展評「西村大樹――不在の風景、平穏な海」hakari contemporary 秋丸知貴評

 

 

 

 

 

 

 

hakari contemporary 開廊記念展

西村大樹――不在の風景、平穏な海
Daiki Nishimura–Absent Landscape, Peaceful Sea

展覧会:
(第1期)2024年2月17日(土)-2024年3月20日(水・祝)
11:00-18:00 会期中無休
(第2期)2024年4月6日(土)-2024年4月21日(日)
12:00-18:00 月休
会場:hakari contemporary
(京都府京都市左京区岡崎円勝寺町140 ポルト・ド・岡崎103)

 

 

2024年2月17日、京都府京都市の岡崎地区にある神宮道沿いに「hakari contemporary(図コンテンポラリー)」という新しい現代美術のギャラリーが開廊した。

きっと、当地を知るアート・ファンは驚くだろう。なぜなら、平安神宮の門前通りである岡崎地区の神宮道は、日本有数の公立美術館である京都市京セラ美術館と京都国立近代美術館が向き合って並ぶ、京都のみならず関西のアート・スポットの中心である。その二つの美術館から歩いて数分のところに、ほとんど何の前触れもなく突然見知らぬギャラリーが登場したのである。

開廊記念展は、画家・西村大樹の個展「不在の風景、平穏な海」である。筆者は、西村の作品について解説文章を書いたことがあり(「西村大樹――光の中の静寂な祈祷者:『Record』『Foresight dream』シリーズ」)、その縁で会期初日の開廊記念トークイベントの対談相手として呼ばれた。以下、そのレヴューである。

 

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プレスリリースによれば、hakari contemporaryの親会社は兵庫県尼崎市に本社がある株式会社基住である。基住の主業は、建築・不動産事業であり、hakari contemporaryはその10ヵ年計画「自然と共生する街づくり」の実現に向けた投資的事業と位置付けられている。

その目的のため、hakari contemporaryはアート・マーケットの外側から志のあるアーティストやキュレーターを支援し、通常のコマーシャル・ギャラリーでは採算性等で実現の難しい作品や展覧会を積極的に実現することを目指している。それにより、京都はもちろん日本全体のアート・シーンを活性化すると共に、アート・シーンを超えてより広く人々の心に影響を与え社会により良い変化をもたらすことを志向している。

hakari contemporaryのオーナーであり、基住の代表取締役である藤本繁之氏に直接インタヴューしたところ、社名の「基住」には「住むことの基本を大切にする」という意味があるという。というのは、藤本氏が約20年前に大工から不動産営業に転職した時に、建築施工をしていた親会社が適切な建築管理を行わず顧客や近隣住民から数多くのクレームを受けた経験から、建築業界に変革を起こしたいと決意し、20代で独立して2006年3月に設立したのが基住だからである。

ところが、創業当初は営業と経営の両輪で多忙を極め、売上利益ばかり考慮せざるをえず、理想と現実の狭間で孤軍奮闘する日々が続く。そうした中で、ある時、藤本氏は数年前に家を購入してもらったある顧客から「嘘つき」と言われる経験をする。実は、その顧客には身内との死別後まもなく新たに家を購入したという特殊な事情があった。そこで、藤本氏は自分では真剣に向き合っていたつもりでも、まだ顧客の心に十分に寄り添えていなかったと気付かされ、改めて自分の仕事は何のために行っているのか、誰のために行っているのかを反省する。そこから、「売って終わりじゃありません」というスローガンが生まれ、約10年前に経営規模を見直し、建築数を減らす代わりに顧客が本当に喜ぶ家やサービスを追求することになる。

