生きるために切る(評者・市原尚士)
作家の生み出す芸術作品というものは、未来から現在に向かってやってくるものである。
一方、観客は、過去から現在に向かってとことこと歩いてくる。
作家は今までの芸術史になかったものを、言い換えれば、観られなかったものを見せるために、全身全霊を駆使する。
観客は己の想像を超えた、何かしら見えないものを観るために展示会場を訪れる。
作品と言うものは、とことこと観客の方に向かっては歩いてくれないものだから。
作品と観客が出会った刹那、何が生まれるのか?
衝迫力あふれる「書」の作品を生み出す芸術家・中川太郎平の仕事を例にして、論じてみよう。

無題06
前提として、確認しておきたいことがある。
あなたがこの会場で目にするもの。
それが、頭のように、目のように、口のように見えるからと言って、これは「顔」を意味する表象ではない。
太郎平芸術は、本来、「不立文字」の世界を表している。
無心になって、全存在を賭けて、未来から引っ張り出してきたものが、この、あたかも顔のような形状をした書作品なのである。
過日、制作に立ち会った。
黒のオイルスティックを小型の冷蔵庫から取り出し、画面に向きあったかと思うや否や、何のためらいもなく顔のような形象を一息で描き切った。
ストップウオッチで計測したところ、約6秒だった。
未来からやってきた作品が、過去から歩いてきた私と遭遇したわけだ。
まるで居合切りされたような気がした。
小さなオイルスティックは日本刀だったのか?
バスッと一気に切られた。
あまりに早すぎる。
あまりに鋭すぎる。
だから、自分が切られたことにすぐには気付かなかった。
どこかに強く身体を打ち付けたり、鋭くぶつかった時のことを思い出した。
最初に来るのは衝撃。
次に痛み。
最後に血が流れ出す。
私たちは、血が流れてきたのを見て、初めて自分が「傷ついたこと」を知る。
損傷には「時差」がある。
太郎平の仕事と出会うこと。
それは、大きなけがを負うことに似ている。
あなたの心が、一息で切られるのだ。
安全で安心で清潔な無菌室の中でぬくぬくと生きているせいで、すでにあなたの心は危険と言う言葉を知らない。
しかし、太郎平の作品があなたに大きな心の傷を負わせる。
確かに痛い。しかし、あなただって知っているはずだ。
大けがをして、じっとうずくまっているとき、高熱を出して、寝込んでいるとき、けがや熱から徐々に恢復するとき、はじめて生を実感できることを。
危険にさらされない限り、生命と言うものはその有り難さを知ることはできない。
太郎平は、己の心もズバッと切っている。
何事も何回もやっていれば慣れてしまう。
その慣れというものを断ち切り、常に心新たに画面と向き合い、新たな書を生み出すために彼は過去の己を否定し、新たな自分を見つけるために画面を切るのだ。

無題7
太郎平芸術は「生の全面的な肯定」である。非常にシンプルな画面であるがゆえに。
16~17世紀、フランドルやネーデルラントで盛んに制作された「ヴァニタス」と言う静物画は皆さんもご存じのはずだろう。
人生は、芸術は、所詮は虚しいものだと言ってみせるために、画家は「これでもか、これでもか」と己の技を駆使して、まるで本物のように見える骸骨や鳥の死体や花々を濃厚なタッチで描く。
凝りに凝った画面が告げているメッセージとは、ヒポクラテスのあの有名な言葉「芸術は長く、人生は短し」そのものである。
太郎平の作品は、どうだろう。
画面のほとんどすべては真っ白であり、描かれた形状もシンプル極まりない。人生は、芸術は虚しいものではないと訴えている。
己の顔面は己では見ることができない。
「眼横鼻直」という、当たり前にも思える言葉で初めて人は真面目(しんめんもく)に至れる。
書の楽しみ方というのは、書かれている文字の意味を知ることではない。
書き手の腕の動き、手の動き、心の動きを追体験することによって、あなた自身が、瞬間、太郎平と重なり合うことを楽しむ……。
それこそが、唯一無二の時、至福の時である。
あなたも太郎平にズバッと切られてほしい。きっと新しいあなたに生まれ変われるから。
(2025年4月19日22時41分、展示図録に若干の加筆を加え脱稿)
【展示概要】
名称:禅寺のひらめき 中川太郎平展
会期:2025年4月14日~20日
会場:本町画廊(東京都・日本橋本町)
キュレーション:市原尚士
本稿は、展示に合わせて作成された図録に市原が寄せた論考です。中川太郎平氏の承諾を得た上で、「美術評論+」に再掲いたします。