展評「しまうちみか 茫茫 / Mika Shimauchi BOU BOU」熊本市現代美術館(熊本県熊本市)秋丸知貴評

会場風景

「しまうちみか 茫茫ぼうぼう / Mika Shimauchi BOU BOU」

会期:2025年10月25日()~2026年1月12日(月・祝
開館時間:10:00~20:00
休館日:火曜、年末年始(12月29日~1月3日)
会場:熊本市現代美術館 ギャラリーⅢ+井手宣通記念ギャラリー(熊本県熊本市中央区上通町2番3号)

 

現在、熊本市現代美術館で、現代美術家しまうちみかの個展「茫茫ぼうぼう 」が開かれている。

しまうちは、1987年に熊本県で生まれ、2013年に地元の崇城大学大学院芸術研究科の彫刻専攻の修士課程を修了した。長らく熊本県内の菊池市龍門アーティストスタジオ(旧龍門小学校)を拠点にしていたが、現在は隣の宮崎県に移住して活動している。九州というローカルな地域に根差して制作を行っているが、視点はグローバルであり、2018年にはアメリカのバーモントと中国の上海、2019年には東京、2021年には青森等の国内外のアーティスト・イン・レジデンスにも積極的に参加している。

近年、個展をほぼ年1回のペースで開いており、2016年の「DOG――猟師よ、ここは私のテリトリー」(なかお画廊・熊本)、2017年の「しまうちみか個展」(ガレリア・グラフィカbis・東京)、2018年の「境界線からみえる風景」(WHITE SPACE ONE・福岡)と「Big Romance」(Shun Art Gallery・上海)、2020年の「自立について――世界は想像した以上に私を受けいれてくれるはずである」(福岡アジア美術館企画展示室C・福岡)、2021年の「ゆらゆらと火、めらめらと土」(国際芸術センター青森・青森)、2022年の「火についてのドローイング」(Under Construction Center・福岡)、2024年の「辺境の宇宙 / Remote Universe」(MARUEIDO JAPAN・東京)と「ワ~ムホ~ル」(Gallery Chignitta・大阪)と続いている。様々なグループ展、アートフェア、芸術祭にも精力的に出品し、2024年には「VOCA展2024」にも選出されている。

本展「茫茫ぼうぼう 」は、しまうちが南九州の来訪神行事に取材した新作・近作を中心に構成されている。いつもながらどの作品にも尋常ではない圧倒的なパワーが漲っているが、特に最新作の映像作品《新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」記録映像》(2025年)により、これまでやや分かりにくかったアーティストとしてのしまうちが目指すものがはっきりと輪郭を結んでいることを論じたい。

 

しまうちみか《迎え火》2024年

 

恐らく、しまうちの作品を見ると、最初人は理解に苦しむだろう。一見、絵画も彫刻も「悪ふざけ」のように思える。モティーフは全てお化けか妖怪じみており、色彩はサイケデリックな極彩色で、仕上げも稚拙に感じられる。そのため、ついこれは子供の落描きかアウトサイダー・アートではないのかと誤解しやすい。

何よりもまず、彼女の作品世界には異界的な妖気が漂っている。実際に本展で筆者は、恋人同士らしき若いカップルが会場に入ってくるときに、女性の方が入口で一瞬立ち止まり怖がりながら恐る恐る入ってくるのを目撃した。

しかし、これらは子供の落描きでもアウトサイダー・アートでもない。実際に、もし子供やアウトサイダー・アーティストが同じような作品を作ったら、大型作品はもちろん小型作品でもこのような完成度には至らずに途中で造形上のバランスを崩してしまうだろう。また、美術館のように天井が高く広々とした空間に置かれれば自閉的に見えて間が持たないに違いない。

それに対し、しまうちの場合は、いずれも明らかに自覚的に作品全体がコントロールされている。造形上、一見破綻しているようでも実は全て絶妙なバランスを保っている。また、よく見ると、一見粗く見えた仕上げも実はしっかり気持ちのこもった粗さである。さらに、提示される事物はどれもオドロオドロしいけれども、どこかポップだったり可愛かったりして鑑賞者を必要以上に怖がらせないように細心の注意が払われている。

