質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。
質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。
(質問1と2をまとめて回答)
学生時代に卒論を作成することになり、私はルネサンス期の絵画をテーマにするために、担当の先生に相談に行きましたが、その折り先生から「君は今まで読んだ専門書で何が一番良かったか?」と聞かれ、ケネス・クラークの著作をあげたのですが、「クラークの本は評論であって研究書ではないよ」と一蹴されたことを覚えています。
そのときからすでに半世紀が経ちましたが、「これまで読んだ美術評論でもっとも印象的なもの」と問われますと、私にはやはりケネス・クラークの著作が思い浮かんできます。当時クラークの本で翻訳されていたのは『風景画論』しかなかったように思いますが、この本を読んで感銘をうけた私はTHE NUDE、REMNRANDT AND THE FORMS OF ITALIAN RENAISSANCE、PIERO DELLA FRAMCESCAなどを辞書を引き引き読んだことを覚えています。しばらくするとこうした本は次々と翻訳書が出ましたが、たしかBBCで放映されたCIVILIZATIONというテレビ番組でクラークが解説を務め(NHKの教育テレビでも放映されました)、それが書籍化されたものも日本版が出ました。加えて彼の自伝も『芸術の森の中で』という邦題で出版されました。
私はクラークのこうした著作によって、美術について論じることは「作品の良さ」や見どころを明快に示すとともに、それを作り出した作家の個性や構想そして彼の生きた「時代の空気」についても広く語ることだと教えられました。クラークの文章は平明でイメージの喚起力があり(と私には感じられました)、ゼミの先生が読むように勧めてくれたリオネルロ・ヴェントゥーリやバーナード・ベレンソンをはじめとする研究書には精緻な論証が見られて勉強にはなるものの、いま一つ共感を覚えることができませんでした。
このあと私は大学院で日本東洋美術史を専攻し教育大学に勤務をしてからは主に美術教育の仕事に従事しましたが、美術の価値について語ることの意義を教えてくれた原点にはクラークの著作があった、と思います。
クラークの文章を読んでいると私はそこで語られている作品が無性に見たくなりますが、こうした作品鑑賞への誘いこそが美術評論の意義のように考えます。作品を見てみたいあるいは作品の表現世界に参加したいという欲求を引き起こさせるものこそ美術評論の果たすべき役割のように思います。
その意味で私が今も強く惹かれる本は、張彦遠の『歴代名画記』です。この本は唐代末期の853年に成立した古書ですが、長安などの寺院に残された堂内の壁画や掛け軸など見て巡り、眼にした作品の優劣を論じながら(巻三「両京・外州の寺観を記す」)主に盛唐時代に作られた絵画に後世の補彩が施されているのを見出すたびに、原画を台無しにしていることを憤っています。原画の持っていた逞しい筆勢や豊かな筆力が、それだけでは見映えがしないと考えた後世の寺僧たちが画工に着彩させたために、当初の表現を壊してしまっていると著者は何度も嘆いています。こうした文章は美術作品の生命となるものについて私たちに示してくる貴重な洞察であり、私には美術評論のあるべき姿を見る思いがします。
最後に、中国には400年代末の頃に成立した『古画品録』以降、近世の清朝に至るまで数多くの画論画史が書かれましたが(その中でもっとも読み出があるのが『歴代名画記』だと思います)、日本では近世初頭の狩野派による『本朝画史』や『画道要訣』などが著されるまで、そうした文献が成立しなかったことを指摘しておきたいと思います。もちろん平安時代の物語や和歌などで絵画の特質や優劣について触れた簡単な言及はありますが、絵画をテーマとした著作は成立しなかったと考えます。
「これからの美術評論」について考えるとき、日本文化における「これまでの美術評論」の在り方についても私たちは検証しなければならないのではないでしょうか。
さらに私は教育大学で仕事をしていて美術史や美術鑑賞論などについての授業を行ってきましたが、近い将来小中高校の教壇に立つ学生たちが美術作品について興味も関心もないという人たちが多くいることに戸惑いました。美術や図工の教科書を使って一通りの説明はできるようですが、学生自身の美術体験が乏しいことに違和感を持ちました。したがって彼らに教えられる子どもたちもまた美術について一通りのことを学ぶのでしょうが、少しでも心を揺すぶられるような美術体験というものは日本の美術教育ではほとんど教えられることがない、といっても過言ではないと思います。
ゆとり教育の盛んであった頃、美術館を使った鑑賞教育というものも都会の一部の学校で総合教育の一環として試みられた時期がありましたが、あらかじめ美術館の用意したアート・シートを見ながら作品を見ていくという形式のものが多く、子どもたち自身が作品の前で何かを発見するという積極的な体験というものが授業の中で展開されなかったのは残念でした。
「子どものための美術評論」という形式をもっとしっかり考えることが必要であると思いました。
また教育大学で教師をしている関係上、自治体の運営する美術センターや市民ギャラリーなどの嘱託を務める機会がありましたが、そうした施設を利用する市民はきわめて限られており、一般の市民の方たちに参加してもらうことが難しいという問題がいつもありました。市民の方たちの個展やグループ展さらには地域にかかわる作家や作品を紹介する企画を催しても、熱心に鑑賞する方はいつも限られていて、居住人口の1パーセントにも満たないというのが現状でした。
私は美術体験というものは創作においてだけではなく、鑑賞においても創意や想像力が働くように思いますので、日常の生活に近い文化施設で美術鑑賞を楽しんでもらうことの意義を唱えてきましたが、なかなか思うように展開できませんでした。
美術について全く興味のない方たちにも関心を持ってもらい、いろいろな形で美術体験を重ねてもらうことができるならば、もう少し安穏で落ち着いた暮らしの世の中になるように思いますので、こうしたこともこれからの美術評論の課題となることを強く期待しています。