アイルランドの自然探訪記 市原尚士評

自然こそが芸術の源泉

私ごときが今さら偉そうに言うのも物笑いの種になるだけだとは分かっています。でも、言わずにはおれないので、あえて申し上げます。

「芸術の制作に携わる皆さん、自然とたっぷり触れ合っていますか?」

私は残念ながら、あまり触れ合っていません。例えば、海外旅行をしても、美術館、博物館、ギャラリーやアートフェア会場は徹底的に回りますが、豊かな自然のある場所にはそれほど足を運びません。「たくさんアートを見なければいけない」という強迫観念に駆られて生きているので、「自然豊かな場所=遠方」にまで足を運ぶことが時間の無駄のように思えてしまうのです。

だから、大体は美術館やギャラリーが集中している首都、あるいは大都市に滞在して、毎日朝から晩まで美術館をハシゴするのが私の“旅行”になってしまいます。職業病の一種だと分かってはいても、どうしても足が向くのは「箱もの」ばかりです。

しかも、回りながらせこい計算をしています。「この美術館のこの展示は、ネタが豊富だから記事にしやすいぞ」「会期が長くて、旬の話題を取り上げている展示だから書くに値するぞ」などなど。頭の中は、どうやって展示を文章化し、世に効果的に発表するか、といった邪念でいっぱいです。

目をきょろきょろさせて、「どこかに儲かる話は転がっていないかな」と考えているような人間に、展示された美術品が、その真価を見せてくれるわけもない。だから、私の鑑賞旅行は、実際のところ、そんなに楽しいものではないかもしれません。

後日、文章を書くため、あるいは絵を描くため、その「勉強」「研究」のためにする鑑賞には、どこか、さもしさが付きまといます。そして、心底から感動することは年々、少なくなってきている気がするのです。

胸に手を当てて、冷静に考えます。私は絵や彫刻に感動した、感動した、といつも大騒ぎしていますが、本当にそんなに感動なんかしているんでしょうか?
自然と触れ合った時の方がはるかに感動しているのではないでしょうか?
そう、思えてならない。

海辺を訪れる。波打ち際に裸足で立って、波の動きを見つめる。足元の砂がえぐれ、崩れていく様子を見て笑みを浮かべる。そんな戯れに近い行為の中にどれほどの味わいが潜んでいるでしょうか?

ゆったりと動く雲をぼーっと眺める。形が変わり、光線の当たり具合で色味も変わっていく。いくら見ても見飽きない情緒が、ロマンが、そこには存在していませんか?

1日に50キロ以上、何も考えずにただただ歩いたことはありますか? 脳内麻薬が大量に分泌されるせいでしょう。「歩く」のではなく、「歩かされている」感覚が、やがてやってきます。足が勝手に前へ前へと進みます。15キロ先の岬にあっという間に到着してしまいます。その旅で見た風景は、丸ごと頭の中に収納されます、触覚を伴いながら。旅行で出合った風景すべてを粘土彫刻にして、自分の頭の中という美術館に収蔵したような感じです。

一般に「芸術」と呼ばれる創作物よりも、自然との触れ合い、とりわけ歩行による自然との触れ合いの方が私にとっては、はるかに芸術的な感興を与えてくれるのは間違いないと思います。

そのような反省を踏まえ、ステッカーやグラフィティ研究を敢行した今回のアイルランド旅行では、大自然との触れ合いを意識的に長く持つことにしてみました。

「モハーの断崖」散策記

アイルランドの西海岸、クレア県の沿岸に巨大な断崖絶壁が続いています。この一帯を「モハーの断崖」と言います。ビジターセンター内にある博物館施設を見て、その周辺を散策するだけでも十分、楽しめますが、私が選んだのは、ドゥーランという小村にあえて数泊して、ビジターセンターまでの約4キロに及ぶ散策路を歩くことでした。

霧に覆われ、ほとんど何も見えないモハーの断崖

待ち続け、ようやく霧が少し晴れ、海岸線が見えてきた

かなり待ち続け、ようやく絵はがきのような断崖の風景を撮れた

実はビジターセンターにも行ったのですが、その日はあいにく深い霧が立ち込めていて、断崖がまったく見えませんでした。何時間、待ってもなかなか霧が晴れません。雨模様でもあり、全身びしょびしょになりながら待っていたところ、ようやく霧が少し晴れて、断崖がうっすらと見えるように。すかさず、写真を撮って、「自分は確かにここに来たのだ」という証明書を作成してほっとしました。

