質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。
峯村敏明氏が、展覧会「モノ派 MONO-HA」(鎌倉画廊1986年)で発表した『「モノ派」とは何であったか』の論考テキストによって、その後、「もの派」の動向が定説化の道を歩んで今日に至っている。
峯村史観による「もの派」の動向と作家・作品の確定については、特に、評論家の故石子順造の掘り起こし作業をしているなかで分かったこととして、「もの派」の起源部分についての補足説明が必要だと私は考えている。
上記の考察とともに、これまでに美術評論家連盟会員が果たした役割と、これからの美術評論のあり方について、以下の「質問2」の中で長文になるが述べさせてもらう。
質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。
「美術」とは、いったい何モノなのだろうか?
特に「美術」は、これまで人間の感覚のうちの五感の中で、「視覚」という芸術表現であったことは確かだった。
人類は、紙(白紙)や布(キャンバス)などの平面素材に、筆などを使って描いた色彩による表現世界を「絵画」と定義(評論家の石子順造は「制度」という言葉を使うことが多かった)、さらに、石、木、鉄、粘土などの素材を使った表現では、「彫塑」という形で立体表現をしてきた長い歴史があった。
しかしながら、20世紀に入ると「絵画」領域の中から、ピカソ≪アビニョンの娘たち≫(1907年)で代表される「キュビスム」が誕生したり、彫塑の中の立体表現からは、マルセル・デュシャン≪泉≫(1917年)に代表される「ダダ」などの運動によって、「視覚」に頼っていた「美術」という概念に一石を投じることになり、表現が多様化拡大化していったといえる。
これらの始まりが、現在の西洋美術を系譜とする「現代美術」の祖となり、一般大衆には分かりづらい時代に突入しながら、その後、100年以上が経過して今日にいたっているのだ。
国内に目を転じると、戦後復興とリンクするかのように高度経済成長とともに、文化の象徴ともいえる国公立美術館の神奈川県立近代美術館(1951年)、東京国立近代美術館(1952年)を始め、その後、全国各地に美術館建設ラッシュが進んでいった。
特に、20世紀後半の国内では、美術研究者や美術館関係者を中心に、「西洋美術」の系譜を理解する形で美術展や美術史の検証作業が進められ、それを援護する形でジャーナリズムや評論家によって、評論・批評が行われてきた。
1954年に誕生した日本の「美術評論家連盟」は、今年が70年の節目の年にあたるという。
これまで、戦後80年の現代美術史を俯瞰してみると、西洋美術と対峙する形で日本独自(オリジナル)の表現となる新しい美術運動や動向が、美術評論家らによって語られることはほとんど稀だったが、美術評論家連盟では後に中心メンバーとなる会員らによって、大きな仕事を成し遂げた時代があったことを、みなさんに改めて伝えておきたいと私は思う。
国内の現代美術の歴史の中で、美術表現が大きく変わる転換点となったのが、1970年前後のことで、美術評論家連盟会員の果たした役割が非常に大きかったのだ。
特に、1970年前後の動向では、峯村敏明(第12代会長)によって「もの派」作家・作品が特定され、その後、「具体美術協会」とともに、戦後日本の現代美術の動向として、国際的にも知られるようになったことは、みなさんもご存じのことだと思う。
また、これまで広く知られていないことだが、同時期に現代美術の表現で、若手作家の登竜門となっていた毎日新聞社と日本国際美術振興会が主催する公募展「現代日本美術展」において、出展部門が「絵画」「彫刻」から「平面」「立体」に大きく変化した時代が、1968~1971年のことだった。