そうして基住は、住宅を何よりもまず居住者を守り育てる「幸せの器」と捉え直し、「命を守る構造を最優先する家創り」を徹底する。そこで、居住者が安心して暮らせるために、長期的なアフターケアを推進すると共に、長期優良住宅の認定取得、建築の現場管理の徹底、構造材の吟味、検査体制の拡充を図る。省エネでは、BELS(建築物省エネルギー性能表示制度)の五つ星を取得し、経済的で暮らしやすいZEH(省エネと創エネで年間一次エネルギー消費量の収支ゼロを目指す住宅)に積極的に取り組む。同時に、立地条件に即しつつ太陽光や地熱や風力といった自然エネルギーを生かすパッシブ設計を取り入れ、縁側・簾・障子・屏等の日本の風土に適した伝統的な和風建築の要素も取り込む住宅づくりを行っていく。

次第に、こうした基住の自然や社会に配慮しつつ節約や規格化を図る住宅設計は、意識的にも実践的にもエネルギー問題や環境問題を視野に入れた地域事業や公共事業に繋がっていく。具体的には、新築分譲で培われた自然共生のノウハウを既存住宅や賃貸住宅に適用するリフォーム事業や、水害を抑えると共に水源を確保するグリーン・インフラストラクチャー事業、さらに太陽光発電や地熱発電への参画等の再生可能エネルギー事業である。また、東日本大震災後の2011年9月には社内で復興支援プロジェクトを立ち上げ、2012年7月には期間限定で仙台支店も設立している。本年2024年1月の能登半島地震の際にも、すぐに3名のボランティア・スタッフを現地に派遣し、その復興支援活動は2024年3月現在も継続中だという。

藤本氏は、基住の公式ウェブサイトで、顧客からの購入後の肯定的な意見のみらならず否定的な意見も率直に掲載すると共に、いかに建築を通じて人や社会を幸福にできるかを豊富な建築知識を駆使して情熱的に語っている。そして、そうした藤本氏の骨太で誠実な大志から、「心豊かな家創り」から「自然と共生する街づくり」へと発展する基住の10ヵ年事業計画が生まれ、アートを通じて自然と人間が共生するための文化を多角的に探求する部門として設立されたのが、正にこのhakari contemporaryなのである。

 

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それでは、ギャラリー名の「hakari contemporary」には一体どのような意味があるのだろうか。基住の社員であり、hakari contemporaryの主任ギャラリストである谷口元気氏に直接伺った。

谷口氏によれば、このギャラリー名は、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の有名な最終命題「語りえぬことについて、人は沈黙せねばならない」を踏まえているという。

つまり、ウィトゲンシュタインは、形而上学的領域はその存在やそれ自体の顕現は否定されないが、言語ゲームで語りきることは不可能であるとする。同様に、アートでは、最も重要なのは作品そのものであり、究極的には言葉による解説は作品を十全には語りえない。何よりも大切なのは、提示された作品に鑑賞者が具体的に感受する、言葉では「語りえぬこと」である。

また、そもそも作品は、基本的に作家が同時代(contemporary)において誰も語りえていない問題意識を具体化したものである。さらに、そうして作られる作品やそれから構成される展覧会には、それぞれ言葉では語りえない作家の意図や企図が込められている。そうした作家の「図(はか)りごと」について、ギャラリーは語りえぬものとして沈黙しなければならないが、具体的に提示することはできる。

そこで、シミュラクラ現象(逆三角形に配置された三点が人の顔に見える現象)を利用しつつ、つぐんだ口を連想させる「×」も含む「図」をロゴマークに採用し、これらの沈黙しつつ作家の「図りごと」を実現する意味合いを込めて、ギャラリー名を「hakari contemporary」に決定したのだという。

これも、アートを通じてアクチュアルな問題意識を社会に提言しようとする、母体である基住の意図に即してよく練り上げられたギャラリー名と言ってよいだろう。

 

 

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画家としての西村の作風は、こうした自然との共生や人生の幸福を追求し、アートを心を豊かにするものとして大切にする、基住やhakari contemporaryの思想的実践と極めて親和的である。

1985年に大阪府で生まれた西村は、大阪南港野鳥園の設立に深く関わった野鳥研究者である父親の影響を大きく受けている。西村の父親は、開発が環境に及ぼす様々な影響を調査する環境アセスメントの仕事をしていた。ところが、西村が3歳の時に不慮の事故で重度身障者となり20年間寝たきりになる。身体の不自由とは対照的に、常に前向きで自由な父親の精神に触れる中で、西村は自分が父親の自然愛を受け継いでいることや、生命の存在には水がいかに重要であるかを感得することになる。

