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圓徳院 唐門
水津達大展 蹤跡
会期:2025年3月14日-2025年5月6日
(2025年2月20日より先行公開中)
会場:圓徳院(高台寺塔頭)
(京都府京都市東山区下河原町530)
画家水津達大(1987-)の個展「蹤跡(しょうせき)」が、京都市東山区の禅宗寺院圓徳院で開催されている。圓徳院の2025(令和7)年の春の特別拝観・夜間ライトアップのための特別展示である。
本展で展覧されるのは、水津が2021(令和3)年から取り組んできた「Khora(コーラ)」という新作シリーズである。「Khora」とは、古代ギリシャの哲学者プラトンが世界の創造を説く『ティマイオス』で提出した、存在が生成するための「場」を意味する概念である。この「Khora」は、近代日本の哲学者西田幾多郎(1870-1945)により、「純粋経験」において直観される有を生み出す無の「場所」と翻案されたことでも知られる。
ある意味で、「Khora」は、波を生じさせる「水」と言ってもよいし、あらゆる色がそこから生まれる「空」と言ってもよい。その本質を直覚するためには、人は無心でなければならない。そのとき、人は自他が分離する前の純粋な現実を生きられるだろう。それは、主客合一の境地である。
この「Khora」を主題とする水津の連作で描かれるのは、客体ではない。それは、具象画でないことはもちろん抽象画でさえない。そこでは、対象を描くのではなく無心になる過程を示すことが目指されている。描くともなく描かれていく点とも線とも不分明な透き通った筆触の積層は、見る者にも自ずから明澄な没我をもたらす。おそらく、それは禅の目指す心境や日本文芸における風雅の美意識と響き合っている。
「歿蹤跡(もっしょうせき)」という禅語がある。跡形を残さないという意味であり、未練や執着から解放された生き方と解釈される。喩えるならば、航行する船が立てた白波がやがて跡形もなく平らな水面に戻るイメージであろうか。
本展は、水津により「蹤跡」と題された。それは、悟りあるいは解脱に至る過程の謂いであり、捉われない明澄な心持ちを目指す指標である。
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圓徳院 方丈
圓徳院は、臨済宗建仁寺派の高台寺の塔頭である。
1598(慶長3)年に、戦国時代を統一した天下人豊臣秀吉が没する。1603(慶長8)年に、秀吉の正室である北政所ねねは、「高台院」号の勅賜を機に夫の菩提を弔う「高台寺」の建立を発願する。1605(慶長10)年に、ねねは秀吉と暮らした伏見城の化粧御殿と前庭を山内に移築して移り住み、1606(慶長11)年に高台寺を開創した。
高台寺の建立には、政治的配慮から徳川家康も大きく協力した。最晩年までこの地に居住したねねの周囲には、政治的立場を超えて大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等の文化人が数多く集い、当代一流の文化サロンの観を呈したという。ねね没後の1632(寛永9)年に、この化粧御殿と増築された客殿が禅宗寺院に改められ圓徳院となった。
図1 水津達大《Khora》2025年
図2 水津達大《Khora》2025年
圓徳院は、京都らしい古き良き情緒の残る、重要伝統的建造物群保存地区である「高台寺北門前通」に面して建っている。北政所にちなんで「ねねの道」と名付けられたその通りから、武家屋敷の由来を示す長屋門をくぐり、唐門を越えて緑豊かな石畳の道を歩んでいくと、方丈が現われる。
方丈の手前には、南庭が広がっている。南庭は、白砂の線引きが美しい女性好みの瀟洒な枯山水庭園である。圓徳院が、ねねゆかりの禅宗寺院であることが如実に感じられる。
方丈の仏間に祀られる本尊は、釈迦如来である。その本尊手前の室中左右の上間と下間は、水津の《Khora》(2025年)(図1・図2)が荘厳している。その黄金の帯は、物質性を超えた精神性の象徴であり、それが風にそよぐ姿は、彼岸の光を幻視させると共に本尊の教化を補佐する脇侍のように見える。
図3 水津達大《Khora》2025年