第8回展(1968年)では「絵画」「彫刻」という分類だったのが、第9回展(1969年)では彫刻部門が二分され、彫刻が「立体A」彫刻以外が「立体B」となり、さらに第10回展(1971年)では完全に「平面」「立体」が採用されたのだ。
この分類の立役者の一人が、東野芳明(第7代会長)であり、西洋美術の動向をいち早く察知しての行動だったに違いない。
私が、石子順造の掘りおこし作業をするなかで、<もの派>成立の起源について、特に峯村敏明によって<もの派>作家に特定された関根伸夫、小清水漸、吉田克朗、菅木志雄ら多摩美大出身者は、多摩美大で教鞭をとっていた斎藤義重と高松次郎の影響が大きいとする説が有力だが、私には腑に落ちない点があった。
<もの派>とは、峯村史観によって骨格が作られ定説化の道を歩んできたが、「美術大学出身の30歳以下の無名の若手作家が、こつ然と一斉に登場し、<もの派>といわれる動向が生まれたことは不自然である」とする疑問の声がこれまでにないわけではなく、私も同感だったのだ。
<もの派>誕生のきっかけとなったのは、峯村敏明によれば、中原佑介(第11代会長)と石子順造が企画した「トリックス&ヴィジョン展」(1968年)だったとする「モノ派」(※峯村敏明は1986年の鎌倉画廊での展覧会「モノ派」でもの派ではなくモノ派としている)の説明が、その後、補足する形で語られることが多くなり、今日、この流れが通説となって歴史化が進んできた。
実は、石子順造の強い影響を受けて誕生した美術運動に、静岡を拠点として活動したグループ<幻触>があり、メンバー5名の精鋭たちが「トリックス&ヴィジョン展」(1968年)に招待されて出品していた。
1970年当時、国内の美術評論の世界では、針生一郎(第10代会長)、東野芳明、中原佑介、さらに峯村敏明ら若手世代が台頭してきた時代で、そこには石子順造もいたが、21世紀に入るまでは、石子順造の存在や石子が残した「現代美術」における功績が、李禹煥によって公表された石子順造との出会いの証言を除けば、戦後の現代美術史で伝えられることはほとんどなかった。(石子順造とグループ<幻触>の存在が広く知られるようになったのは、21世紀に入ってからの「虹の美術館」(静岡)での調査発表と椹木野衣の月刊誌「美術手帖」での紹介が大きかった)
私が、今回、1969年の出来事として伝えたいことは、石子順造とともにグループ<幻触>の主要メンバーであり理論的支柱となっていた飯田昭二が、後に<もの派>作家と呼ばれることになる李禹煥、関根伸夫、成田克彦らとも交流を持っており、<もの派>作品誕生に影響を与えた可能性があるということだ。
特に、グループ<幻触>の飯田昭二を筆頭に3人のメンバー(小池一誠、前田守一、長嶋泰典)は、第9回「現代日本美術展」(1969年)で、関根伸夫≪位相-大地≫が発表されてから半年足らず後に、飯田昭二を含む4人の美術家らの手で、後に峯村敏明によって<もの派>と特定されることになる作家に先んじて、加工を最小限に抑えた「自然物」を主役にした作品を発表していた。
私のこれまでの調査では、飯田昭二からのサゼッションで、3人の<幻触>メンバーが「自然物」を素材に使った作品を発表したことが分かっている。
●飯田昭二《トランスマイグレイション》(木=樹…ヒノキの樹を根っごと美術館に運び込んだ作品)
●小池一誠《石》(石…川で拾ってきた大きな石をダイヤモンドカッターでカットした作品 ※小清水漸が1年後に石を半分に割った作品《70年8月石を割る》を発表している)
●前田守一《Rheology》(水=氷…氷を使ったの作品で、最終的には美術館から拒否されて氷を入れた鉄の箱を展示した)
●長嶋泰典《炭》(茶の木…茶の木を燃やした炭の作品 ※この炭の変化形として同時期にもの派作家の成田克彦によって《SUMI》作品が誕生している)
日本の「現代美術」の世界では、石子順造が1977年に早世したことで、<幻触>誕生のきっかけをつくった石子順造と<幻触>の作家・作品について、その後、石子順造や幻触メンバーと交流があった美術評論家からは、多くが語られてこなかった歴史があった。