そうした出自から、西村は理系の研究者になってもおかしくなかったが、進学先は大阪芸術大学を選び画家の道を選択する。そして、父親の死と2011年の東日本大震災を契機に、現代社会が直面する気候変動や放射能汚染等の環境問題のテーマに正面から取り組んでいく。それは、西村が画家には研究者とは別の仕方で人の心を動かし社会を変革していく力があると信じたからと思われる。つまり、環境問題は正論を説けば説くほど説教臭くなり相手を閉口させてしまうが、そうではなく純粋に美しいものや素晴らしいものを提示することにより本当に大切なことは何かを自ずから喚起させる力が芸術にはあると信じたからであろう。

いずれにしても、西村は、大阪芸術大学大学院の博士前期課程に在籍中の2010年から13年間、京都市左京区の法然院で毎年個展を開いている。また、2012年からは11年間、大阪市中央区のスペクトラム・アートギャラリーでも毎年個展を開催している。2022 年には画集『雲の中の虹――西村大樹:2020-2022』を出版し、着実に画家としてのキャリアを積んでいる。

近年は、国内外のアートフェアにも積極的に参加し、若手作家から中堅作家へと歩みを進めている。さらに、本展会期中に同じ京都市内の京都国立博物館で開催された、京都府主催の「ARTISTS’ FAIR KYOTO 2024」にも出品して好評を得ている。ただ、西村自身は、ある時筆者との会話の中で、「アートフェアは作品が売れやすい点では良いのですが、この頃は時流ではなく長期的で本質的な問題を考える哲学書に強く惹かれています」と語る感受性の持ち主である。

西村の作風は、派手ではなくむしろ地味である。また、基調として明るいというよりも暗い。そして、どこか物悲しくそれでいてとても美しい。だからこそ、一度心を捉えると離さないところがある。

実際に、展覧会では西村のことを知らずにたまたま偶然初めて作品を見た人が購入していくことが少なくないという。また、死別を経験したばかりのメキシコ人女性がインターネットで作品を見て海外から注文してきたこともあったという。これは、西村の真摯で繊細な哀愁と美意識を分かち持つ人には、西村の絵画は強く琴線に触れるということだろう。つまり、西村の絵画には何か普遍性に達しているところがあるのである。

 

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本展「不在の風景、平穏な海」は、西村の2023年以降の新作である「Crossing the ALPS」シリーズと「1‐2」シリーズを中心に、代表作の展開である「Foresight dream」シリーズと「Neo-Kuraokami : D」シリーズで構成されている。

展覧会名の英訳「Absent Landscape, Peaceful Sea」の頭文字「ALPS」が示唆するように、前者の2つの新作シリーズは、2023年8月24日に開始された、東日本大震災で被災した東京電力福島第一原子力発電所の「ALPS処理水」の海洋放出への関心から構想されたものである。

環境省の公式ウェブサイトによれば、「ALPS処理水」とは「放射性物質を含む汚染水を多核種除去設備(ALPS:Advanced Liquid Processing System)等により、トリチウム以外の放射性物質を環境放出の際の規制基準を満たすまで浄化処理した水」である。これに対し、グリーンピース等の環境保護団体から安全面に疑問が呈され各種メディアで取り上げられたことは記憶に新しい。

西村は、そうした報道で流れる「ALPS」という文字から、ジャック=ルイ・ダヴィッドの《アルプスを越えるナポレオン(Napoleon Crossing the Alps)》(1802年)を連想したという。このヴェルサイユ宮殿所蔵の有名な絵画は、宮廷画家ダヴィッドが皇帝ナポレオンを英雄として称揚するものであるが、実際には後ろ足で立ち上がる馬に両足で起立するナポレオンの姿勢が物理的に不可能であることや、ナポレオンがアルプスを越えた時に跨っていたのは本当はラバであること等で、現在ではある種の理想化された虚像としてのプロパガンダ作品として広く知られている。

