
本書は、年間800万人以上が訪れるという世界一の美術館、ルーヴル美術館の今風に言えば「ブランディング戦略」の100年を概観するものだ。100年というのが味噌で、ルーヴル美術館は、1793年、フランス革命によって成立した第一共和制政府が、王室コレクションを没収し、市民のために公開したのが始まりであり、200年以上の歴史を持つ。宮殿であった建物は市民に解放され、美術館としてコンバージョン(用途転換)されたというのが一般認識だ。
しかし実態は、17世紀から18世紀にかけて、ルーヴル宮殿では美術アカデミーや美術品陳列室があり、サロン(官展)が開催され、貴族や芸術家が集っていたし、王室のコレクションも彼らには公開されていた。その人たち目当てに中には骨董屋が軒を連ね、雨露をしのぐ貧民たちも集い「不名誉で侮辱的」と言われる始末だった。革命後も、王政・帝政、共和制の体制が目まぐるしく変わり、目玉となっていたのは、公衆にも公開されるようになったサロンである。
ようやく美術館として整えられたのが、第三共和政以後のことである。そこにおいて初めて年代順の展示や学芸員の配備と養成機関などが整えられていく。それまでコレクションの寄贈が急増し、100室を超える展示室は、個人コレクターのコレクションで埋められ、鑑賞空間としても7段掛けされるといった密集した状態だった。
しかし、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の開館やナショナルギャラリーの改修、ドイツの美術館の台頭を見て、1930年代、100年を経て近代の美術館に生まれ変わるのである。ここからが「ブランディング」の歴史の始まりである。ルーヴル美術館も、国籍別、時代別、編年別、白壁のホワイトキューブによる一列展示が実施され、近代的な照明が備えられた他、今も美術館のアイコンとなっている勝利の女神《サモトラケ島のニケ》がダリュー大階段上の白壁に1点のみ展示されるようになったのだ。
そして、共和国市民に開かれた美術館として、「脱神殿化」が行われ、もっともフランス美術が世界的に知られるようになった「近代美術室」が開設された。しかし、そこでは「サロン」や体制に反抗したマネや印象派の画家たちの「古典化」も行われている。これが著者の指摘する保守的な文化国家フランスの「ルーヴル・マジック」というわけだ。しかし戦後は前衛的でリベラルなものを重んじる風潮に反転したため、マネや印象派はルーヴルから切り離され、印象派美術館に移動した後、オルセー美術館に収まった。
戦後にルーヴルのブランディングを担ったのは、初の文化大臣、アンドレ・マルローである。ド・ゴール政権の掲げる、衰退したフランスを再び偉大にするために、マルローは文化とメディアを活用する。マルローは、ルーヴルを世界一の美術館にすることを目標にし、《モナリザ》を親善大使として、アメリカに巡回させ、ケネディ夫妻と対面させている。
それは1980年代のミッテラン大統領とジャック・ラング文化大臣の「グラン・ルーヴル」計画に継承された。そして、フランス革命200年を記念した都市再生計画「グラン・プロジェ」の一つとして、大反対の末、今や誰もが知るイオ・ミン・ぺイ設計のガラスのピラミッド型の入口や地下通路といった大改修を行ったのだ。結果的にそれは大成功し、政治家の記念撮影やオリンピック開会式、『ダヴィンチ・コード』を含めて、今日まで多くの映画や小説、漫画の舞台としてブランド・イメージを世界に拡散し続けている。
社会主義的な政権が打ち立てた「グラン・ルーヴル」は、今やグローバリズムの時代の象徴として、膨大な企業メセナや観光客を引き寄せている。また、ルーヴル・アブダビのような「ブランド貸し」も行うようになった。ルーヴルは、地球市民への開かれた美術館となったともいえるが、同時にフランス国家の文化戦略と産業政策に寄与させられているともいえる。
世界の勝ち組となったルーヴル美術館だが、理想的な鑑賞空間といえばほど遠い。ブランド化、メディア化の反動として、石油企業の寄付を受けることなどに対する抗議パフォーマンスも頻繁にニュースとなっている。本書は、マーケティングやビジネスの観点からルーヴル美術館の戦略を評価し、啓蒙しようという安易な本ではない。近現代の国際的な戦争や競争の歴史の中で、芸術や文化もまた一つの闘争の歴史であることを、ルーヴル美術館という「戦場」から明らかにしたものだといえよう。はたして「勝利の女神」は誰に微笑むのだろうか?