「肖像画は可能か?」などと、いきなり大きな構えで登場してしまい、面食らった方もいるかもしれません。私が問いかけたいのは、大きな問題ではなく実に小さな話しなのでご安心を。
2023年5月8日、新型コロナウイルス感染症が「2類相当」から季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行しました。また、医療費の公費支援も2024年3月31日で打ち切られます。つまり、世の中はほぼ「コロナ終焉期」に移行したといっても過言ではないわけです。街中でマスクを着用していない人も多く、公共交通機関や学校、職場などなど、かつてはうるさいほどマスク着用を呼びかけていた場所で着用していなくても何も言われなくなりました。
ところが、マスク姿がいまだに健在な場所があります。小学生から高校生までを対象にした、いわゆる「美術コンクール」の中でしばしば、その姿を見かけるのです。私は、年間に40~50回ほど地方都市を訪れては、現地の美術館・博物館・ギャラリーを回ることにしています。その行程で目にするのが地方自治体主催のコンクールです。2020年から24年までの期間、多くのコンクールを鑑賞してきた結果、ある傾向に気が付いたので、年度順の時系列に沿って、私の見たことをご紹介します。
2020~21年度←マスク蔓延期
コロナで世の中が大騒ぎになり、当然、児童や生徒の描く作品にも多くマスクが登場しました。ただ、子どもたちは決して無条件にマスク着用を肯定しているわけではなく、マスクへの嫌悪感を表明している作品も見受けられました、特に小学校に通う子どもたちの作品には・・・息苦しさ、気持ち悪さの表象が私の心に映し出されました。
2022年度←マスク無視期
コロナがいつ収束するのか、という期待感を反映してか、20~21年度ほどはマスクが絵の中に登場しなくなってきました。とりわけ、小学生の絵にはマスクがほとんど描かれなくなりました。その一方で中学生や高校生の描く自画像等にマスク姿が散見されるようになりました。あくまでも私の主観ですが少し悲しそうな、諦めムードも混じった面持ちとでも言えそうなタッチで描かれていました。
2023年度←あえてのマスク期
小学生の絵にはまったくといっていいくらい、マスク姿は見えなくなりました。しかし、中高生の中には、あえてマスクを着用した自身の姿を描くことによって、「真剣さ・率直さ・日常性」を表現しようと志向する者が目立つようになりました。2024年3月末までが23年度、つまりコロナが5類に移行して、ほぼ1年間が経過しましたが、地方都市の中高生は私が目視した範囲では8~9割は屋外でもマスクを着用しています。つまり、いまだに彼らにとってはマスクが日常そのものであり、肖像画にも素直にそれが反映しているのです。
大人たちの描く絵の人物にマスクが目立ったのは、22年度の途中ごろまでで、それはコロナ封じの妖怪「アマビエ」がほとんど描かれなくなったころと軌を一にしていました。23年度以降、ほとんど、大人たちはマスク姿の人物を積極的に描こうとはしていません。マスク姿の自画像は、顔の半分か、それ以上が隠れてしまい、両目しか見えません。これは肖像として成り立っているのか、それともいないのか?
長野県内で2023年2月に実施された美術コンクールには、中学3年生4人の手になる鉛筆で描いた自画像が出品されていました。全員がマスクを着用して、自画像を描いています。注目すべきは、出品作の横に添えられた生徒自身のコメントです。「普段の自分」「いつも通りの自分」を表現しようと心がけた、と記載されています。つまり、マスクを外した自画像は、普段の自分を表現したものにはならないということを意味しているのです。
審査にあたった数人のうちの一人である男性の木版画家がマスク姿の自画像を称賛した上で、こう講評しました。「2020年から始まったコロナ禍はマスクの概念が変わった。風邪引いたときしかつけないと思っていたマスクは、感染予防により皆が常につけるものとなった。中学校生活3年目にしてようやくマスクを外せる機会も増えて来た。あえてマスクをつけた自画像はその時代のリアリティが感じられる作品だ。描くマスクの陰影に何を感じただろうか」。
前述した通り、地方都市の子供たちがマスクを外せる機会は増えてきてはいません、私の観察した限り。いまだにマスクを外せないまま、学校生活を送っています。ですから、あえてマスクをつけた自画像は、2024年度も描き続けられる公算が大きいです。また、この男性版画家のように、審査の際に「あえてマスク姿」を評価する審査員や教諭が全国各地に存在するようです。