 

ジャック=ルイ・ダヴィッド《アルプスを越えるナポレオン》1802年

 

このダヴィッドの《アルプスを越えるナポレオン》は5点の連作であり、西村もこの個展で「Crossing the ALPS」シリーズを5点一組で展示した。西村によれば、それらはいずれも、ダヴィッドの《アルプスを越えるナポレオン》の図像をトレースした和紙を木製パネルに水張りし、その和紙の周りに木枠で堰を作ると共に、その和紙の上に同一分量で同一濃度の青緑系の水溶性塗料の氷塊を置いて自然融解させ、そこに福島の海で自ら採取したALPS処理水を含むと思われる海水を流してその水溶性塗料を希釈しつつ拡散させ、さらにそこに樹脂を流し込みつつ顔料を用いて鈍く虹色に光らせるという作品である。そして、その流す海水の分量は5点でそれぞれ1杯、2杯、3杯、4杯、5杯と分けられており、元の水溶性塗料の総量は希釈により変化しないことを鑑賞者に思慮させる作品でもある。

なお、hakari contemporary公式ウェブサイトの本展ページでは、この「Crossing the ALPS」シリーズについて、「画面中央に配置された図像を取り囲むように設けられた木製の簡素な堰は、そこに流し込まれた樹脂の圧力によって崩壊し、そこから溢れ出す樹脂は画面の内側と外側の概念を揺るがしながらも、作品全体を取り囲む二つ目の堰(その高さは一つ目の堰よりも極めて低い)によって辛うじて作品内に留められています」と説明されている。いずれにしても、これらは西村が環境上の時事問題を同時代の画家として誠実に受け止めようとする非常にコンセプチュアルな作品といえる。

ただ、たとえそうした西村の理念から出発していても、筆者が画面から受ける印象はそれとはやや異なる。そこには、西村の環境問題への意識があることはもちろんとして、それを超えた何かも現れ出ているように感じられる。つまり、コーヒーに垂らしたミルクが一瞬描く美しい模様に自然の神秘が現れるように、この画面には自然の働きが生み出した偶然的でありつつ必然的な水紋と光彩が幻想的な綾を成している。もちろん、そこには西村の作為や工夫も働いているが、それを超えて展開される「隠れている大自然の顕現」とそれへの祈りに似た畏敬の念こそが、この「Crossing the ALPS」シリーズの魅力を構成する大きな要素であると思われる。

 

西村大樹《Crossing the ALPS (First time)》2024年

 

西村大樹《Crossing the ALPS (Second time)》2024年

 

西村大樹《Crossing the ALPS (Third time)》2024年

 

西村大樹《Crossing the ALPS (Fourth time)》2024年

 

西村大樹《Crossing the ALPS (Fifth time)》2024年

 

また、「1‐2」シリーズは、素っ気ないシリーズ名とは裏腹に、福島第一原子力発電所から同第二原子力発電所の間のエリア、つまり現在立入禁止に指定されている区域の境界線沿いを撮影した写真を用いたシリーズである。これらの作品では、和紙に顔料プリントされた写真はアルミ板に透明な樹脂で接着されている。その樹脂は画面中央に「0」の字を描くように塗られており、圧着される際に真ん中に空気を封じ込めつつ形を崩して押し広げられる。そのため、写真の外縁は宙に浮き不安定なままである一方で、閉じ込められた空気が画面中央に斑紋となって透かして見える。一見、被写体となっている風景がありふれて牧歌的である分、現在そこに立ち入ることはできないという事実が奇妙な違和感を覚えさせる連作である。