そうした美意識がどの作品にも隅々まで貫かれていることは、美術館のような大型のホワイトキューブの空間に展示されるとよく分かる。つまり、ここでしまうちは、敢えて「際物」的な雰囲気を漂わせながら、あくまでも一人のファイン・アーティストとして真剣に鑑賞者と向かい合っている。

 

左1 しまうちみか《来訪神のシリーズ「come and go」》2024年
左2 しまうちみか《来訪神のシリーズ「トシドンとわたし」》2024年
左3 しまうちみか《その火を飛び越えて》2024年
右1 しまうちみか《トランストランスフォーム~ピンクの外来種~》2024年
右2 しまうちみか《私的ブリコラージュマスク~スチレンフォームのジャバザハット~》2024年
右3 しまうちみか《We are on fire / わたしたちは最高》2023年
右4 しまうちみか《トランストランスフォーム~天狗かピノキオ~》2024年
右5 しまうちみか《トランストランスフォーム~Hi,~》2024年
右6 しまうちみか《トランストランスフォーム~遊ばせる~》2024年

 

元々、しまうちは、学部生時代は裸体人物像を石膏で象るオーソドックスな西洋式彫刻を制作していた。そこでは、「彫刻は、重力に逆らって立つ自立構造が大切です[1]」と教えられたという。実際に、ルネサンス以降の西洋式彫刻の理想化された堅牢な裸体人物像には、神の似姿として理性を与えられた人間が自然に対して力強く自立するという含意がある。

これに対し、そうした西洋式彫刻に違和を感じていたしまうちは、修士課程では死んで横たわる馬の石膏像等を制作している。さらに、2016年4月に熊本大地震が生じ、二度の震度7の地震で一度立て直した彫刻が再び倒されたときに、しまうちは彫刻は「立ち続けなくてもいいんじゃないか[2]」とふと思ったという。

そうした彫刻の「自立」を巡る問題は、しまうちの芸術観のみならず人生観にも通じている。つまり、人間にとって自立は大切であるが、傲慢になってはいけない。もし自分の力だけで生きていると錯覚し、自分を超える偉大な存在に生かされているという畏れを失うと、欲望は際限なく暴走し、強欲資本主義や自然環境問題を始めとする様々な弊害が生じる。そのため、作品を通じて人間にとって本来あるべき健全な畏れをどのように取り戻すのかがアーティストとしてのしまうちの根本テーマといえる。

 

上 しまうちみか《ファンタジーワールド、ファンタスティックワールド》2024年
下 しまうちみか《PLAY GROUND》2021-25年

 

しまうち自身は自作について、絵を直観的に描きそれを立体化していくと述べている。また、自らの造形の特徴を次のように説明している。

「作品にみられる頼りない造形は、合理化やグローバル化により平均化されていく私たちに対してのアイロニーと、それでも合理的になりきれない私たちをユーモラスにあらわそうとしている[3]」。

普段、私達は高性能で規格化された清潔なものに囲まれて生活している。そうした近代西洋的な合理主義はとても便利で快適だが、ややもすると人間を増長させ慢心させる。その結果、人間は自然をどのようにでもコントロールできると勘違いしてしまう。しかし、本来自然は歪であり、外なる大自然も内なる自分自身も扱いにくい。

例えば、雑草は放っておくとあっという間にあちこちで繁茂するし、誰でも不意にこみ上げる生理的な嘔吐は堪えることができない。そのように、人為的に画一化されたものの背後には、常に野性的なエネルギーを持つ大自然がカオスとなって渦巻いている。横溢する無限の生命力を示唆する本展のタイトルの「茫茫ぼうぼう 」は、ここに通じている。近年、しまうちは、地震や気候変動や新型コロナ禍や出産育児を経験してそうした自然の混沌的エネルギーへの感受性をさらに鋭く豊かにしたようだ。

 

左1 しまうちみか《無題》2021年
左2 しまうちみか《田舎者》2021年
左3 しまうちみか《嘔吐》2019年
左4 しまうちみか《無題》2024年
右上 しまうちみか《無題2》2024年
右下 しまうちみか《青森で見たもの / ケラケラくん》2021年

 

