかでしょう。文化財保護法があろうが、なかろうが、貴重な文化財の破壊は「罪」なのです。要するに、日本人全体が本気で戦時中の“狂気”を反省する気がないから、全部水に流して、なかったことにしてしまおうとしているだけです。

ただ、戦時中の軍部による遺跡破壊が間違いであったことは明らかな一方で、まさに、その戦時中に構築された戦争遺跡も現代社会では貴重な文化遺産になっているという事実もあるにはあるのです。

「建築雑誌」2026年2月号の「遺してきたものーー保存継承の実践から」という座談会で参加者の一人である東京大学生産技術研究所教授の腰原幹雄(1968年生まれ)が重要な指摘をしています。腰原は現在、京丹後市の「旧峯山海軍航空基地格納庫」の調査を実施しています。典型的な戦争遺産である格納庫を保存するか否かの前提として、このような本音を漏らしたのです。

さらに私たちが最近困っているのは、こうした戦争遺産にどのような価値があるのか、それがわかる人になかなか出会えないことです。近代建築も、名のある設計者がいるものについては研究者がいるけれど、特に産業遺産の類は、研究者が非常に少ないですね。

腰原が指摘する通り、戦争遺跡も建造されてから80年以上が経過したため、たとえ現在、残っていたとしても、その価値を分かる人間がほとんどいないのです。つまり、戦争体験の風化が、貴重な戦争遺跡の保存・継承の前にネックとして立ちはだかっているということです。

ごめんなさい。少し話が脇にそれたかもしれませんね。話をいったん整理しましょうか。
貴重な縄文遺跡を破壊した日本軍部の責任は2026年の現在でも残っていると推量される。しかし、その一方で、縄文遺跡に上書きされた戦争遺跡も今では貴重な文化遺産になっている。私たちは、破壊された縄文遺跡、弥生遺跡も戦争遺跡も風化させることなく、きちんと調査研究しなければいけない、とまぁ、こんな感じでまとめられそうでしょうか?

つまり、歴史がモザイクのように重層している、「舞岡熊之堂遺跡・照空中隊本部」(縄文遺跡&戦争遺跡)には、高い価値があるのです。戦争遺跡にも高い価値があるからといって、縄文遺跡の破壊が免罪されるわけもないのに、戸塚区役所の展示でも、横浜都市発展記念館の展示でも、その破壊行為への反省の思いがまったく感じられなかった点に筆者は強い違和感を覚えたのです。

区役所は「官」、公立博物館で正規雇用された学芸員は「官」ですよね。つまり、1945年以前において、国民を戦争に引っ張っていった責任を持つ「官」の後継者である区役所職員、記念館学芸員に、戦時中、官が犯した過ちを反省する気持ちが希薄な気がするのです。

照空灯の仕組みや運用方法を解説したり、照空分隊陣地跡などを遺跡の地図の上に落としてみせたりする展示はあるものの、貴重な縄文遺跡を官が破壊してしまったことへの反省の弁はどこにも見当たらないのが、本当に歯がゆいです。

公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター(すなわち官)が作成したユーチューブ「横浜市戸塚区舞岡熊之堂の戦争遺跡-太平洋戦争末期の照空隊陣地の発掘ー」を鑑賞すると、冒頭、黒地に白抜きで、こんな言葉が出てきます。

平成29年から令和2年にかけて
横浜市戸塚区東部の丘陵で発掘調査が行われました
遺跡の名前は「舞岡熊之堂(まいおかくまのどう)遺跡」
そこで、太平洋戦争末期の陸軍によって構築された
照空隊という部隊の陣地跡が良好な状態で発見されました
大変珍しい遺跡なので、遺跡をドローンでデジタル撮影し
全面3D化して後世に記録を残すことにしました
この動画では、そうやって作成された3D画像を使いながら
舞岡熊之堂遺跡の戦争遺跡をご紹介します

この動画は、テレビゲーム感覚の映像で、陣地跡の歴史的意義をBGMと共に紹介する内容です。「縄文・弥生時代の竪穴住居が密集遺跡が密集して」いた旨はテロップで出てきますが、縄文・弥生時代の遺跡を部分的に破壊した旨は伝えられないのです。

そして、元々あった縄文・弥生時代の遺跡のマップの上に照空隊陣地の構築物の輪郭が重ねられるのですが、遺跡と陣地はあまり重なっていません。「ほらね、ほとんど昔の遺跡は避けるように陣地は建設されているでしょ。旧日本陸軍だって、遺跡に配慮していましたよ」と言わんばかりの映像です。

しかし、そもそも、仮に慎重に古い遺跡を外して建設したとしても、軍事施設ですから、当然、その上を人や重い物が通過するわけで、遺跡はほぼ間違いなく棄損されます。遺跡を壊さないように慎重にゲームセンターを作ったとして、そこに遊びに来る子供がたくさんいたら、当然、遺跡は壊れますよね。それと同じです。

ユーチューブの映像では、照空隊陣地の意義は称揚されますが、その下にあった縄文・弥生時代の遺跡の魅力はまったく紹介されません。と同時に、遺跡を破壊してしまったことへの遺憾の意もとりわけ表明されません。先ほど、筆者が有識者の反応を紹介した通り、「遺跡の破壊は残念だが仕方ないことだ」という前提を元に、照空隊陣地だけをフォーカスした動画になっており、非常に残念です。

戸塚区役所、横浜都市発展記念館、いずれの展示も基本線は、このユーチューブの内容と同じです。つまり、戦時中の遺跡破壊という罪は不問に付した上で、戦争遺跡の意義だけを紹介しているのです。公金を使った事業としては、極めて一方的な内容です。

そして、何よりも公務員(=官)が日本国憲法第99条に基づく「憲法尊重擁護義務」を負っており、その一環として平和主義(第9条)を尊重し、守る義務があることを考えると、戦争遺跡が破壊してしまった縄文・弥生の遺跡のこともきちんと紹介しないとまずいと確信しています。

上篇でも訴えましたが、政府や県庁や市役所や政治家に忖度するのではなく、学術的にきちんとした展示や映像を制作してほしいものです。

「神話」を科学的事実にしてしまう世の中が再びやってくることだけは何としても防がないといけないと全身で緊張する筆者が今、存在しています。(「建国記念の日」まであと9時間を切った2026年2月10日15時01分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。