西村には、既に写真を使った別の連作として、代名詞ともいえる「Record」シリーズがある。それは、自分で撮影した風景写真を溶剤で淡く霞ませ、その表面に小穴を空けつつアルミ板で裏打ちし、さらに表面に結晶質の粉末を塗布して、画面全体が郷愁的に発光してみえるような連作である。西村に、なぜこれらの写真も「Record」シリーズとして制作しなかったのかと尋ねると、最初はそうしようと考えたが、「Record」シリーズは手作業を加えることで自然風景の本質を抽出し幻想的に美化するものであるのに対し、これらの風景写真は自分で何かを変えられるとはどうしても思えず加工を施すことができなかったので別のシリーズとして制作せざるをえなかったという。また、なぜ樹脂を「0」字型に塗布するのかと尋ねたところ、爆心地を示す「グラウンド・ゼロ」と、「起こったことをゼロに戻したい」という願いの2つの意味合いを込めたが、結局それが圧着の際に押し潰されて形を失うことで、どちらも自分にはどうすることもできない無力感も表現していたかもしれないという返事であった。

ただ、これもそうした西村の思念から出発していても、筆者が画面から受ける印象はそれとはやや異なる。そこには、西村の失われた自然への悲痛な思いがあることはもちろんとして、それを超えた何かも現れ出ているように感じられる。つまり、このシリーズには、作品タイトルを除いては、除染廃棄物を詰めるフレコンバッグ等の被災地を示す具体的な事物は何も写り込んでいない。これは、説明的なものを嫌う西村が意図的に一貫して排除しているからであるが、それにより画面に映る自然風景はのどかで穏やかである分失われた日常として強く郷愁を抱かせる。さらに、無意識のレベルで、そこに二重写しで立ち現れる空気の斑紋は、「Crossing the ALPS」シリーズの水紋や光彩と同じように、やはり「隠されている大自然の顕現」とそれへの祈りに似た畏敬の念を表象しているように筆者には思われる。

なお、会場ではこの「1‐2」シリーズに囲まれる形で、参考展示として西村が実際にこれらの写真を撮影した際の動画も投影されていた。そのいずれも人気のなく「不在」を感じさせる風景に佇んだり散策したりしている西村の動画を見ていると、彼が本気で体を張ってこのテーマに取り組んでいることが如実に感じられた。

 

 

  

  

  

  

  

 

西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 01》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 02》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 03》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 04》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 05》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 06》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 07》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 08》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 09》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 10》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 11》2023年
西村大樹《1 – 2 (11.10.2023) Fukushima 12》2023年

 

さらに、「Foresight dream」シリーズでは、従来と比べて画面の印象に少なからぬ変化が見られた。

西村によれば、元々このシリーズは、2020年のコロナ禍の時に西村が感染病の発生について調べていて、森林の乱伐や過剰な土地開発により生態系が変化し、野生動物と人間の接触機会が増加したことがその原因の一つであると知った驚きがきっかけになっている。また、昨今アマゾンやオーストラリア等の世界中で頻発する大規模な山火事は、もはや人間の力では消すことができず、長く降り続く災害級の天然豪雨でしか消火することができないと知った悲しみも発想源になっている。どちらも世界の終末を黙示録的に予見させる現実であり、それに触発されて西村が感じ取った先の見えない未来のリアリティを描き出したものがこの連作であるという。

ただ、これまで室内から闇夜のガラス窓に吹き流れる雨水を眺めているような画面の多かったこのシリーズに、今回は画面を覆う光輝性の樹脂の膜が大きく広がると共に、背後の風景がほぼ完全な抽象から形を認識できるほど具象性を増し、色彩も増えて明るくなるという差異が見られた。

この心境について尋ねると、西村によれば、このシリーズの樹脂は雨を強く意識しているが、雨はただ垂直に降り注ぐだけではなく、結露したり水溜まりになったり様々に変化する。そのため、この「Foresight dream」シリーズでも、樹脂の膜の形状を多様に変容させ、連作としての造形的な可能性を追求したかったのだという。その際に、樹脂の膜を広げたり盛り上げたりすると即物的な物質性が強まるので、それに負けないように下地の描写の具象性を高め、また樹脂の膜の幅が広がると光の反射や虹彩が強くなるので、バランスを取るために下地の彩色を明るく豊かにしたのだという。