しまうちは、彫刻にテラコッタ(粘土の素焼き)技法を好んで用いる。日本では縄文時代から用いられているこの原始的な技法は、大自然の象徴である火を通じて粘土を変容(トランスフォーム)させるが、その作用は融通が利かず人為では完全にコントロールできない。しまうちの彫刻に造形が歪んでいるものが多いのは、そうした人間の力の限界を暗示している。

また、しまうちの彫刻には壁に立てかけられたものも多い。ここにも、人間は自分を超える何らかの存在に支えられているという含意がある。

 

しまうちみか《I won’t turn the othe cheek.(左のほっぺたを差し出さないぜ)》2021年

 

しまうちには、自分を超える巨大な力に対してアンビバレントな感情がある。例えば、商業のグローバル化や地方格差や自然環境問題のように大きな政治的・社会的な問題は個人の力ではどうすることもできない。しかし、人知を超える大自然やその背後に潜む偉大な神秘的存在はそうした不調和も中和してくれるかもしれないという期待がある。

これに関連して、しまうちは自分は自信を喪失した世代だと語っている。つまり、物心ついたときには既にバブル経済は弾けて長期の不況に陥っており、未来には何も希望がなく高揚感を持てなかった。それを一つの契機として、自らの内に偉大さを再生させるものとして祭りや伝統行事に関心を持ったという。時々しまうちの作品に現れる「MAKE GREAT AGAIN」という文字は、ここに由来している。

 

左 しまうちみか《spooky》2019年
右 しまうちみか《スーパースプレッダーくん》2021年

 

しまうちが移住した宮崎県は、国の重要無形民俗文化財に指定されている、高千穂神楽、米良神楽(銀鏡神楽等)、椎葉神楽、高原神舞(祓川神楽・狭野神楽)を始めとして、現在でも日本の古い伝統行事である夜神楽の伝統が残る全国でも数少ない地域である。また、南九州は、高千穂峰への天孫降臨から始まる日向三代、神武東征、大和武尊の熊襲征伐等の日本神話が今でも息づいている地域である。

さらに、南九州には、同じく国の重要無形民俗文化財に指定されている、鹿児島県における甑島のトシドン、硫黄島のメンドン、悪石島のボゼや、沖縄県における宮古島のパーントゥ等の来訪神を迎える風習も残っている。これらの仮面をかぶった野蛮な神々は、定期的にやってきて子供達を怖がらせると共に幸福をもたらすとされている。

それでは、一体なぜ来訪神は子供達を怖がらせるのだろうか?

 

しまうちみか《最初のイニシエーション》2025年

 

民俗学者の柳田国男や折口信夫等の研究により広まった、「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」 という概念がある。「ケ」は日常性を意味し、「ハレ」は非日常性を意味する。

「ケ」としての日常生活では、人々は日々の仕事や家事を繰り返す。その過程で、次第に心身が疲労する。また、時々生じる様々な争いや災いはさらに心身を疲弊させる。それらにより、人々は生命エネルギーとしての「気」が「枯れ」、「穢れ」る。そうした「ケガレ」による心身の衰弱を晴らして快復させるのが、「ハレ」としての非日常の祭りや儀式である。それに伴い、芸能も生まれる。それらを通じて、個人や共同体が再生する。それを周期化し定式化したものが、年中行事や風習である。

「ハレ」の祭りや儀式では、「ケ」の顕界(生者の世界)が、大自然の奥底に鎮座するあらゆるエネルギーの根源である異界としての幽界(死者の世界・根の国・黄泉の国)に繋がる。そして、そこに住む祖霊や神々や幽鬼が顕現する。常に時空を超えて幽界から顕界を見聞きしている彼等は、生者の悪行を糺すと共に善行を祝福する。それにより厄は払われ、生者には再生のエネルギーと福徳がもたらされる。

その一つの典型例が、いわゆる来訪神行事である。毎年、異形の神々が定期的にやってきては、子供達を脅かして震え上がらせると共に神通力や物品等を授ける。それは、ただ単に子供達を怖がらせたり喜ばせたりするためではなく、人間の持つ様々なエゴイズムや悲哀を克服するために、世界は顕界だけではなくむしろ幽界に含み込まれており、常に人間は超常の存在に見張られ見守られていることを幼少期から学ばせ実感させるためである。すなわち、来訪神行事は子供達の人格を健やかに陶冶し共同体を健全に維持するための道徳的な通過儀礼(イニシエーション)なのである。