方丈の回廊を廻っていくと、水津と長谷川等伯(1539-1610)の競演が見られる。
晩年の秀吉は、御用絵師の家系である狩野派よりも在野で新進の等伯を重用した。それは、腕一本で立身出世した等伯への共感と期待が大きかったからであろう。
そうした縁で、等伯が大徳寺塔頭の三玄院の住職の留守中に一気呵成に描き上げたとされる《山水図》が圓徳院に伝わっている(重要文化財)。現在の展示は「綴プロジェクト」による高精細複製で、4面が展示されている。白い桐花紋を深々と降りしきる雪に見立てたこの襖絵は、日本の伝統的な自然観を反映するものであり、おそらく禅の心と通じている。
その隣には、水津のサムホールサイズの《Khora》(2025年)(図3)が並置されている。《山水図》の雲母刷りの白銀の桐花紋と、《Khora》のアルミ顔料の白銀の筆触が、音もなく静かに呼応している。等伯の雪が無心に降り積もっていくように、水津の筆も無心に降り積もっていく。
図4 水津達大《Khora》2025年
図5 水津達大《Khora》2025年
図6 水津達大《Khora》2025年
北書院に繋がる廊下を進んでいくと、「無盡蔵」という宝物庫がある。「無盡蔵」とは、どれほど汲んでも汲み尽くせないという意味であり、無限の徳の源として仏教の言い換えでもある。
「東洋的無」の思想的淵源に、仏教と同じくインド発祥の「ゼロ」という数概念がある。ゼロは、無であると共に有であり、全ての始まりであり終わりでもある。空があらゆる色を含むように、ゼロはあらゆる数字を内包している。
この風格ある宝物庫の薄闇の中には、水津の《Khora》(2025年)(図4-図6)が展示されている。青い偏光塗料で描かれたその夢幻の描斑世界は、深海に揺らめく光彩のようにも夜空に瞬く星辰のようにも見える。
図7 水津達大《Khora》2025年
北書院の入口には、幕末明治の政治家山岡鉄舟(1836-1888)の扁額が掛かっている。その下には、檜製の木箱に描かれた《Khora》(2025年)(図7)が飾られている。
1875(明治8)年に、「幕末の三舟」と呼ばれる山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟らは、鎌倉円覚寺の今北洪川管長を拝請して参禅会「両忘会」を創設した。これは出家禅に対する在家禅の振興を目的とするもので、会名の「両忘」とは相反する二元――例えば「主体と客体」等――を超越する方向性を含意している。
なお、水津はこの両忘会の流れを汲む東京日暮里の座禅道場である擇木道場に通っている。この作品は、水津なりの参禅の精華である。
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圓徳院 北書院 北庭
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圓徳院 北書院 展示風景
図8 水津達大《Khora》2025年
図9 水津達大《Khora》2025年
図10 水津達大《Khora》2025年
図11 水津達大《Khora》2025年
図12 水津達大《Khora》2025年
図13 水津達大《Khora》2025年
北書院の北庭は、元は伏見城の化粧御殿の前庭であった。「天下一の石組の名手」と呼ばれる賢庭の作で、「綺麗さび」の大成者小堀遠州(1579-1647)が整えたと伝わる。実際にねねが日々の暮らしの中で眺めていた桃山時代の枯山水の代表作であり、現在は国指定名勝庭園である。200石を超える壮麗な石組みと四季折々のモミジはとても美しく、いつでも誰の心でも優しく癒してくれる。
枯山水は、水を使わずに白砂や岩石で理想的な自然風景を表現する。それに照応するように、北書院の3つの床の間にはそれぞれ絵画の《Khora》(2025年)が展示され、その手前にはそれぞれ檜製の木箱の《Khora》(2025年)が設えられている(図8-図13)。ここでは、アルミ顔料の白銀の筆触の演舞がもう一つの理想的な自然そのものを表象している。
一般に、床の間は大自然への窓口である。特に、北庭に面したこの北書院の床の間は大自然の直接的な鏡でもある。ぜひ、新緑が照り映える北書院の縁側に腰を下ろしてゆっくりと心静かに座り、吹き渡る風の音に耳を澄ませてほしい。きっと、外なる自然としての庭園と内なる自然としての《Khora》が無音で共鳴し合っているのが聞こえるはずである。