<幻触>の作家・作品は、35年後にようやく大阪の国立国際美術館「もの派-再考」(2005年)で、中井康之ら学芸員の尽力もあって<もの派>作家・作品とともに展示されたことで、<幻触>の主要メンバーが存命中に公立美術館で広く知られることになり、少しは救われた思いが私はしている。
1970年当時、「現代美術」を評論のフィールドにする美術評論家は限られており、影響力を持っていた針生一郎、東野芳明、中原佑介らの評論家が、同世代で同時代を走り抜けた異色の美術評論家の石子順造について、多くを語ることがなかった理由の一つには、ライバルとしての競争心(ジェラシーなど)もあったと推測されるのだ。
従来、美術研究者・美術館関係者・美術評論家は、美術作品や過去の文献などの精査による検証作業の探求とともに、埋もれている作家・作品の掘りおこしや通説を覆す新しい発見などを導き出しながら、美術史を正し後世に伝えていくという使命がある。
今回、美術評論家連盟設立70年の節目アンケートの質問「これからの美術評論はどのようなものになりうるか」については、私なりに考えるとすれば、近年の人種・国家・宗教間の争いや、地球環境の急激な悪化をもたらしたのは、人間を中心とする考え方(人間中心主義など)が招いた20世紀の行いにあったと思う。
私たち美術評論にたずさわる者は、特に、80年前の日本における原爆投下に象徴される戦争の悲惨さを繰り返さないためにも、美術という表現領域をとおして人類があやまった方向に進まないように、メッセージを発信していく必要があると思う。
そこには、個々の会員の資質とともに、「一方的な批判・批評を中心とする発言」「定性ではなく定量的な意見に重きを置く発言」「二項対立などの手法を使った発言」などによっては、図らずも誤った方向に進む可能性をはらんでおり、未来の人類にとってのはたすべき役割を考えながら、崇高な理念に裏打ちされた言葉による発信を私は願わずにはいられない。
私は、これまで、80年前の戦争体験を生き抜いてきた美術関係者やその周辺にいた人たちの声を聞くように努めてきた。
美術関係者の中には、戦時中(第二次世界大戦)に家族の死と直面したことで、その後の生き方に深く影響を与えたであろうことが、その後の言動などからうかがい知ることができる。
私が、これまでに影響を受けた評論家の浜口隆一と石子順造、美術家の飯田昭二のことを、以下に書いておこうと思う。
三人に共通しているのは、十代のころに両親と死別(又は離別)していることと、戦時中に家族(父・母・兄弟ら)を亡くしていることだ。
浜口隆一(注1)は、戦後日本の建築ジャーナリズムをけん引してきた草分け的存在の建築評論家で、1954年創設の「美術評論家連盟」結成にもかかわった人物だ。
浜口隆一は、ヴァルター・グロピウス(バウハウスの創立者)夫妻が来日(1954年5月)した折に、伊勢神宮などの見学に案内役を務めた。
弟は、昭和19年に戦病死している。
「浜口さんが生前に私に語ってくれたのは、歴史の検証作業において、新しい発見につながるように、常日頃から考えて行動して欲しいということだった。
そして、大学などの大きな集団や組織などを簡単に信用してはいけないということだった。
晩年、浜口さんに「某学校で講演者を探しているので浜口さんを紹介したい」と私がたずねたら、「大学では講演はしない」と断られたことがあった」
石子順造(注2)は、評論家として「現代美術」の他にも「マンガ」「大衆芸能」「民俗学」など、幅広い分野の評論を手掛け、鶴見俊輔、吉本隆明、李禹煥、中沢新一らにも影響を与えたことが知られている。
石子順造は、静岡で生まれたグループ<幻触>との交流とともに、1970年前後の日本の「現代美術」の転換点に大きな影響を与えたと思われる一人だった。
両親を戦時中に亡くしている。