その際、毎年正月にやってくる「歳神」や秋田県の「なまはげ」がそうであるように、それらの神々(やその使い)は具体的には一体何の神(やその使い)なのかよく分からない方が良い。なぜなら、その方が幽界の存在をより神秘的かつ無限の深淵さを持つ「茫茫」たるものとして感受できるからである。

 

左奥 しまうちみか《新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」記録映像》(7’55)2025年
右奥 しまうちみか《新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」のためのスケッチ》2025年
右 しまうちみか《新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」の仮面など》2025年

 

とはいえ、既に現代社会では、都市化や少子高齢化により地域共同体自体が崩壊している。そのため、そうした通過儀礼としての様々な祭りや伝統行事も喪失されつつあることはよく知られている。

しかし、そうした来訪神行事の「魂」を芸術上で復興することは可能かもしれない。なぜなら、芸術こそ現代社会における「ハレ」の舞台の一つだからである。

そこで、しまうちはアーティストとして新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」を立ち上げる。「ひゃ~たれ」とは、熊本弁で「ビビリ」「臆病者」という意味である。造形上は特に甑島のトシドンが参考にされているが、素材上は藁だけではなく近年熊本県にできたコストコの段ボールやお菓子の包装紙等がブリコラージュされ現代的にアップデートされている。

プロの役者が演じる「ひゃ~たれ」の集団が、子供のいる家庭を訪れてくる。その異形の来訪神達は、子供を見つけると一人ひとり名前を呼び、日頃の悪い行いを野太い声で指摘して怖がらせる一方、良い行いについてはきちんと丁寧に褒める。そして、最後にはお菓子を授けていく。

本展では、その一連の様子が動画に撮影され一つの作品としてディスプレイに映出されている。これは非常によくできたアート・パフォーマンスであり映像作品なので、個人的にはYoutube等での公開を望みたい。

 

左 しまうちみか《新・来訪神プロジェクト「ひゃ~たれ」の仮面など》2025年

 

本展では、そのパフォーマンス時に実際に用いられた複数の「ひゃ~たれ」の衣装が展示されている。足元には、本物の聖像のようにお金やお酒がお供えされているところが芸が細かい。

宗教学者ルドルフ・オットーは、神秘的なものが喚起する畏怖と魅惑の入り混じった感情を「ヌミノーゼ」と形容した。宗教学者鎌田東二は、そうした「ヌミノーゼ」の一番分かりやすい例を、『となりのトトロ』でサツキとメイがトトロと猫バスに出会った後に発した「怖ーい!」「素敵ー!」に見る。そうした両義的な高揚感は、怖さと可愛さを兼ね備えたしまうちの新たに創造した来訪神達にも感じられるだろう。

怖いものが、可愛くもある。荒々しいものの中に、繊細さがある。聖なる来訪神が、俗なる商業用包装紙でできている。ローカルとグローバルが、呼応する。日常の中に、非日常が顕現する。

芸術作品では、そうした正反対で対極のものが同居しうる。しまうちの造形作品がどことなく不安定で全体的にゆらゆらしているのには、そうした両極を境界を超えて行き来する含意もある。そこに、しまうちの造形作品の大きな魅力の一つがある。

 

左 しまうちみか《南九州の仮面をめぐる冒険》2024年
中 しまうちみか《ワームホール~つながる、つながってしまっている~》2024年
右 しまうちみか《スーパーヒーローズ》2025年

 

注目すべきは、そうした芸術表現としての新しい来訪神行事を映出するディスプレイと同じ壁面に、東アジアから東南アジアにかけての「霊性文化地図」といえるような三つのコラージュ作品も展示されていることである。そこでは、土俗的な宗教儀式やそこで用いられる仮面の類似性が、南九州を超えて汎アジア的な広がりを持っていることが暗示される。それと同時に、来訪神行事とその意義が人類にとってローカルな特殊性ではなくグローバルな普遍性を有していることも示唆される。