図14 水津達大《Khora》2025年
図15 水津達大《Khora》2025年
圓徳院には、旧京都特別観光ラウンジである客殿がある。この客殿は、一般拝観者は入場できないが、アメリカン・エクスプレス・カードの特別サービスとして休憩に利用することができる。
この客殿の床の間には、水津の黄金の《Khora》(2025年)(図14)と白銀の《Khora》(2025年)(図15)が掛けられている。その金銀の掛軸の設えは、風神雷神のようにも阿形吽形のようにも見える。
特に、黄金の後光が時空を超えて漏れ零れるような《Khora》(図14)は、圓徳院の後藤正晃住職の教えに基づき水津が手掛けた最新作であり、現代絵画において聖性を志向する取り組みの一つの形である。
◇◇◇
ねねの甥が、木下勝俊(1569-1649)である。1600(慶長5)年の伏見城を巡る関ヶ原の戦いの前哨戦で、東軍に属しながら戦闘を避けた責を家康に問われた勝俊は、後に出家して「長嘯子」と号し、叔母ねねの住まう高台寺近隣に隠棲して風雅の余生を送った。
歌人としての木下長嘯子は和歌に優れ、日本文芸史上は西行(1118-1190)と松尾芭蕉(1644-1694)を繋ぐ位置にある。現在、圓徳院の境内には、京都三仙堂の一つである、長嘯子を祀る歌仙堂がある。
時代は先行するが、西行は高台寺周辺にある雙林寺塔頭の蔡華院に止住したことがあった。長嘯子が高台寺近隣に隠棲したのは、西行を慕ったためもあるかもしれない。実際に、晩年の1639(寛永16)年頃に、長嘯子は西行の出家寺と伝わる勝持寺の傍に移住して亡くなっている。長嘯子にとっては、西行こそ歌僧の先達であり風雅を極めた歌人の理想だったのであろう。
それでは、西行の「風雅」とは一体何だったのであろうか。ここでは、「蹤跡」という言葉を手掛かりに考察してみたい。
西行の歌論について、喜海は『明恵上人伝記』で、1188(文治4)年に高雄山寺で71歳の西行が16歳の明恵に次のように語ったと伝えている。
我歌を読むは、遙かに尋常に異なり。 華、郭公、月、雪都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。
これを読むと、西行は自分の詩歌は一般の詩歌とは全く違うと言っている。また、西行は自分も機縁の度に花鳥風月を詠みはするが、此岸の対象は仮象に過ぎないのでそれをただ取り上げるだけでは真理の教えではないとしている。西行の説明は、次のように続く。
紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞやけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて、種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。
西行によれば、天空は虹が出れば色付き、太陽に照らされれば明るくなるが、本来天空には色も明るさもない。それは西行が花鳥風月を詠む時も同じで、自分の詩歌が取り上げるのは様々な此岸の事象であるが、そのこと自体が重要なのではなく自分の心はそれに執着しない。西行は、そうした此岸の事象に捉われない明澄な心持ちを説明するために正に「蹤跡なし」というキー・ワードを用いている。要点は、西行が自分はそうした一切の曇りのない純粋な心で詩歌を詠んでいると主張していることである。
此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。
つまり、そうした一切の曇りのない純粋な心であれば、様々な此岸の事象の深奥にある彼岸の真理を捉えることができ、その時に生まれる詩歌こそが、仏に通じる道である。そうした詩歌は、一種の仏像となり真理の教えとなる。言い換えれば、西行は自分の詩歌は全て単なる言葉遊びではなく仏教の道歌であると説明するのである。これは、出家歌人である西行としてはある意味で当然の自己注釈といえよう。
ここで重要なのは、西行がそれに続く大切な内容として次の詩歌を示していることである。
