本原稿は、忠類ナウマン象記念館(北海道幕別町)の「鼓動する彫刻 三島樹一展」(主催 幕別町教育委員会・忠類ナウマン象記念館, 2022年)の会場資料として執筆したものです。筆者撮影の画像とあわせ『美術評論⁺』への掲載についてご許可いただきました三島樹一氏に、心よりお礼を申し上げます。
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「豆」という漢字は、マメ科の植物を表す以外に、接頭辞としても用いられることがある。というと堅苦しい言い方になるが、要は豆電球や豆知識といった言葉におけるそれであり、そこで「豆」は「小さな」という意味を担っている。
三島樹一(喜一)は1949年、北海道・十勝地方の忠類村(現在の幕別町)の農家に生まれた。小学校の頃は図工が大好きだったという。都会への憧れから、高校は寄宿舎のある小樽築港商業高校に進学。その小樽は作家によって「画家が多い街だった」と回顧されており、彼自身も絵を習い始めている。また、そこから程近い距離にある札幌では海外の美術を見る機会も得られ、例えば1964年に札幌中島スポーツセンターで開催された「国立西洋美術館所蔵 松方コレクション展」もそのひとつであった。
やがて彼は自分の将来に美術を重ね合わせるようになり、高校卒業後は岩手大学教育学部に進む。彫刻家を志すようになったのはその在学中で、当時非常勤講師をしていた盛岡ゆかりの彫刻家・舟越保武から指導を受けることもあった。ちなみに、現在まで続く国展(国画会が主催する団体・公募展)への出品はすでにこの頃から始まっている。
卒業後は、彫刻を学び続けたいという思いを抱きながら、同大の専攻科に2年間在籍した。1973年の上京後は図工専科の教員として働きながら鈴木実(1930-2002)に師事。彼は国展彫刻部の母体となったS.A.S.(Société d’artiste Sculpture=彫刻家集団)のメンバーの一人で、三島は国展に出品していた縁でこの師と出会っている。なお、鈴木は木彫の作家として知られているが、野外彫刻としてブロンズ製の作品を制作することもあり、それらはこんにちでも全国各地の公園などで目にすることができる。
ところで、三島の作品はその主な発表場所が団体展であったため等身大またはそれ以上のサイズが多く、保管をめぐる課題により既に失われたものや、すぐには確認できない環境下にあるものが少なくない。ゆえに過去の作品を知るには記録写真に頼らざるを得ないのだが、少なくともそれらを見る限り、初個展をみゆき画廊で開いた1990年頃までの仕事には、師である鈴木の影響が濃厚に窺える。
それは具体的には次のような共通点から指摘することができる-すなわち、複数の人物像から成る構成、その各々がクラシック期彫刻のように頭頂部・鼻頭・臍が垂直線上に並ぶような強い正面性を志向していること、そして時に身体の一部を捨象したり直方体を部分的に使用していること、などだ。だが、一方では異なる点もある。例えば鈴木はモデルを自身やその家族とし、服装や髪型を通じても年齢や性別の違いを表現することが多いが、三島の場合はほぼ同い年の子どもたちが表現され、性差も感じにくいものとなっている。
上記の時期のあとに発表された「たたずみ」シリーズは、1990年代の後半から10年間ほど制作された。それらはいずれも、基本的には体躯・顔貌・頭髪という3つの要素から構成されている。このうち肩から下の部分はまるで笏のように単純化され、その上には、彫りと彩色により神秘的な顔貌が表現された頭部が乗る。そしてそこからは、鉄やアルミの針金で表現された髪の毛が、不規則に波打ちながら四方八方へと爆発的に広がっている。
このシリーズをそれまでの三島の作品と比較すると、群像形式におけるモデルの均一性、および額より下の正面性の強さに関しては、従来の仕事からの継承と見なすことが可能だ。それとは逆に新しい表現が特に顕著に見られるのが顎から上の部分で、その「異国的な威相」や「異常な量感」は、平安前期の彫刻(いわゆる貞観仏など)の「霊威表現」を想起させる。
だが、その視覚的インパクトの強さとは対照的に、あるいはむしろそれゆえなのか、作家はこのシリーズを通じて新しい人物表現を生み出すことが困難になっていってしまう。
そして迎えた2000年代、三島は作家として大きな転機を迎えることになる。2004年にナウマン象記念館で故郷では初の個展を経験した頃から、60歳で教職を引退したあとに何をしていくべきかを深く考えるようになったのだ。折しも人物表現において深刻な行き詰まりを感じていた彼は、それ以外のモチーフを模索しはじめ、そして「豆」と出会う。さらには本人曰く「知人からのプレゼントのようなもの」という改名の提案を受け、還暦を機に作家名を本名の喜一から樹一へとあらたにする。
2019年にいりや画廊で開催された個展に際して発行された作品集には、豆のシリーズを始めてから約10年分の仕事が収められた。各作品においてはそれぞれ数個から数十個の豆が表現されている。ここで興味深いのは、ひとつひとつの豆のフォルムは理想的なほどに粒ぞろいでなめらかで、もはやアイコニックでさえあるが、それらが集うと途端に生命力を帯び始めるということだ。特に様々な角度をつけて組み合わされたり(例として《ちきゅうのたまご-PRESETNT FOR YOU》)、或いは散らばるように置かれたもの(同《ちきゅうのたまご-おおふくまめ》)は、まるで今にも動き出しそうな気配を見せる。また、ほとんどの豆に表現される「胚芽」の存在は、変容を予感させる。これらは、人体を表現しながらもムーブマンからは切り離されていた、かつての作品とはまるで対照的だ。
三島の豆のシリーズを見ていると、モチーフが作家にインスピレーションを与えるとはまさにこういうことなのだろう、と思う。2022年の「ぎゃらりぃ たねから」では新たな試みとしてレリーフ状の作品《つながる森》が発表された。これは三島にとっては初めての半立体的な仕事になるが、そこにはさらに注目すべき3つの特徴がある。それは、長年使い慣れたクスノキではなくベイマツ(米松)を使っていること、絵画にみられるような遠近法を備えることで空間的な奥行きを感じさせること、そしてそこでの「豆」は、今までの作品のなかで最大ともいえる直径を持っていることである。
冒頭に述べたとおり「豆」には「小さな」という意味がある。そして実際に豆というのは概ね小さい。しかし今の三島樹一にとって豆の存在はとても大きなもので、なおかつ、その豆は彼を作家としてますます大きくしていくに違いない。それは《つながる森》を見るだけでも明らかだ。