窓に賭けろ 市原尚士評

目は心の窓、みたいな言い方、よくしますよね。
それでは、心の窓は目、と反対にしても、意味は同じでしょうか?
数学なら、「a=b」と「b=a」とは同じものと言えますが、言葉だととたんに怪しくなります。
そもそも、目は「心の窓」というのは、勝手に(文学的に)決めつけているだけで、単なる比喩的な言い回しでしょう。
数学的に、「目=心の窓」という関係性にはなっているわけではありません。非常に脆弱なバランスの上に成り立った、なんちゃっての「イコール(=)」に過ぎないのです。
ですから、aとbを逆さまにして、「心の窓」は目、と書いてみると、言葉同士のつながりの脆弱性があらわになり、「???」と頭の中が疑問符だらけになるのです。
こうなるともういけません。「目は心の窓」も「心の窓は目」も、どちらも信じられなくなってしまい、言葉への不信感がわいてくる結果となるわけです。

岡路貴理「cityscape-01」(2025年)

言語にはなかなか難しい「a=b」と「b=a」との関係性が、絵画芸術には可能です。
東京・天王洲のTokyo International Galleryで開催されていた岡路貴理(1998年生まれ)の個展「かける窓」を見て、そう思いました。
日本画の手法を用いて、岩絵具で非常にリアルに描く対象は、「窓」「ガラス」「格子」です。その作品を会場内の壁に設置することは、言い換えれば「掛ける窓」ということになるわけです。これをひっくり返して「窓掛ける」にしてもちゃんと意味は通じます。でも、この窓は、虚構の窓ですよね、だって絵ですから。虚構であることは間違いないのに岡路の技巧によって、本物の窓と区別がつかない感じがします。

現在、メタル展を開催している東京・銀座の銀座メゾンエルメス ル・フォーラムには、岡路が描く窓、たとえば、「window sketch-gray」(2024年)に登場するような窓があり、大変、魅力的です。

筆者が一番好きなのは、すっかり日が落ちて、外が暗くなったときのル・フォーラム内部です。作品鑑賞に没頭して、ふと視線を窓ガラスに向けると、自分が窓の内側にいるのか、窓の外側にいるのか錯覚するような瞬間を味わうことがあるからです。

岡路貴理「window sketch-gray」(2024年、部分)

岡路の作品もまったく同じです。観客は窓の内側から外部を見ているのですが、同時に、窓の外側(=壁の向こう側)から何者かに見られているような感覚を体感させられるのです。窓の内側と外側とが交感・交換しあい、「結局、窓の前に立っている自分は誰なんだ?」という大きな問いかけが最後に残されるわけです。窓の前にいるのか、後ろにいるのか、窓によって精神を揺さぶられて、哲学的な問いかけに追い込まれるわけです。

かける窓は、「描ける窓」でもあります。岡路は巧みな技を駆使して、ガラスの窓、格子状の窓を描ききります。「窓描ける」から、岡路は楽しくて仕方ない。窓のガラスは歪みが生じたり、反復が生まれたりするので、現実の風景とは微妙に異なります。

しかし、偽りの風景というわけではなく、これはこれで立派な真の風景と言えるわけです。つまり、窓を描くことで「真⇔偽」の往還運動を楽しんでいるのでしょう。ブランコが「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(中原中也)と行ったり来たり揺れるように、岡路も真の風景と偽の風景との間をたゆたっているのです。

そして、何よりも岡路にとって、「かける窓」は「賭ける窓」でしょう。窓という一生追求できそうな手ごたえのある画題を見つけたからには、徹底的に「窓賭ける」日々を送り、少しでも良い作品を制作しようと毎日、自身のすべてを賭して、全身全霊で制作に打ち込んでいるわけです。

「かける」とあえて平仮名で表記する岡路の感性が心憎いです。筆者は、勝手に掛けて、賭けて、描く、と解釈しましたが、本当はどんな漢字もあてはまらない、ただの「かける」が一番、岡路にとってはしっくりくるのかもしれません。勝手な言葉遊びをして、迷惑を「かける」ことになってしまい、岡路さん、申し訳ございませんでした。

筆者も岡路さんのように、生涯をかけて徹底的に打ち込めるテーマが見つかればいいのですが、なかなかそうはいきません。あっちをかじっては、こっちをかじっての「その日暮らし」のような執筆ばかりで、お恥ずかしい限りです。

TERRADA ART COMPLEXⅠのドア。大きなガラスが中央部にはめこまれている

ちなみに、Tokyo International Galleryが入居するTERRADA ART COMPLEXⅡに隣接するTERRADA ART COMPLEXⅠには、大きな扉の中心に大きなガラス窓がついています。ちょうどエレベーターの前になります。

このガラス窓からは、マンションが見えますね。数えると10部屋もありました。一つの小さな窓からは10部屋が見通せるわけですが、反対にあの向こうの部屋から、この小さな窓を見ても、何か細かく見通せるわけはありません。この不均衡性が面白いですね。パノプティコン(全展望監視システム)の原理に近いような気もします。

つまり、小さな窓から双眼鏡や望遠鏡を使って、10部屋の窓辺、及び窓の中を監視することは容易ですが、その反対に、10部屋のベランダから、この小さな窓のこちら側で息をひそめて佇んでいる人間を見つけるのはほぼ不可能ということです。狭く閉じた側から監視する方が効率が良いのかもしれません。

岡路の作品に登場する窓やガラスに、絵のこちら側に隠れながら、何かを監視しようという意思は全く感じられません。ひたむきに精進を重ねようとする強い願いしか感じられません。陰険な、邪悪な感じがまったく漂ってこないのは、ひとえに岡路さんのお人柄がよろしいことに由来するのでしょうね。

筆者など、こっちから向こうは見えても、向こうからはこっちが見えないという立場になったら、その“特権”をフルに活用して、何やら良からぬ利用法を考えてしまいそうですから……。

杉戸洋の作品は、窓のようにも見える

最後におまけ。東京・六本木のKENJI TAKI GALLERYで開催中のGallery Artists Showに出品されている杉戸洋(1970年生まれ)の作品も窓みたいに見えました。窓というのは一種の堅固なフレームなので、絵の中には、窓状の形はよく登場します。読者の皆さんも、ギャラリーや美術館を回る際に、絵の形状的な特徴、構造を意識しながら鑑賞されてみてはいかがでしょうか?

大別すれば、絵の形状は4パターンになるでしょう。「〇(丸)」「△(三角)」「□(四角)」「×(バツ)」の組み合わせ、あるいは若干の変形などなどになるでしょうね。それぞれ、ニュアンスも異なるこの4つの形が絵画や彫刻などの基本になっていると考えると何だか愉快になってきませんか?

出光美術館(長期休館中)が誇る、あの仙厓義梵(1750~1837年)の「〇△□」というシンプルな墨書の図は、もしかしたら、芸術の神髄を表現したものかもしれませんね。(2026年1月25日21時49分脱稿)

 

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。