「私と石子さんとは、生前に面識がなく石子さんが残した評論などの文献に頼るしかなかったが、飯田昭二さん宅で発見された1968年12月に静岡市内で開催された勉強会「石子順造美術講座」の録音テープで、石子さんの生の声を聞くことができ、当時の李禹煥さんの美術評論の論考に対する高い評価とともに、これまでの西洋美術を越える日本独自のオリジナルとなる美術作品を作って欲しいと、聴衆の美術家たちに強く訴えていたことが印象的だった」
飯田昭二(注3)は、静岡を拠点に活動した美術家だ。教員だった父親を追って1939年に満州にわたり、その後、父親がハルビン(満州)でソ連兵に殺されたといわれている。
飯田昭二は、1960年代末に、後に<もの派>と呼ばれることになる李禹煥、関根伸夫、成田克彦らとの交流とともに、作品づくりでも影響(サゼッションなど)を与えたことが、私のこれまでの調査で分かってきた。
「飯田さんは、静岡県教育委員会などの組織と対峙することが多かった美術家で、自分の信念を曲げることなく、個人として大きな組織に一人で立ち向かっていく人だった。
そして、死後には、自分の墓をつくることを望まず太平洋(駿河湾)に散骨することを遺族に伝えて全うした人生だった」
(注1)
浜口隆一(1916~1995)…東京生まれ。建築評論家。東京大学工学部建築学科卒。丹下健三と同級生で、卒業後は丹下とともに前川國男建築事務所に入所。その後、東大大学院岸田日出刀研究室(前川國男、丹下健三、立原道造、浅田孝らが在籍した研究室)に進み1943年に大学院を修了。東大の建築史講師、1948年東大助教授となる。東京大学建築学科の1年先輩に立原道造(詩人、建築家)がいた。吉武泰水(1年後輩)によれば東大時代の建築設計では丹下健三よりもむしろうまかったとされる。著書に戦後の建築評論として評価が高い『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社1952年)や、『ヒューマニズムの建築・再論』(建築家会館叢書1994年)などがある。死後に浜口隆一評論集『市民社会のデザイン』(而立書房1998年)が出版された。
(注2)
石子順造(1928~1977)…東京生まれ。本名(木村泰典)。美術評論家。東京大学で経済を学ぶ。石子は十代の頃から患っていた結核の療養を兼ねて温暖な気候の静岡県にあった企業に就職。静岡県清水市に本社があった商社「鈴与」に勤務(1956~64)の後、家族を静岡に残し単身東京に戻り、評論活動に入る。清水時代には、グループ<白>の結成やグループ<幻触>の誕生に大きな影響を与えた。中原佑介と石子順造が企画した「トリックス&ヴィジョン展」(東京画廊、村松画廊1968年)は、その後の<もの派>動向が生まれるきっかけとなったとされる。晩年には道祖神「丸石神」に傾倒。1977年にガンで早世し藤枝市(静岡県)の長楽寺の墓所に眠る。多くの著作とともに、死後に石子順造著作集『キッチュ論』『イメージ論』『マンガ論』(喇嘛舎1986~88年)が出版された。
(注3)
飯田昭二(1927~2019)…静岡市生まれ。美術家。1939年日本統治時代の満州にわたる。戦後、満州より故郷の静岡市に帰国。1958年から「自由美術展」に出品。自由美術家協会の麻生三郎との交流が生まれる。1954~56年「読売アンデパンダン展」に出品。1966~71年グループ<幻触>の主要メンバーとなる。1968年「おぎくぼ画廊賞」受賞(おぎくぼ画廊)、「トリックス&ヴィジョン展」(東京画廊、村松画廊)、「第8回現代日本美術展」(東京都美術館)、「蛍光菊展」(日本・東京画廊・南画廊、海外・イギリスとカナダ巡回)。1969年「第9回現代日本美術展」(東京都美術館)、「現代美術の動向展」(京都国立近代美術館)。1971年「第10回現代日本美術展」(東京都美術館)。1972年から静岡市で「針生一郎ゼミ」を7回開催。以下省略