この間、私の脳内に浮かんでいたのは、写真家マーティン・パーの傑作「SMALL WORLD」(1995年)でした。世界中の観光地を被写体にした作品ですが、「MUST  SEE」の観光地に対する幻想と現実との間に引き裂かれる観光客の葛藤が描かれていました。また、風景そのものをじっくり見るのでなく、個々の観光地で手あかのついたポーズや仕草で「風景+自分」を写真に収めようと懸命な人びとのドタバタぶりも多く収められていました。パーは、それら大衆を馬鹿にしているわけではありません。自分を含めた人間存在というものが観光旅行の中でどのような種類の欲望を発露させているのかを丁寧に写真で記述しているのです。

「パーの写真集の中に出てくる人たちみたいなことを自分もやっているぞ」と気が付いて、急に恥ずかしくなった筆者は、「異国で優雅なバカンスを楽しむ自分」というアリバイを作るのは、もうやめにしました。実際は優雅でもなければ、バカンスと呼べるほどの豪華な滞在をしているわけでもないのですから、ただの詐欺師のような所業ですよね、写真で「充実している自分」を演出しようとするなんて。

もう少し真面目にモハーの断崖と向き合おうと思い、翌日からは、宿泊したドゥーランからビジターセンターまでの散策路を歩くことにしたのです。都合3回、歩きました。どの回もすばらしかったのですが、2回目の夕刻にスタートして午後9時すぎに宿に戻った時のウォーキングが最高でした。

かつて、私が石川県輪島市の曽々木海岸で見た「波の花」とまったく同じ、いやそれ以上の質と量で大量の「波の花」が断崖のはるか下方の海辺で発生しています。風に乗って、まさに吹雪のようにして、散策路を歩く私にぶつかってくるのです。服についた、それをよく見ると、ただの白い泡なのです。舐めると苦い塩味でした、当たり前ですが。

大西洋から吹き付ける強風を常に前方や側方から受けながら、歩くことになります。あまりにも風が強いので、少し助走して、両手を上げてジャンプしたら、空でも軽く飛べそうな雰囲気があります。海鳥の死体が複数、岩棚に転がっていました。状況から判断するに、あまりの強風で海鳥も岩場・断崖に叩きつけられてしまい、それが死因となったように見えました。

断崖を下方に向かって流れ落ちる川というか滝もあったのですが、風が強すぎるせいで、滝を落ちる水が吹き上げられ、叩きつけるようなシャワーとなって、散策路上の筆者の頭上に降り注いできます。

散策路から見える断崖。海岸ははるかに下方で足がすくむ

ただ、歩いているだけなのに、びっくりするような光景の連続です。何しろ歩いている時、常に片側は断崖絶壁に面しているのです。下を見れば、荒々しい波が岩を噛んでいる様子が見えるのです。まさにスリル満点です。

この散策路を歩いている時、元文学青年の頭の中に浮かんだのは、アルチュール・ランボー(1854~91年)のいくつかの詩作品の一節でした。

自然を愛し、渉猟した天才詩人の「感触」を堀口大學訳でお届けしましょう。

夏の夕ぐれ青い頃、行こう楽しく小径沿い、
麦穂に刺され、草を踏み
夢心地、あなうら爽に
吹く風に髪なぶらせて!

もの言わず、ものも思わず、
愛のみが心に湧いて、
さすらいの子のごと遠く僕は行く
天地の果てしかけーー女なぞ連れたみたいに満ち足りて。

ランボーの「感触」、まさに、この散策路を彼が歩いたのではないかというような内容です。筆者は頭の中で「感触」を暗唱しながら、吹く風に髪なぶらせながら、歩きに歩きました。

ランボーの詩「永遠」さながらの光景

日没は午後10時前くらいなので、遅い夕刻にスタートしても、まだまだ日は明るいのです。しかし、徐々に太陽はその光を失い、海に向かってまっしぐらに墜落しようとしています。ランボーの「永遠」が頭をよぎります。金子光晴の訳で一部分を引用しましょう。

 とうとう見つかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽といっしょに、
去ってしまった海のことだ。

アイルランドと言えば、西の果て、そのアイルランドの西側の断崖ですから、海の遠い、遠い向こうはアメリカ大陸です。西方浄土に沈まんとする太陽を見ながら、筆者の頭の中で「見つかった、何がだ? 永遠さ」がリフレーンしています。

黄金色の夕陽に照らされながら、静かに草を食む馬たち

そして、まだまだ先に先へと散策路をずんずん歩いていると、放牧された馬たちが憩いの時を過ごしている光景と出合いました。馬たちは私に何の興味も示さず、草を食んでいます。まるで時間が止まり、馬の口元だけがかすかに動いているかのようです。その上方から、力を失った優しい陽の光が降り注いでいました。どんなに不純で愚物の筆者といえども、これだけ美しいものと出会えば、さすがに「愛のみが心に湧」かざるを得ません。一歩も動けなくなり、しばらく馬たちの前で立ち尽くしていました。