ただ、これもそうした西村の想念から出発していても、筆者が画面から受ける印象はそれとはやや異なる。そこには、西村の緊迫する状況認識や画家としての技術的工夫があることはもちろんとして、それを超えた何かも現れ出ているように感じられる。つまり、筆者自身の感想を言えば、以前からこのシリーズに一貫している純化された雨や自然風景の主題には、やはり水を中心とする大自然に対する揺るぎない信頼と畏敬の念が感じられる。そして、今回の展開である具象性の回復や多彩な色使いには、やはりコロナ禍が一段落し、人々が気楽に外出できるようになった時代の少し明るい気分がある程度反映されているように思われる。

 

西村大樹《歴史の最も危うい季節に》2023年

 

西村大樹《絶望は微妙に自己愛撫へ密通している》2023年

 

西村大樹《空の中へ逃げてゆく水とその水からこぼれ落ちる魚たち》2023年

 

西村大樹《眠る私を見守る寝ずの女神たち》2024年

 

西村大樹《あまりに幼すぎて思い出すすべもなかった》2024年

 

そして、「Neo-Kuraokami : D」シリーズは、古事記や日本書紀等の古い日本神話に登場する水の神である「闇龗神(クラオカミノカミ)」が、人類の過剰な活動のために「ネオ・クラオカミ」という別の架空の神に変容してしまったという設定で制作されている。

西村によれば、この背景には、もはや地上には人類に汚染されていない土地は存在せず、世界中の雨水には全て「永遠に残る化学物質(forever chemicals)」と言われるフッ素系界面活性剤(PFAS)が含まれていて飲用に適さないとする科学論文が2022年にある学術誌に発表された時に、西村の覚えたやるせない失望感が反映している。また、このシリーズには、西村が同じ頃に、夕立後の大空に綺麗な虹がかかる一方で、地面のアスファルトの水溜りにはケミカルな彩雲模様が滲んでいるという、自然と人工のいびつなコントラストを目撃したことも影響しているという。

つまり、このシリーズは、人類の生存において必要な水とその汚染をテーマとする一種の「現代の風景写真」を目指している。そのため、雨、雪、雲、水辺等の水にまつわる風景写真に加工を施すと共に、光輝性樹脂や虹彩色塗料を用いてその変化を際立たせ、それにより人間の活動の結果として変質していく自然の顕在化を試みている。具体的には、「Record」シリーズと同じ写真加工から出発し、その上に同じ写像を裏表反転させて重ねてシンメトリカルな残像のような図像を創出し、その上にはみ出るほど樹脂を流し広げつつやはり顔料を用いて鈍く虹色に光らせるという作品である。そこでは、加工の際に生じる樹脂のひび割れなども人為操作の跡を示すコンセプトの一部であるという。

なお、「龗」は水や雨を司る神としての龍の古語であるが、西村にとって「ネオ・クラオカミ」は化学物質よって変質されたクラゲやスライムのような軟体生物のイメージであり、シリーズの顕著な特徴である画面からはみ出した樹脂はそれを意識しているという。また、シリーズ名に付されている「D」は、フッ素系界面活性剤の製造で有名なデュポン社の頭文字から取られているという。

ただ、これもまたそうした西村の観念から出発していても、やはり筆者が画面から受ける印象はそれとはやや異なる。そこには、西村の緊迫感の強さによる後ろ向きの感情が含まれているとしても、それを超えた何かも現れ出ているように感じられる。つまり、筆者自身の感想を言えば、まず同一の自然風景を左右反転して重ねることで自然の聖性が顕著に表出するように感じられる。また、オルダス・ハクスリーが宝石の光輝には彼岸の美が反映していると見るのと同じ意味で、透明でありつつ虹色に輝く樹脂の被膜は、立体物として触覚的な自然のリアリティをもたらすと共に(自然なひび割れはそれを強化するだろう)、この世を超える超常の彼岸の美を垣間見させるように思われる。これは、大自然の根底にある死と再生を司る「根の国(黄泉の国)」を感受することで心身共に癒やされてきた、日本の芸能・芸道の伝統の正当な文化的継承と言えるだろう(なお、この問題について、長谷川等伯の《松林図》と、西村の「Record」「Foresight dream」シリーズの親縁性を読み解いたのが、拙稿「西村大樹――光の中の静寂な祈祷者:『Record』『Foresight dream』シリーズ」である。)

