アートの新たなオペレーション「ARTISTS’ FAIR KYOTO」の歴史化 三木学評

京都国立博物館 明治古都館

「ARTISTS’ FAIR KYOTO」
会期:2025年2月28日-~3月6日
会場:京都国立博物館 明治古都館、京都新聞ビル地下1階、臨済宗大本山 東福寺

 

2018年から開催されている「ARTISTS’ FAIR KYOTO」がすでに8年目を迎えた。1年目と2年目、コロナ禍で中止になった3年目以外は、毎年、取材で訪れている。アーティストが直接コレクターに販売し、市場をつくることを目的にしたフェアなので、アートフェアではなく、アーティストフェアというわけである。そこには作品だけではなく、アーティストそのものを支援するということも含まれている。

しかし、ギャラリーを介さないフェアがうまくいくとは必ずしも思われてなかったように思う。しかし、蓋を開けて見れば、毎年盛況で完売する作家も出てくる、京都の早春に恒例のフェアとなった。それは良くも悪くも新興富裕層の台頭と、格差社会も反映しているかもしれない。結果的にギャラリーとしても、すでにコレクターがついている作家ということになるので、有効な新人発掘の場にもなっている。

京都国立博物館 明治古都館  展示風景 

すでに8年間が経つこのフェアはすでに歴史化しつつある。では、このフェアがどのように位置づけられるのだろうか? 私の中では2000年から2019年までの約20年間は、「芸術祭の時代」であると思っている。2000年が「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」の1回目で、2019年が「瀬戸内国際芸術祭」と「あいちトリエナーレ」の4回目である。2020年に入って新型コロナウィルス感染症が流行し、あらゆる芸術祭が中止となった。もちろん今でも芸術祭は開催されているが、日本においてかつてのような新規性はなくなっているし、コロナ禍を経て定着したものと淘汰されたものがはっきり分かれたように思える。「地域アート」と称されるようになったのもこの時代であるが、人口減少で衰退化している地域と、発表の場の少なかった現代アートの互いのニーズが結び付きパッケージングされていった。ただ、別の側面から見れば、長期不況のなかで、インフラ整備を伴ったかつての地方博覧会のような多額のお金がかからないものとして、代替の役割を果たしたともいえる。

京都新聞ビル

もう一方の極がアートフェアである。アートバーゼルやフリーズのような国際規模のアートフェアは、日本ではなかなか開催できないが、20年前に比べて、コマーシャルギャラリーが各段に増加し、国内においてもアートマーケットといえるものがある程度の大きさになってきているといえる。しかし、アーティストフェアは、国際規模のアートフェアではなく、むしろ若手発掘のためのフェアで、大型のアートフェアやコマーシャルギャラリーと契約する以前のアーティストを対象としたものであり、それがユニークな試みとなっている。ある意味で、若手作家を取り上げるアニュアルのようなものに近い。売ることが前提なので、「VOCA展」(上野の森美術館)や「MOTアニュアル」(東京都現代美術館)、「六本木クロッシング」(森美術館)とは異なるが、「ARTISTS’ FAIR KYOTO」の京都新聞ビルでの展示は、インスタレーションのような作品を発表する作家も多い。

京都新聞ビル地下1階展示風景

関西ではかつて兵庫県立近代美術館が開催していた「アート・ナウ」というシリーズが、若手作家のアニュアル的な役割を果たしており、そこから森村泰昌、椿昇、中原浩大らを輩出した「関西ニューウェイブ」が生まれた。また、神戸アートビレッジセンターで開催されていた「神戸アートアニュアル」も若手作家を紹介する展覧会として知られていた。

企業メセナとしてはキリンプラザ大阪で開催され、ヤノベケンジや束芋、淀川テクニックを輩出した、「キリンアートアワード」の存在も大きかった。2000年代からは、多くの若手が芸術祭やアートプロジェクトに参加するようになり、アニュアル的な位置づけの展覧会が関西ではあまり見られなくなっていた。

「ARTISTS’ FAIR KYOTO」は、その意味で、関西の若手作家の定点観測ができる新たな場を提供している。そこにアーティストもいて実際に話ができるから効率がいいということもあるだろう。「関西」「若手」と書いたが、すでにその枠からも外れてきているのも最近の傾向である。もともと椿昇がディレクターとなって開催されたこのフェアは、椿が務めている京都芸術大学出身の教員や卒業生が多かった。椿はそれ以前から、卒業展で作品が購入可能な形に変え、さらに卒業生のアーティストの作品を企業に貸したり、売ったりすることを仲介する組織をつくっており、その経験を展開させた経緯がある。その根本的な背景は、少子化するなかで美術学科に入学する学生たちが生きていける出口をつくらなければならない、という大学にとっても切実な問題であった。これは東京の美術大学とは環境がかなり違うことも大きい。アートと近接する産業やメディアが多い東京では、さまざまな別の道を歩むことができる。しかし、関西ではそれはほとんどなく、教職が少なくなるなかアートそのものを貨幣価値にしなければ生き残ることが難しい。

