河原温の「日付絵画」と20世紀の「色彩論」 三木学評

美術史家アン・ロリマー所蔵の河原温の色彩に関する資料

本稿では、河原温(1932–2014)が収集していた資料の紹介とともに、彼の作品との関連について考察する。そもそも本研究は、美術史家の富井玲子から、河原の収集していた論文の内容について解説を求められたことに端を発している。なぜなら、それらの資料が科学的な「色彩論」に関するものであり、筆者が色彩と芸術の関係について研究をしていたからである。その立場から、河原温の作品における色彩の位置付けについて、推測を交え検証していきたい。

1990年代半ば、河原は富井に「『日付絵画』(“Today”)を理解するためには『色彩論』を勉強しなければならない」と語ったという。富井はその解説を、河原から託された「宿題」として記憶していた。その「色彩論」の具体像を富井が実際に目にしたのは、それから約30年後、2024年のことである。シカゴ大学のアラン・ロンジーノが主催する「美術史研究所(IAH)」で、河原と交流のあった美術史家アン・ロリマーによる企画展「アン・ロリマーのデスクから——オン、アン、オン」が開催された[1]。この展覧会にはロリマーの河原関連アーカイブ資料も多数出品されており、その中に、河原が1980年代中頃にロリマーに送付したとされる「色彩論」に関する資料が含まれていた。

富井は許可を得て、ロリマー所蔵のすべての関連資料を複写した。アン・ロリマーが保管していたファイルの中身は以下の9点であることが判明した。

Edwin Herbert La「Color Vision and the Natural Image Part I」『Proceedings of the National Academy of Sciences』(PNAS), Vol. 45, No. 1, January 1959

【資料リスト】
■エドウィン・ハーバート・ランド(Edwin Herbert Land, 1909–1991)

  • (資料1)論文「Color Vision and the Natural Image Part I」『Proceedings of the National Academy of Sciences』(PNAS), Vol. 45, No. 1, January 1959
  • (資料2)論文「Color Vision and the Natural Image Part II」『Proceedings of the National Academy of Sciences』(PNAS), Vol. 45, No. 4, April 1959, pp. 636–644
  • (資料3)講演「Colour in the Natural Image」英国王立研究所、1961年4月28日

■ ディーン・B・ジャッド(Dean B. Judd, 1900–1972)

  • (資料4)講演「Visual Science and the Artist」
  • (資料5)論文「Appraisal of Land’s Work on Two-Primary Color Projections」National Bureau of Standards, Washington, D.C.

■ラルフ・M・エヴァンス博士(Dr. Ralph Merrill Evans, 1908–1974)

  • (資料6)講演「The Perception of Color」
  • (資料7)講演「Untitled」

■ロイド・M・カウフマン(Lloyd M. Kaufman)

  • (資料8)インタビュー「Untitled」

■ ゴードン・L・ウォールズ(Gordon Lynn Walls, 1905–1962)

  • (資料9)寄稿文「LAND! LAND!」『Psychological Bulletin』 57, No. 1, January 1960

これらは、国際照明委員会(Commission internationale de l’éclairage, CIE)の中心的メンバーであったディーン・B・ジャッド(Dean B. Judd)をはじめとする、高名な科学者たちによる論文や講演録である。とりわけ注目すべきは、エドウィン・ハーバート・ランド(Edwin H. Land)に関する資料3点、ジャッドによるランド研究の評価資料2点、ランドが創業したポラロイド社で写真技術部門を率い、国際色彩学会(ISCC)会長も務めたエヴァンス博士(Dr. Ralph Merrill Evans)に関する2点、さらにゴードン・L・ウォールズ(Gordon L. Walls)によるランドの功績解説の寄稿文が1点含まれていた点である。

これらの資料から、河原がとりわけランドの「色彩論」に強い関心を寄せていたことは明白である。また、これらの論文や講演録がすべて科学者によるものであり、芸術家や思想家によるものではないという点も注目に値する。

