見えざる脅威と畏怖の表象 ―「川久保ジョイ:LEFT IS RIGHT―45億年の庭と茹でガエル」原爆の図 丸木美術館 木村絵理子評

私たちの恐怖とは、多くの場合、未知のものや不可視のものに起因する。古くは幽霊や妖怪、夷狄、山や海の獣や、突如襲う自然災害。そして現代では、インターネット上の真偽不明瞭な情報や、個人の力では防ぎ難く思わせる政治や経済的な対立、そして原子力エネルギーの脅威など、不確かさに由来する脅威は枚挙にいとまがない。そして、川久保ジョイの作品は、こうした見えざるもの、不確かなものを可視化しようとする試みであると同時に、そうした見えざる力に対処してきた人間の営みに対する強い興味に裏打ちされたものということもできるだろう。

本展は、川久保の初期から最新作までを概観する個展である。全部で12点の作品は、丸木美術館の2階と1階、そして屋外に点在し、個々の表現も多種多様である。しかし一見バラバラの点も、点と点をつなぐ見えざる糸を辿るように共鳴する要素を持っている。


《10枚のインスタントフィルム》2013-2016年 展示風景 左から徐々に地中に埋めていた期間が長くなっている。

展覧会の冒頭に登場する《10枚のインスタントフィルム》は、本展には出品されていないが、川久保の代表的なシリーズ《千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば》(以下「千の太陽の光」)の先駆けとして制作された。《千の太陽の光》は、東日本大震災後、福島の帰宅困難区域内で、地中に大判のリバーサルフィルムを数ヶ月程度埋めた後、一度も自然光に感光させないまま現像した写真作品だ。本来、光にあたることのないまま地中に埋まっていたフィルムは何も写すはずはない。ところが数ヶ月経ったフィルムには光に似た何かが写し取られていたのである。《10枚のインスタントフィルム》は、このシリーズに先立って川久保が行なったインスタントフィルムによるテスト(大判のフィルム写真を撮る際には、本番の前にインスタントフィルムで「ポラを切る」と呼ばれるテスト撮影が行われていた)である。短い期間では黒いままだったインスタントフィルムが、ある期間を過ぎたところで急激に光のような何かを捉えていく様が連続写真のように並ぶ本作は、理論上は起こり得ないはずのことを、川久保が何かを予見して忍耐強くあるいは執念深く同地に通った生々しい制作の軌跡である。

《ニュークリアエイジ(ダンジネスI)》2024年 展示風景

脅威に対する執念はまた、別の作品にも現れる。写真作品《ニュークリアエイジ(ダンジネスI)》は、フランスに面したイギリス南東岸に位置するダンジネスで撮影された。ダンジネスは、廃炉に向けて稼働を停止した原子力発電所がある土地だが、ここでの被写体は、その近くにあるサウンド・ミラーズと呼ばれる元空軍施設の集音壁である。1930年に建設されたこの集音壁は、100km先の航空機の音を聞き取るものとして、ドイツからの空爆に備えたものであったが、現実に使用されることはなかったという。見えざる脅威に対する莫大な投資の痕跡は、100年後の我々には滑稽に映る一方、似たものはおそらく今も各地で再生産され続けているだろうと思わせる。

 

《スロー・ヴァイオレンチェロ》2024年 展示風景

また、川久保はアーティストになる以前、我々に恩恵と脅威の両方をもたらす金融の世界に身を置いていた。《スロー・ヴァイオレンチェロ》では、16mmフィルムで撮影された青森の原子力施設と白神山地の原生林を取り巻くある種の牧歌的風景の中で、突如スマートフォンが鳴り、株取引の話題が展開する。また、続く《プロメテウスの山脈》では、不安定な配置のカンヴァスに金融トレーダーが予測するウランの取引価格の予測グラフが油彩で描かれている。現在の世界では、ほとんどあらゆる場所であらゆるものが取引可能であり、時には国を動かすほどの大きな力が働いている。未来を予測して取引を行う経済の世界は、さながらかつての錬金術や占星術のようであり、不確かな未来を描いた絵画は、現代のヴァニタス(生のはかなさ)ともいえよう。

《プロメテウスの山脈》2024年 展示風景 スモークを発生させた空間の中で、背後に《可能な限り遅いチェロ》2024年と《Left is Right》2024年が見える。

本展サブタイトルの「45億年」とは地球が誕生してからの年数を示す数字であるというが、地球規模の時間感覚に立てば、ほんの一瞬の人間の営みの中で、我々の目に捉えられないものの方がはるかに多いに違いない。会場で無限に鳴り続けるチェロの音も、遠い世界では当たり前の音楽になっているかもしれない。

*本稿は『原爆の図 丸木美術館ニュース』(2025年1月15日発行)に掲載されたものを、美術館と作家の許可を得て転載したものです。写真は筆者撮影。

【展覧会情報】
展覧会名:川久保ジョイ:LEFT IS RIGHT―45億年の庭と茹でガエル
会場:原爆の図 丸木美術館
会期:2024年10月30日(水)〜2025年3月23日(日)
公式サイト:https://marukigallery.jp/8213/

著者: (KIMURA Eriko)

キュレーター。弘前れんが倉庫美術館館長。2000-23年まで横浜美術館に勤務(2012-23年まで主任学芸員)。2005年より横浜トリエンナーレのキュレトリアル・チームに携わり、2020年の第7回展では企画統括。2023年より弘前れんが倉庫美術館副館長兼学芸統括を務め、2024年より現職。主な展覧会企画に「蜷川実花with EiM:儚くも煌めく境界 Where Humanity Meets Nature」(2024年、弘前れんが倉庫美術館)、オンライン展覧会「距離をめぐる11の物語:日本の現代美術」展(2021年、主催:国際交流基金)、「昭和の肖像:写真でたどる『昭和』の人と歴史」展(2017-2019年、横浜美術館の後、アーツ前橋とナショナル・ギャラリー・オブ・カナダへ巡回)、「BODY/PLAY/POLITICS」展(2016年、横浜美術館)、 「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」展(2012-13年、横浜美術館、青森県立美術館、熊本市現代美術館) など。多摩美術大学・金沢美術工芸大学客員教授。