 

西村大樹《Neo-Kuraokami : D – X17》2023年

 

西村大樹《Neo-Kuraokami : D – X18》2023年

 

西村大樹《Neo-Kuraokami : D – X19》2023年

 

西村大樹《Neo-Kuraokami : D – X20》2023年

 

西村大樹《Neo-Kuraokami : D – X21》2023年

 

以上見てきたように、西村自身の自作の説明は悲観的な調子のまま終わってしまうことが多い。実際に、祝賀ムードの開廊記念トークイベントでさえ、時に観客が静まり返ってしまうほど西村の語る時代認識は深刻で悲壮感が漂っていた。

しかし、筆者には西村は敗北主義者であるようには思われない。それは、彼の作品のいずれにも純粋に美を求め表現しようとする健康な精神と創作意欲が感じられるからでる。それは、たとえ彼自身が化学顔料や人工素材を使用することに自虐的な発言をしているときでさえも同様である。なぜなら、その使用には、人工までを含むより深いレベルでの自然界の美への信頼感が現れているともいえるからである。

このことについて西村に尋ねると、確かに自分は自作の説明を悲観的な調子で終わることが多いが、それは自分が絶望しておらず常に希望を持ち続けていることは作品を鑑賞してくれる人は必ず感じ取ってくれるはずであり、それをわざわざ言葉で説明するのは画家として余計で蛇足に思えるからだという。また、自然界は常に弱肉強食であり、一つの種が途絶えることや人間が人工物を作ることもまたより深淵な大自然の悠久の営みであるというドライな認識がある一方で、だからこそ人間は自分達に与えられた運命に全力でもがき抗う自由を最後まで発揮すべきであるという裏返しの楽観主義も語ってくれた。これこそ、西村の絵画の深奥に感受される自由で活力に満ちた透徹した精神の本質であろう。

いずれにしても、一人の人間としての西村自身はどこまでも真剣かつ生真面目に環境問題のテーマと向き合っている。そのことは、西村の絵画に一貫してある種の切実な憂愁感を付与している。しかし、それにもかかわらず、いずれも切なく美しい西村の絵画から人が感じ取るのは、ここまで見てきたように、やはり全く救いのない絶望ではなく、再生や復興への一縷の希望であるように筆者には感得される。その意味で、誰の心にも眠る「平穏」への静謐な祈りと願いを情感豊かに揺り起こし呼び覚ます、一人の画家としての西村が創り出す一連の絵画世界は、過熱する現代社会における一服の清涼剤であり、人々の心を癒やして寛がせるある種の親水郷と評せるだろう。

 

(写真・動画は全て、hakari contemporary提供)

西村大樹公式ウェブサイト
https://daikinishimura.jimdofree.com/

 

hakari contemporary 公式ウェブサイト
https://hakari.art/

基住公式ウェブサイト
https://www.kijyu.co.jp/

 


【関連論考】

案内「西村大樹個展――不在の風景、平穏な海」トークイベント(2024年2月17日@hakari contemporary)秋丸知貴評

解説「西村大樹――光の中の静寂な祈祷者:『Record』『Foresight dream』シリーズ」秋丸知貴評

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学グリーフケア研究所、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員、滋賀医科大学非常勤講師、京都芸術大学非常勤講師。

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における純粋主義
第5章 抽象絵画における神秘主義
第6章 自然的環境から近代技術的環境へ
第7章 抽象絵画における機械主義
第8章 「象徴形式」としての抽象絵画

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考
第6章 ヴァルター・ベンヤミンの鑑賞美学――「礼拝価値」から「展示価値」へ
第7章 ヴァルター・ベンヤミンの建築美学――アール・ヌーヴォー建築からガラス建築へ

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――日本概念派からもの派へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

● 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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