「死を食べる」 市原尚士評

【書名】「アニマルアイズ 動物の目で環境を見る2 死を食べる」
【作者】宮崎学
【出版社】偕成社
【刊行年】2002年3月

あなたにやんちゃな子どもがいるとしよう。言うことを全然聞いてくれないし、お店では「おもちゃを買って、買って」と泣きわめく。かわいくも、憎たらしい彼女or彼である。人として守るべきルールを教えたい。いや、本音をぶちまけるなら、自分の理想と信じる考え方やしつけに子どもを完全に従わせたい。そう思った時に、あなたならどのような手段を用いるのか、という難問を今回の文章のテーマに掲げてみたい。最初に断っておきますが、本稿には地獄とか死とか、あまり美しくない、縁起でもない話ばかりが登場するので、そのようなネタが嫌いな方は、どうかここで読むのはやめにしてください。

地獄でおびえさせろ!

以前、ある媒体のコラムで読者にオススメの一冊として『絵本 地獄』(風濤社)を紹介したことがある。千葉県のとあるお寺に伝わる地獄絵図を子ども向けの絵本として再編集したもので、ロングセラーとしてひそかに人気を集めている。針地獄や釜ゆで地獄などの恐ろしい様子を活写した絵本が人気の理由は、何と「子育てに非常に役立つから」だった。

では、どのように有益なのか? 恐ろしい地獄の絵本を見せれば、我が子が「扱いやすい良い子」になるのではないか。そんな予測が事前にあり、実際にページを開いて見せたところ、予想以上に怖がって、めでたく聞き分けの良い子になったというケースが相次いだというのだ。さらに漫画家の東村アキコさん(1975年生まれ)が自著で地獄絵本のすごい効き目を紹介したのも拍車をかけたよう。

東村さんは、『絵本 地獄』のすごさにほれ込み、絵本の帯に自分と愛息の漫画を描き込み、そこにこんなセリフを載せまでした。「うちの子はこの本のおかげで悪さをしなくなりました」。この推薦文(漫画)の効果は抜群で、ますます絵本は売れましたとさ、めでたし、めでたし――と相成った次第です。

地獄なんてどうせウソなのだから……

結果として、私は地獄絵本を礼賛するコラムを書いた。だが、書く前に子育て経験を持つ周囲の何人かに意見を聞いてみた。「恐ろしい地獄の光景をしつけに利用するのは是か非か」と。内心、後ろめたい感情があったから。「地獄」が非科学的だから、そんなものを子育てに利用するのが不適切と思ったからではない。そうではなくて、おそらく自分自身が地獄を信じてもいないのに、我が子にさも地獄が実在しているかのように語り、あまつさえ脅しをかけることの欺まんを問題視していたのだ。

ところが、本当に驚いた。教養も社会的な地位も兼ね備えた、信頼できる知人たち全員が「しつけにおける地獄活用」に賛意を示したのだ。彼女、彼はこんな風に笑顔で語ってくれた。「子どもも年を取れば、地獄がウソだって分かるはず。小さい時に絵や物語に衝撃を受けてトラウマになったとしてもいずれ癒やされる恐怖だから、しつけに利用されても問題はない」。

「地獄で脅して良い子に育てる」作戦は違和感をそれほど持たれていない。そう体感した私は、この絵本のすごさをアピールする文章の掲載に踏み切った。しかし、掲載した後も、ずっと自問を繰り返していた。「果たして、地獄絵本を礼賛して良かったのか、どうか」と。

絵本と映画を分かつものは何?

地獄絵本を礼賛する大人だって、「スプラッター」と呼ばれる一群の映画のことは断固として拒絶するはずだ。正体の知れない悪者が、美しく若い女性に襲いかかり、血まみれにしてしまう、あの手の映画には眉をひそめるだろう。でも、地獄絵本だって映画同様、人々が血まみれなのは同じ。

ただ、絵本の方は強烈な描写の最後に「いのちをそまつにするなよ」という文字が大きく書かれているのが明確に異なる。もし、映画で同じ事をやったらどうなるか。さんざん残酷な描写を繰り返し見せておいて、最後、スクリーンいっぱいに「命を粗末にするなよ」と書いてあったら、これはもうパロディーだ。

スプラッター映画だと、「低俗だ」「子どもの心に有害極まりない」と怒りを隠さない良識ある大人が、強烈な描写が相次ぐ絵本のことは容認する。いや、容認どころか、教育的な効果さえあると語る。そのギャップにはどうしても大きな悩みを抱えざるを得ない。

二枚舌が通用しない死体の世界

同じような残虐描写が、時にしつけに用いられ、時に教育上よろしくないと排斥される。そんな二通りの解釈を許している点に私は矛盾を感じた。そして、地獄を礼賛していいものかどうか迷った心理の根底にはこのような二枚舌への嫌悪感が潜んでいた。

ならば、ここで写真家・宮崎学さん(1949年生まれ)が手がけた生き物の死体が登場する写真絵本『死を食べる』を思い切って推薦したい。しかし、この絵本は強烈な毒をはらんでいる。内容はひたすら死、死、死だ。