山ふかく さこそ心は かよふとも すまであはれは 知らんものかは
これは、例えば「深山幽谷」は想像することはできるけれども、その本質は実際に体験しなければ分からないと説くものである。つまり、真理の教えとしての詩歌を詠むためには、まずその契機としてたとえ仮象でも此岸の対象が重要であり、しかもその此岸の対象は想像ではなく生きられた現実として実際に体感しなければならないということである。
そして、そうした生きられた現実としての大自然に実際に触れることで浄化され、一切の曇りのない純粋な心――つまり無心になり、大自然に溶け込み回帰していこうとする精神態度こそが「風流」であり、その美意識が「風雅」といえる。さらに、それは、一切の執着を捨て我欲を放擲し、此岸の深奥にある彼岸の真理と一体化することにより梵我一如に到達しようとする姿勢に繋がるだろう。ここに、日本の伝統的な自然観に即しつつ仏教の真髄に迫ろうとする西行の真骨頂がある。
この西行の歌論を補足するように、藤原清輔は『袋草紙』(1156‐59年頃)で、既に西行に先立つ百年ほど前の「恵心僧都」と尊称される源信(942-1017)の歌論について次のように伝えている。
恵心僧都は、和歌は狂言綺語なりとて読み給はざりけるを、恵心院にて曙に水うみを眺望し給ふに、沖より舟の行くを見て、ある人の、「こぎゆく舟のあとの白浪」と云ふ歌を詠じけるを聞きて、めで給ひて、和歌は観念の助縁と成りぬべかりけりとて、それより読み給ふと云々。
すなわち、『往生要集』等で彼岸の真理を説く源信は、それまで詩歌は単なる言葉遊びに過ぎず真理の教えではないと否定していた。しかし、ある日源信は、夜明けに比叡山から眺めた琵琶湖を航行する船の立てた白波にあるがままの世界の真理――此岸の深奥にある彼岸の真理――を直観し、それを捉われない明澄な心持ちで言語化した「こぎゆく舟のあとの白波」という詩歌に深く感銘を受けた。その時、源信は詩歌も真理の教えの補助になると感得して自らも詩歌を詠み始めたということである。これは、「風流」や「風雅」といった日本の伝統的な自然観に即しつつ仏教の真髄に迫ろうとする西行の歌論と見事に相似形を描いている。
もちろん、こうした西行や源信の歌論は後世の創作である可能性がある。しかし、もしたとえそうであったとしても、西行や源信の詩歌が目指すものが日本の文芸的伝統ではこのように解釈されてきた事実を示唆していることは間違いないと言えるだろう。
◇◇◇
水津もまた西行に憧れて、2016年と2018年に西行と同じく2回、奈良から和歌山への修験道である大峯奥駈修行を満行している。そして、その険峻な山道の踏破経験は「Khora」シリーズ誕生の一つの契機でもある。
実際に、修験道の山歩きでは一足一足歩むともなく歩んでいくことで雑念が消えていくが、水津も「Khora」シリーズで一筆一筆描くともなく描いていくことで無心に近づいていく。その一つ一つの筆触は、いわば水津なりのあるがままの主客合一へ至る過程としての「こぎゆく舟のあとの白波」であり、専心没頭のために一度は通過しなければならない「蹤跡」なのである。
その意味で、水津の「Khora」シリーズは、没我を追求する日本の伝統的な自然観や美意識に根差しており、それを展覧する場所として無我を理想とする禅宗寺院は誠にふさわしいだろう。それこそが、正に今回本展「蹤跡」が圓徳院で開催される所以である。
なお、圓徳院は、宋から禅宗と喫茶を学び日本に広めた栄西が創建した建仁寺派に属している。そうした由緒から、北書院では点て出しも行っており、北庭と水津作品を眺めながら本格的な抹茶を楽しむこともできる。ぜひ、「画禅一味」を基調とする本展「蹤跡」では併せて「茶禅一味」の世界も堪能していただきたい。
企画監修 秋丸 知貴(美術評論家)
「水津達大展 蹤跡」公式ウェブサイト
https://suizutatsuhiro.com/2025traces/
水津達大公式ウェブサイト
https://suizutatsuhiro.com/
圓徳院公式ウェブサイト
https://www.kodaiji.com/entoku-in/
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