散策路は、ビジターセンターの直前で封鎖されていました。つまり、散策路を歩こうと思ったら、ドゥーランから歩き、ドゥーランに戻るしかないのです。封鎖された理由を英文で読むと、観光客があまりにも危険な岩場にまで足を踏み入れ、そこで動画を撮ったり、自撮りをしたりして、やりたい放題だったらしいのです。死亡事故もあったため、このまま放置してはまずいということで人が多く集まるビジターセンターから散策路に入れなくした、という真相のようです。

マーティン・パーの写真集で問題提起されていた「凡庸なツーリズムにおける、これまた凡庸な自己承認欲求への欲望」が、最高に写真映えする散策路の片側の入り口を閉鎖させている現状に考えさせられました。

「モハーの断崖」クルーズ

散策路を夜遅くまで歩いた翌日は、アラン諸島まで行ってきました。アイルランドの劇作家ジョン・ミリントン・シング(1871~1909年)の「アラン島」で読んだ通りの風景が今も残されており、とりわけイニシュモア島の古代要塞「ドン・エンガス」には驚かされました。

海面から約90メートルもある断崖絶壁が砦の先に広がっているのですが、安全柵も何もなく、完全に「自己責任の範囲内でお楽しみください」という放置ぶりだったのです。断崖が突然、崩れたら、海面に落下し、即死することは間違いありません。臆病者の筆者は、肝を冷やしながら、崖の下の海面をちらっと見ただけでした。

アラン諸島からドゥーラン港まで戻ると、モハーの断崖を海上から見ることを目的にした約50分程度のクルーズにも参加しました。散策路からは、海面が一部見えるだけで、断崖の側面部はまったく見えません。しかし、海上からですと、側面もしっかり見えます。自然が作り出した驚異的な造形をいくつも鑑賞することができました。

二等辺三角形の岩が目を引く

とりわけ筆者が驚いたのが、三角形をした岩場と“仏像”の2つです。

二等辺三角形の岩の2つの斜辺には、緑色の植物がびっしりと生えているようです。岩の色味は赤茶色が入っていたり、黒や白が入っていたりで、その不思議な色面に心を奪われました。

巨大な岩の“仏像”が海上にそびえ立つ。右手ではなく左手の施無畏印が見える

さらに、岩でできた自然の仏像にも驚嘆しました。太めの両脚とずんと後ろに突き出したお尻の上にスリムな胴体部がすらっと伸びています。胸の横で手のひらを広げています。いわゆる「施無畏印」です。「こわがることはないよ」と人々に優しく語りかけているようです。頭部もきちんと備わっており、これはどう見ても、仏像そのものです。どうして、こんなものが自然にできあがったのか、本当に不思議でたまりません。

仏像は、多くの岩棚があり、そこにはウミガラス、ウミバトなどの海鳥が巣をつくり、キイキイ鳴きながら、飛んでいます。空が真っ黒に見えるくらい、大量の海鳥が仏像の周りに蝟集しており、少し恐怖感を覚えるくらいです。

さて、このような光景を目の当たりにした時、人は箱ものの中にちんと収められた美術品から、いかほどの感銘を受けることが可能なのでしょうか? どう冷静に考えても、自然が作り出した天然の造形物の方が迫力たっぷりです。絵に描かれた断崖と本物の断崖とを単純に比較することはできませんが、やはり本物の断崖を見るにしくはありません。

このような考えをさらに推し進めると、天然の野人でもある画家・熊谷守一(1880~1977年)の有名な言葉にまで至ることでしょう。

紙でもキャンバスでも何も描かない白いままが一番美しい。

日本画でも墨だけで描いたものの方がわたしはいいと思います。(「蒼蠅」より)

ぱっと読むと極論のように思えますが、沈思黙考して、熊谷の真意をとらえれば、この言葉は真理そのものに思えてきます。確かに、「何も描かないまま」が一番美しいんです。表現したいというエゴが投影されたキャンバスなんて、要するに自己顕示欲に満ち満ちた板切れにすぎません。

熊谷も絵を描くことより、蟻の観察をしたり、石ころを眺めたりすることに興趣を覚え続ける人生を送りました。

本稿冒頭の問いに戻ります。
「芸術の制作に携わる皆さん、自然とたっぷり触れ合っていますか?」

白いキャンバスをそのまま発表することはできない。どうしても、何かを描きたいと志すのであれば、少なくとも大自然の不思議な造形をしっかりと吸収する必要性があるのではないでしょうか?

筆者も、美術館ばかり訪問するのではなく、多くの美術家たちにインスピレーションを与えた自然そのものをじっくり見ようと、思いを新たにしました。(2025年7月27日16時15分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。