質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。
浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』(太田出版、1995年)。大学生の頃、知ったふうなふりをしつつ、今風に言えば「知的な俺カッコイイ」と愚かにも思い込んでいた、遅れてきたニューアカ小僧だった私(ちっとも真面目に勉強しなかったが、学部生だった当時は、哲学科哲学専攻に在籍していた)は、広義の人文学にかかわるあれこれを食べ散らかしていて、美術については、まともな知識すら持ち合わせていなかった。「思想っぽいこと」を考えるのがカッコいい(いま思うと、本当に恥ずかしいが)と思い込んでいた私は、柄谷行人氏と浅田彰氏が刊行していた『批評空間』を当時リアルタイムで読んでいた(内容を理解していたかどうかはさておき)ものの、浅田氏はともあれ、『モダニズムのハード・コア』を共同編集している岡崎および松浦って誰?(無知は恐ろしい……)と思いつつ、本書を手に取り、極めてベタなことに、「感染」した。読んだ当時、ちゃんと理解していないながらも、さすがに理解できたことは、美術や建築を通じて「思想」を語ることができるんだ!という驚きだった。本書で紹介されているグリーンバーグからオクトーバー派の言説もそうだが、例えば、本書の座談会で論じられている、マイケル・フリードとコーリン・ロウの並行性などについての指摘によって、建築およびその理論(例えばロウからニューヨーク・ファイヴの建築家たちへの流れ)についても関心をそそられたのも思い出深い。ともあれ、本書で知った知識をもとに、徐々に美術への関心を持つようになり、現在の私があることは事実であり、書物によって人生が狂うことってあるのだな、と改めて感慨深く思う。
質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。
近代以降の日本に特殊な、「評論」(小林秀雄を、その出発点として設定するような)というジャンルがあり、そのサブジャンルとして「美術評論」があるとするならば、そのプラットフォームになる「文芸誌」や「論壇誌」が、かなり以前から読まれなくなっている(告白すれば、私もいまやほとんど読んでいない)ことを考えれば、そういう意味での「評論」は、既に役割を終えているのだと思う。私自身にとっても「美術評論」とは、ジャンル評論の実践というよりもむしろ、そのジャンル名を使用しつつも、広義の作品研究や歴史研究の実践(それゆえに、在野の「評論」の文体と、アカデミズムのそれは、少なくとも私自身の中では、実質的な区別が意味を成さなくなっている)へと向かうと思われる。同時代の表現者と、評論という言語表現をもって切り結ぶならば、時評的なものよりも、むしろこうした方向性のほうが有意義だとすら感じる。以上は私の現在選択する「関心事」であり、これが将来的な「美術評論」の目指すべき方向であると、一義的には思っているわけではなく、同時代の現象に切り込む美術ジャーナリズム的な方向性が、相互補完的に機能するのが望ましい状態なのだろうと、漠然と考えるところではある。