私は、つい先日、神奈川県内の中高生のコンクールを見ました。その際、ある高校は自画像を出品した生徒全員がマスクを着用した自身の姿を描いていました。ある中学校でも生徒全員がマスク着用姿を描いていました。このほかの自治体のコンクールでも「あえてマスク姿」はしばしば認められます。共通しているのは、中学生もしくは高校生に多く見受けられる点です。彼らがこのまま成人した時、マスクを外せているのかどうか、いささか不安を覚えざるを得ません。
話しを戻します。マスク姿の自画像は、はたして自画像なのか、です。2006年、タレントの吉田照美氏を銅版画で描いたのを手始めに現在まで自らが会いたいと切望する人物の肖像画を押しかけで描く美術家ながさわたかひろ氏は、この質問に回答する適任者と言えるでしょう。
彼は、2020年4月、1回目の緊急事態宣言が発出された後、「その日のニュースや個人的なトピックを選んで、毎日誰か一人を描き始め」たのです。緊急事態宣言が解けてからも日々のニュースを中心にその日に描くべきと判断した人を描き続けました。気が付けば1000日1000枚の肖像画がたまりました。2021年岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)、2023年同賞に、この肖像画は出品されました。名付けて「ウィズコロナの肖像画」シリーズです。
本シリーズ、マスクを着けていない肖像画がほとんどですが、ちらほらとマスク姿もまじっています。なぜ、マスク姿の肖像画も描いたのか尋ねると「その日、この時代を、しっかり切り取りたかったからです。結果的に、いま見るとマスク姿の方が『その日』を明確に思い起こさせる作用があるようにも思います」と自己分析してくれました。
しかし、マスク姿は「顔半分が隠れた“不完全な自画像”なのではないか?」と畳みかけたところ、こんな答えがながさわ氏から返ってきました。「マスクにもいろんな形と色が見られるようになり、特に供給が追いつかずに皆が自前で用意した時期以降は、マスクによる自己表現が可能になったと思います。こうなるとメガネと変わらなくなり、それが肖像画として本物かどうかは、肖像画におけるメガネのありようと一緒かなと思います」。
確かに、ながさわ氏の「マスクあり肖像画」を拝見すると、顔面が半分隠れていても、人柄、個性がはっきりと分かります。メガネをかけている相手に「肖像画を描くんだからメガネは外せ」と誰も言わないのと同様、マスクだって肖像画を描く際に外す必要性のないアイテム、つまりメガネ同様の日用品になったのかもしれません。
ただ、ながさわ氏は自身の古里である山形県東根市の公益文化施設「まなびあテラス」で個展を2024年2~3月に開催した際、面白い体験をしました。会場内の物販コーナーでながさわ氏の新刊「愛の肖像画ながさわたかひろの冒険2019-2023」を購入した方限定のサービスとして、見返し裏に似顔絵を描いたそう。その際、「マスクは描きますか?」と尋ねると100%すべての方がマスクを外したのだとか。しかも恥ずかしそうに。
ながさわ氏はこう分析します。「マスクをした自分は本人的には自分でなく、しかしマスクを外す行為は何か自分をさらけ出すような恥ずかしさを伴うものになってしまったということでしょう。これは思春期の子供達にとっては、相当大きな意味を持つのだろうとは思います」。
マスクは、本当にメガネ同様に日用品化したのか? あえてのマスク着用肖像画は今後もコンクールに出品されるのか? 一人のジャーナリストとして、今後も注視を続けていきたいです。(まなびあテラスでの展示は、東京・神楽坂のギャラリー「eitoeiko」に巡回中です。会期は2024年3月24日まで。土日13時から18時までは作家本人も在廊)。
ちなみに、ながさわ氏による肖像画の定義は、こうです。「僕にとっての肖像画は、人とつながるための方法です。言葉にならない思いを絵によって伝えたいと思っています。好きな相手を前にすると頭が真っ白になってしまう自分なのですが、それでもその相手に思いを伝えたいと思うとき、自分には絵しかありませんでした。絵にはその力があると思っています」。
ながさわ氏の言葉を借りるなら、「本人的には自分ではない」「自分をさらけ出していない」マスク姿では、真の肖像画にふさわしくない気もします。「あえてマスクを着けない自画像(=つまり昔の普通の自画像)」にリアリティを見出せる世の中に一秒でも早く戻ってほしいと思います。
子どもたちに美術を指導する中高の教諭の方々も、マスク着用肖像画に対する議論を活発に行い、今後の指導方針をしっかり示してほしいものです。永遠にマスクを外せないまま教え子が成長したとしたら、その責任の大半はあなた方、指導者にあるのですから。(2024年3月10日22時02分脱稿)