車にはねられたキツネが横たわる。死んで、腐って大量のウジがわき、そのウジを食べるためにハクビシンがやってくる。事故死から2か月後、毛皮と白い骨だけが野ざらしになった。このほかに、昆虫のヤブキリ、アマガエル、ゴイサギといった様々な生き物の死とその後どのような経過を経て、地上から徐々に姿を消していくかが豊富な写真で明らかにされていく。

宮崎さんは「死」の重要性をこう訴える。「死ぬと、その死はだれかに食べられる。死を食べて、ほかの生きものがいのちをつなぐ」。そして、人間たちが毎日のように食べる魚や牛や豚やニワトリの肉だって動物の死骸であることを忘れてはいけないと述べた後、いよいよ感動的な結論部分へと至る。そこにはこう書いてある。同書34ページから。

もしかしたら、死ぬことも、死を食べることも、いのちとおなじくらい、たいせつなことなんじゃないだろうか。だから、ぼくは、いっしょうけんめい死を食べて、いっしょうけんめい生きたいと思う。きみは、どう思うだろうか。

宮崎さんが、死体を作品にするきっかけになったのは、日本各地の寺にある「九相図」だった。人間の死体がどのように変化していくかを描いた紙芝居のようなものである。それこそ、地獄絵と同じくらい多くの場所に残っている絵だ。仏教思想を根底にしている点で、両者は親戚のようなものだ。人間の生涯の「無常」を訴えている点において共通しているから。

ところが、地獄の方は、教育に役立つ「善」とされ、「死体」の方は目を背けたくなる、縁起でもない「悪」と見なされているのだ。そう、死体の方はスプラッター映画と同じ扱いといっていい。

実際、死をテーマにしたその名もズバリの写真集『死』(平凡社)といった一連の仕事を通して、あまりにも“忌まわしいテーマ”を取り上げ続ける宮崎さんから多くの知人や友人が離れていったというから笑えない。

怖いけど、子どもの教育にも活用できてしまうと大人が考える地獄は、つまり二枚舌だ。善悪のどちらにでも変身できるヌエだ。しかし、死体はどこまで見続けても死体そのもので、直視したくない悪ということだ。本当は、その死を食べることで生命を維持しているのにもかかわらず。

死の意味は子ども自身が見つける

私は、子どもにとって大切なのは、地獄よりも死体だと思う。例え良かれと信じていたとしても、親が子どもを脅して、そこから教育的効果を引き出そうとするのはいささか趣味が悪い。ところが、死体の潔さはどうだ。死体はどこまで行っても死体だ。そして時間がたてば朽ち果てる。

大人は忌み嫌うが、子どもはその魅力を実は知っている。昆虫や動物の死骸を見れば、じっと見つめ、時に宝物のように隠し、どのように腐っていくかを冷徹に観察している。幼時、セミやらカラスやらの死骸から真理の啓示を受けとった者が多くいたであろうことを私は確信している。皆さん、そんな大切な思い出を記憶の奥底に眠らせてしまっているようだけど。もう、そんなことはなかったみたいな顔をしているけれど。でも、間違いなく生き物の死骸は、子どもにとっては宝物だったのだ。

地獄の恐怖は、親から押しつけられるもの。死骸の深い意味は、子どもが自分自身で見つけるもの。どちらが上等か、答えは言うまでもないだろう。

何で、死骸で満載の写真絵本なんて作るのかと疑問に思う方も多かろう。しかし、私は宮崎さんの仕事がきわめて教育的であると信じている。先ほど、私は「死骸から啓示」と述べた。その記述の具体的な理由というか根拠を教えてくれる絵本の中のステキな言葉を紹介しよう。同書4ページから。

死んでしまった動物たちは、ぼくが近づいても逃げていかない。だから、ぼくは、死がいのすぐそばまでいって、じっくり観察することにしている。生きているあいだは、用心深く、ぼくたちに見つからないようにくらしている動物たちのすがたを、近くで、しっかりと見ておきたいからだ

死と生の両方をひっくるめた「生命の世界」を凝視し、その意味合いを洞察するために死骸の観察は必要不可欠な行為ということなのだろう。そして、子どもは直観的にそのことを知っているのだ。

死は厳粛であり、利・活用できない

宮崎さんの写真絵本に載っているのは、人間以外の生き物である。しかし、人間の死骸が朽ち果てていく姿を容易に想像できる作りになっている。キツネのそれを自分自身の死骸に置き換えた時、ウジがわき、ほかの生き物に食べられる姿が目に浮かぶ。

そして、そこには例えば「名誉の死」なんて格好つけた概念や美名は、そもそも入り込みようもないなということがはっきりしてくる。死体は死体、ただそれだけだ。本当は、人間も人間の死体をじっくりと見なければならない。朽ち果てていく過程をじっくりと見なければいけない。そうすれば、生の意味もおのずと浮かびあがるであろう。

地獄絵本よりも死の絵本を! それが私の考える教育論。(2026年3月19日21時36分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。