ランドはポラロイドカメラの発明で著名な科学者であり、ポラロイド社の創業者として知られている。同時に、色知覚に関する革新的な理論を提唱した研究者でもある。19世紀中頃から、色彩理論の主流は、光の物理的スペクトル(波長)と、それに対応する網膜上の3種類の錐体細胞(赤・緑・青に感受性をもつ受容体)によって色が知覚されるという三色説(ヤング=ヘルムホルツ説)であった。また、三色説の矛盾をドイツの生理学者、エヴァルト・ヘリング(Ewald Hering, 1834–1918)が反対色説によって説明していた。これらの理論では、色の知覚が主に物理的刺激と生理的受容の組み合わせで説明できると考えられていた。

しかし現実には、照明条件が刻々と変わる中でも、私たちは「赤いリンゴ」の色を同じ赤として認識する。このような現象は「色の恒常性(color constancy)」と呼ばれ、ドイツの生理学者、物理学者、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz, 1821–1894)は、照明条件の変化に対する知覚の補正は、過去の経験に基づく「無意識的な推論(unconscious inference)」によるとものと考えていた。ランドの貢献は、この問題に対して実験的かつ視覚情報処理の観点からアプローチし、その定量的な解明に挑んだ点にある。

ランドは1959年に、アメリカ科学アカデミー紀要(PNAS)にて、“Color Vision and the Natural Image” Part I & II (資料1+2)を発表し、「色の恒常性」の原理を解明しようとする研究を開始した。その端緒となったのが「二原色による重ね投影実験(two-color projection experiment)」である。その端緒となったのが「二原色による重ね投影実験(two-color projection experiment)」である。ランドは、「モンドリアン風」の幾何学的な構成図形を赤系と青緑系のフィルターを通して別々にモノクロで撮影し、その2つの画像を重ねて投影することで、観察者がフルカラーに近い色を知覚することを実証した。それは三原色(赤・緑・青)による局所的な波長応答に基づく色再現とは異なり、色知覚が視野全体の輝度比や空間的文脈処理に依存していることを示したものであり、視覚研究における革新的な実験であった。

1964年頃、ランドは「モンドリアン風」の幾何学的な色パッチ(矩形)を用いた図形に対して、3台のスライドプロジェクターを用い、それぞれ異なる波長域(赤・緑・青)の光を別々に照射する「モンドリアン実験(Mondrian experiment)」として知られる研究を発表した。この実験により、観察者の目に届く局所的な光のスペクトル構成(反射光の波長分布)が同じにもかかわらず、知覚される色が異なることが示された。これにより、色知覚が単なる局所的な波長情報ではなく、周囲との相互関係を含む空間的文脈に依存していることが、実証的に示唆された。

1971年、ランドはこれらの研究成果を統合し、「Retinex Theory of Color Vision(レチネックス理論)」を、アメリカ光学会誌(JOSA)にて正式に発表した(Vol. 61, No.1, pp.1–11)。「Retinex」とは、網膜(Retina)と大脳皮質(Cortex)を結合させた造語であり、19世紀までの網膜中心の色覚理論から脳内処理を含む統合的モデルへの転換点を象徴するものである。それは今日、視覚心理学や神経生理学だけではなく、映像のコンピューター補正など様々な分野に応用されている。そして、20世紀後半にfMRIの登場によって飛躍的に解明されていく色覚メカニズムの先行的な理論となった。

20世紀末になると、神経生物学者、セミール・ゼキ(Semir Zeki, 1940-)によって、視覚野の中に照明光の特性に影響されず、実際の色に対して選択的に反応する細胞が、第4次視覚野(V4野)にあることが発見された。またゼキらは「色の恒常性」に関わる視覚処理が、後頭葉腹側の「紡錘状回(fusiform gyrus)」や「舌状回(lingual gyrus)」などで行われていることを脳機能イメージングによって解明した。ゼキは、「恒常性の探求」が脳のもっとも基本的な機能の一つであり、美術も常に変わり続ける世界の中で恒常性と本質を求める脳の機能の延長であると述べている[2]。そしてゼキは、「恒常性の探求」という視点からモダンアートを解釈し、後に「神経美学(neuroesthetics)」を提唱する。

河原もまた、「日付絵画」において、このような「色の恒常性」やその背後にある知覚原理に着目していた可能性がある。しかし、日々の光の変化を色で記録していたのか、それとも色によって1日の知覚構造を抽象化していたのか、その具体的関係は依然として不明である。

さしあたっての疑問は3つある。
(1)このような当時でも先端の色知覚に関する科学論文にいつ関心を持ち、どのように入手したのか?
(2)科学者たちと実際の交流があったのか?
(3)「日付絵画」と色との関係を示すメモや証言などはないか?