なお、筆者はこの2年ほど、仕事の関係で霧島連山の麓の宮崎県えびの市と鹿児島県湧水町に居住し、個人的な関心からほぼ週末ごとに南九州を中心とする九州全体の日本神話に関わる主だった聖地を巡礼した。そのため、九州の霊性文化や宗教的風習については一般人よりだいぶ詳しい自信がある。

しかし、興味深いのは、筆者がフィールドワークして見聞きした内容と、しまうちがフィールドワークしてピックアップしている内容が、部分的に重なりつつもずれていることである。言わば、「左脳型」の筆者が観光名所を物見遊山的にリサーチしたとすれば、「右脳型」のしまうちは土地の深層に直接ダイヴしてその霊性文化にシンパシー的に感応しているのだろう。

その一例として、しまうちは《ワームホール~つながる、つながってしまっている~》(2024年)で、インド発祥の「ハーリーティー」(子供を攫って食べる羅刹女)が、インドネシアのバリ島では「魔女ランダ」になった一方、中国では「訶梨帝母(カリティモ)」に変わり、日本に入って「鬼子母神」に変化した後、南九州のポピュラーな道祖神である「田の神さぁ」に変容したと図解している。これは、しまうち自身が「諸説あり」と注しているように実証は不可能だが、影響の度合いはともあれ一般庶民の信仰レベルでは明確な否定もできない見解である。

実際に、えびの市も湧水町も「田の神さぁ」が根付いた土地柄であり、日常生活に溶け込んでいる分かえって住民がそうした対象化や連想をすることはまずない。そこに、外から来訪して共同体を活性化させる一種の「マレビト」としてアーティストの直観をもって踏み込むところに、しまうちの芸術活動の大きな魅力の一つがある。

 

部分 しまうちみか《ワームホール~つながる、つながってしまっている~》2024年

 

元々、しまうちは英語教師の親の下に生まれ育ち、アメリカン・コミックやハリウッド映画等のアメリカ文化に多大な影響を受けている。スターウォーズの登場人物が顔を出したり、様々なキャラクターをセサミストリートのようにポップに造形したり、霊山とされる霧島連山一体をTVゲーム『バイオハザード』に出てくる架空のアメリカ都市のように描いたりするところに明らかにその影響が窺える。

さらに、しまうちには、アメリカ渡来の大型スーパーマーケットで大容量商品を低価格で販売するコストコを、人々に福徳をもたらす「新しい来訪神」と捉える感受性がある。しまうちにとっては、過去の伝統をそのまま復元するのではなく、その「魂」を現代人にとってアクチュアルなかたちで復権することが重要なのだろう。そこに、新たな伝統の創造を見ても良い。

本展では、関連イベントとして、子供を対象とした自分なりの来訪神の仮面を制作するワークショップや、宮崎県椎葉村に居住する画家生島国宜と椎葉民俗芸能博物館学芸員森内こゆきとの鼎談も組まれている。これらは、地域社会への貢献や文化の継承と活性化の観点からも望ましい企画と言えるだろう。

東京一極集中ではなく、しまうちのように地域を深掘りしながらグローカルで意義深い創造活動をすることこそが真の文化多様性である。そうした作家本人はもちろん、その作家活動を真摯かつ継続的にバックアップして本展を実現した熊本市現代美術館に心から賛辞を送りたい。

 

[1] 『しまうちみか展 自立について――世界は想像した以上に私を受けいれてくれるはずである』記録集、秋の種2020企画委員会、2020年、6頁。

[2] 同前。

[3] しまうちみか公式ウェブサイト「私 About」より引用(https://www.shimauchimika.com/about

 

しまうちみか 公式ウェブサイト
https://www.shimauchimika.com/

 

フライヤー(PDF)

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美術史家・美学者・キュレーター。
1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。
2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。2013年11月に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。
2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所で特別研究員として勤務する。2023年3月に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)を出版。
主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日-2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日-2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日-2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:高台寺掌美術館、会期:2022年3月3日-2022年5月6日)、「水津達大展 蹤跡」(会場:圓徳院〔高台寺塔頭〕、会期:2025年3月14日-2025年5月6日)等。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

https://akimarutomoki.wordpress.com/