臨済宗大本山 東福寺 手前の巨大なこけしは、Yottaの作品《花子》(2011)

「ARTISTS’ FAIR KYOTO」は、アドバイザリーボードに就任しているアーティストの推薦によって出品アーティストが選ばれており、アドバイザリーボードのアーティストも京都芸術大学の教員が多かったが、徐々に他の大学の教員や、国際的に活躍しているアーティストに幅を広げていった。また、公募枠も入れて、作家に広がりをもたせていったのだ。近年の傾向としては、若手から中堅のアーティストも出品アーティストになっているケースが出ていることだろう(ちなみに、アドバイザリーボードのアーティストの展覧会も、2022年から清水寺、東本願寺の渉成園、今年は東福寺の方丈といった京都ならではの場所で開催されている)。

東福寺 展示風景 手前の作品は田村友一郎の《包摂/Subsumption》(2025) お掃除ロボット型の香炉。

重要なことは、それだけ若手から中堅にかけて、全国的なニーズがあるということである。先に書いた「芸術祭の時代」にデビューしたアーティストは、一般的にリサーチやサイトスペシフィックなモチーフから制作する傾向にあり、展示の形態も映像やインスタレーションを駆使することが多く、売りにくい場合が多い。しかし、アートフェアで売れる作品は、結局のところ古典的な形式、いわゆる絵画や彫刻、平面作品や立体作品といったものになる。だから、中堅といっても持続して活動するのが難しくなるのだ。近年では、少子化によって教職の枠も少なくなり、売りにくい作品を制作し続けていくのは極めて難しくなっている。だからギャラリーのついていないアーティストにとって、「ARTISTS’ FAIR KYOTO」のような、明示的に売るということが前提の場所は貴重なのである。もちろんそこから、国際的な文脈や市場にのせていくのはギャラリーや批評家、美術史家の役割である。その点についても、山本浩貴、沢山遼といった批評家、千葉由美⼦(Yumiko Chiba Associates)といったギャラリストがサポートしている。また、マイナビがサポートしている「マイナビ ART AWARD」では、最優秀賞受賞者に個展と100万円が提供されており、そこにおいては空間を構成できるインスタレーション形式のアーティストが選ばれることが多い。

ずいぶんいろんな世代、地域、出身のアーティストが増加してきて、一概に傾向を言えなくなってきているが、最初から5年間くらいの作家の傾向はある程度あるように思うし、何かしらの時代感覚を体現しているように思う。個人的には、抽象的表現、偶然性の導入、マテリアルのこだわりと実験性という幾つかの要素があると考えている。この傾向は、具体(美術協会)のアンフォルメルの影響以後の作品に似ている部分があるように思える。それは、コレクターがインテリアとして購入したり、ホテルやカフェなどが購入したりする場合、具象よりも抽象度が高い方がよかったという側面もあるので、ある種の最適化が行われたともいえる。

ただしそれは抽象表現主義などの戦後のアメリカの絵画にもいえることである。アメリカのモダンな建築空間に、抽象表現主義やカラーフィールド・ペインティングの絵画が合ったように、冷戦終結以後の日本の外資のホテルやカフェが増加した空間に、「ARTISTS’ FAIR KYOTO」初期の作家たちの作風が合った。というよりも、売れる作品をアーティストが切磋琢磨し、相互に学習する中で、最適化されたと言った方がいいのかもしれない。いずれにせよ、後々この時代のアーティストが、具体やもの派、「関西ニューウェイブ」といった呼称が与えられる時期がくるかもしれない。

また、もともと印象派が、サロンに対抗した画家の互助的な協同組合であったように、アーティストの自主的で互助的な活動としても、記憶されることになるだろう。印象派は、協同組合としてはうまくいかなったが、それをポール・デュラン=リュエルなどのギャラリストが世界的に展開するようになった。近年、アートを観客に届ける手法のことを、美術史家の富井玲子氏は、「オペレーション」と名付けて、団体展や貸画廊なども包括して評価に入れているが、「ARTISTS’ FAIR KYOTO」は、まさしくアーティストによる「オペレーション」の一形態である。

美術館や芸術祭では、金銭的な価値だけではない別の軸を持つ必要があるため、アートフェアで売れるような作品を、必ずしもキュレーターや学芸員が好まないという課題はあるが、大学のようなある種のパトロン機関が減少するなか、アーティストがサバイブするためには自身の作品を何らかの形で売るしかないのも確かである。日本の脆弱な創作環境や市場環境のなか、成長を続けてきた「ARTISTS’ FAIR KYOTO」が今後どのように社会に根付いていくか、歴史的な位置づけをされるかは今後のアート業界の一つの目安になるのではないだろうか。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1FaByUa6V7uskVGH5-0hZTdOiuLWxVr4f/edit?gid=291136154#gid=291136154

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