(1)に関しては、ランドが学術誌だけではなく、一般読者が読む科学雑誌にも寄稿していることから、それらを読む中で、偶然発見したということも考えられる。例えば、ランドは一般読者向けに、1959年5月号のサイエンティフィック・アメリカン誌に、「Experiments in Color Vision」というタイトルで、二原色による重ね投影実験を用いた色再現の原理を解説している。いっぽう「日付絵画」のシリーズは、1966年1月4日に最初の1点が開始されている。そのことから河原がランドの研究をほぼリアルタイムでフォローし、それが「日付絵画」に影響している可能性もある。もしそうだとしたら、最先端の専門性の高い論文を読みこなすほどの高い理解力を持っていたことになる。ランドの理論は、日本では同時代にはほとんど訳されていないし、今日ですら限られている。河原が日本では大学を出ておらず、工学や生理学の専門家ではなかったことを考えると、その異例さが際立つ。しかし残念ながら河原がこれらの資料を入手した時期は特定されていない。

(2)に関しては、こうした資料への接触経路として注目すべき人物の一人に、ドイツの科学ジャーナリストで美術収集家のヨスト・ヘルビッヒ(Jost Herbig, 1938–1994)がいる。Herbigは塗料メーカーHerbol社(旧Herbig-Haarhaus塗料工場)の創業家出身であり、その資産を背景に独自の美術コレクションを形成し、文化活動を展開していた。主著『初めに言葉ありき:人間性の進化』(Im Anfang war das Wort: Die Evolution des Menschlichen, 1984)には、書籍冒頭に「Für On Kawara(河原温に捧ぐ)」との献辞があり、両者の間に深い信頼関係があったことを物語る。

また、河原の財団であるOne Million Years Foundationによれば、両者は1979年に初めて出会い、《One Million Years》の制作支援としてヘルビッヒから5万ドルの資金援助を受けている。ヘルビッヒは色彩理論の専門家ではないが、科学ジャーナリストとしての素養、そして塗料業に関連する背景を考慮すれば、色彩と視覚に対する理解があった可能性は十分にある。河原がヘルビッヒとの交流を通じて、80年代にランドの理論に関心を抱くようになったという仮説は自然である。そうであったとしても、ランドの論文を理解し、その意義を読み取れるだけの知的素養が河原にあったことは間違いない。

(3)に関しては現時点で、「日付絵画」と色彩理論との直接的関係を記したメモなどは見つかっていないが、今後のOne Million Years Foundationによるさらなるアーカイブ整理に期待がかかる。

いずれにせよ、河原自身の発言と、今回確認された資料の内容を総合的に捉えれば、ランドが追求した「色の恒常性」や脳内処理を含む色覚メカニズムと、河原が「日付絵画」で扱った時間や存在の普遍性という主題との間には、明確な共振関係があったと見なすことができる。印象派以降のモダンアートが、科学的な色彩理論や素材の革新によって、知覚的、心理的な色彩表現の地平を拡張していったのと同様に、河原のコンセプチュアル・アートもまた、20世紀後半の脳研究による色彩科学の革新と共振し、新たなアートを切り開こうとしていたのかもしれない。それは美術史における新たな系譜になる可能性を秘めているのだ。

 

[1]  富井玲子 [現在通信 From NEW YORK] :DIYオペレーション――シカゴ大学編『アートアニュアルオンライン』2024年05月24日。https://www.art-annual.jp/column-essay/essay/79835/

[2] セミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか: ピカソやモネが見た世界』河内十郎訳、日経新聞社出版、2002年、pp..40-41
(原書)Semir Zeki, Inner Vision: An Exploration of Art and the Brain, Oxford University Press, 1999.

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

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https://docs.google.com/spreadsheets/d/1FaByUa6V7uskVGH5-0hZTdOiuLWxVr4f/edit?gid=291136154#gid=291136154

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