阪神・淡路大震災から30年、アートに何ができるのか

阪神・淡路大震災から30年が経った。東京で仕事をしていた1995年1月17日のことは、かなりよく覚えている。雑誌の編集部にいて、「関西で大きな地震があったらしい」というニュースが午前中流れたのだけど、「らしい」という言葉が示している通り、詳細がわからなかった。ものすごく大きな被害があることが報じられたのは、午後になってからのことだった。おそらく現地の報道機関もかなり被害を受けており、確認に手間がかかったのだろう。

小雪がちらつく中で

その被災地だった神戸市にある兵庫県立美術館では『阪神・淡路大震災30年 企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」』(今年3月9日まで)が開かれており、先日ようやく出かける機会を得た。折しも日本列島が大寒波に襲われ、神戸でも小雪がちらつくなかで、10mくらいはあろうかと思われる六甲おろしの寒風が吹きすさぶ中での訪問となった。

実は、筆者は1995年2月初旬に、美術雑誌の記者として、震災地域の美術館のいくつかを取材した経験を持つ。エンバ中国近代美術館、白鶴美術館、芦屋市立美術博物館などだ。東京から新幹線で大阪へ。さらに現地の鉄道で行けるところまで行き、輪行した自転車に乗り換えて走った。その時も小雪がちらついていた。まさにその時から30年。ここでは、兵庫県立美術館 の『阪神・淡路大震災30年 企画展 1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち』で展示されているごく一部を紹介したい。

古川清、榎忠らの松が窓に印刷されたインスタレーション

まず目にしたのは、田村友一郎のインスタレーション。1995年は、Windows 95が世の中で旋風を巻き起こした年だ。田村はPCやビル・ゲイツのメール文面を展示。さらにWindowsという言葉を引用して制作された「窓」で構築した大きな立体作品が設置されていた。その窓には何と、古川清をリーダーとして、榎忠、松井憲作たちによって1970年に結成されたJAPAN KOBE ZEROが制作したという松の写真が印刷されていた。ちょっと奇妙でちょっと迫力がある。同じ年に起きたからといって、それらが震災と何の関係があるのか? 展示を見て、改めて、30年という月日に思いを馳せる。Windows 95はパソコンの一般普及のメルクマールだった。その後、世界はインターネットと接続してITの繁栄をもたらし、現在は生成AIが席巻しつつある。30年の間にいかに世の中が変わったかということが分かる。同時に、根本的なことは変わっていないということにも思いが及ぶ。静かにこの30年を考えさせてくれる展示だ。

イチローのサインボールが床に転がっている理由

1995年は、神戸市のプロ野球チーム「オリックスブルーウェーヴス」が優勝した年でもあった。当時在団していたイチローがサインをした野球ボールが床に転がっていた。本物だそうだ。「空間には、そのイチローのサインの波形から抽出したサウンドが舞台右奥に座するスピーカーから響き」というのは、作者の田村友一郎の説明だ。ただ聞いているだけでは、その音が何を意図しているかはわからないだろう。しかし必然性があるのだ。

やなぎみわの桃と能の関係

別の部屋に移動すると、たくさんの桃の写真がかけられていた。作者は、ヴェネツィア・ビエンナーレなどへの出展で知られる やなぎみわ だ。その隣の展示室では、やなぎ自身による創作能の映像展示。イザナギとイザナミにまつわる神話を題材とし、能役者が演じたものという。やなぎが演劇の世界に身を投じていたことは知っていたが、能の世界に入っていたとは!ちなみに桃は魔除けのようなものとして、神話の題材になっている。桃の木の写真と能の映像がリンクした。イザナミは炎で焼け死に、追って黄泉の世界を訪ねたイザナギにも災難が降りかかる。桃は両者の間で、極めて重要な役割を果たす。それにしても、その美しさに深く引き寄せられたのは、能の謡だ。オペラ歌手の声とはまた異なる種類の美声に酔いしれた。しかしその究極の美しさとは裏腹に、能は恐ろしい物語を紡ぎ出しているのだ。震災もまた、神話が描いたがごとき壮絶な出来事だった。人は悲しきできごとは忘れようとするだろう。そうしないと生きていけないからだ。しかし、美しいものには引き寄せられる。美と悲はないまぜになって、人々の心を揺り動かすのだ。

米田知子が今まで公開できなかった写真とは?

米田知子 の作品は、2つの部屋で展示されていた。一つの部屋には、米田にしては珍しい、阪神・淡路大震災の現場の写真が並んだ。実は、撮ったばかりの頃は、あまりにも生々しすぎて、自分の作品としては発表できなかったと聞いた。そもそも震災直後は、現場を撮影した報道等の映像や写真が日本中にあふれていた。その中で発表しても、埋もれる可能性は高かっただろう。しかしここで改めて当時の写真を見て、大きな意義を感じた。たとえばいくつもの靴底だけが並んだ写真があった。どんな理由で靴底だけが並んだかは不明だが、震災が起きなければ、こんな光景はありえなかっただろう。米田はいつも風景に刻まれた「記憶」を撮る。30年の時を経て見ると、震災が人の心に何をもたらしたかを分からしめる。その米田は、新作も別の部屋で発表した。神戸で生まれ、30歳を迎えた人々だ。当然、本人たちに震災の記憶はない。しかし、産み育てた親御さんたちは、大きな傷を心に抱えながら、子どもたちを育てたはずだ。中には、震災の語り部になった30歳もいた。それは自分の記憶ではなく土地の記憶を自らの心に刻み、語っているのだ。

屋外に設置された青木野枝の彫刻

同館4階の屋外の「風の通路」に設置された《Offering Hyogo》は、阪神・淡路大震災から30年を迎えるにあたって依頼された青木野枝の作品だ。小雪が舞っていたこの日は通路を吹き抜ける風がまた冷たく、寒風が吹き荒んだ30年前の神戸の記憶を蘇らせた。

画像
青木野枝《Offering Hyogo》2025年 公益財団法人伊藤文化財団寄贈 筆者撮影
画像

展覧会情報

展覧会名:阪神・淡路大震災30年 企画展「1995 ⇄ 2025 30年目のわたしたち」
会場名:兵庫県立美術館
会期:2024年12月21日[土]-2025年3月9日[日]
公式サイト:https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2412/index.html

※本記事は、ラクガキストつあおの絵愛ノートから転載したものです。

著者: (OGAWA Atsuo)

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩美術大学芸術学科教授。「芸術と経済」「音楽と美術」などの授業を担当。一般社団法人Music Dialogue理事。
日本経済新聞本紙、NIKKEI Financial、ONTOMO-mag、東洋経済、Tokyo Art Beatなど多くの媒体に記事を執筆。多摩美術大学で発行しているアート誌「Whooops!」の編集長を務めている。これまでの主な執筆記事は「パウル・クレー 色彩と線の交響楽」(日本経済新聞)、「絵になった音楽」(同)、「ヴァイオリンの神秘」(同)、「神坂雪佳の風流」(同)「画鬼、河鍋暁斎」(同)、「藤田嗣治の技法解明 乳白色の美生んだタルク」(同)、「名画に隠されたミステリー!尾形光琳の描いた風神雷神、屏風の裏でも飛んでいた!」(和楽web)など。著書に『美術の経済』(インプレス)