「のらいぬ」 市原尚士評

書名】「のらいぬ」

作者】絵・谷内こうた/文・蔵冨千鶴子

出版社】至光社

刊行年】1973年6月1日

記憶の中の風景は、現実にあったものなのか、それとも夢だったのか、往々にして区別がつかなくなるものである。人との出会いもまた同じ。費やした言葉、身体的な数々の交渉というものも輪郭が徐々に崩れて、最後には溶けていく。つまり、たった今、ここに生きている自分だけがようやく確かな感じがして、昨日の自分、一週間前の自分となるともういけない。「そんな私なんていましたっけ」と思い始めている始末だ。この現在と過去との境界線が曖昧であるという事実こそが小説、絵画、映画、演劇といったすべての表現行為を豊か足らしめるための秘密だ。

個別の名を持たぬ描写の魅力

空間、時間、登場するキャラクターのすべてが曖昧模糊としている。それ故に魅力も最大限に発散している絵本、それが「のらいぬ」である。

「のらいぬ」表紙

まずは絵本内の「空間」から見ていこう。広大な砂浜が広がり、その向こうには海。海の上には入道雲。入道雲の下には、白くて立派な灯台が立つ。ただ、それだけの空間。

入道雲が出ていることからも分かるように、季節は夏だろう。登場するのは、一匹の野良犬と少年(少女?)。野良犬は黒一色に塗りつぶされている。これを見て黒い犬なのだろうと考えたら間違いになる。チワワ、柴犬、ドーベルマンなどなど個別具体の品種をイメージさせては読み手の想像力の邪魔になるから、あくまでも「犬と言う概念」の依り代として黒一色で表現していることは間違いない。

少年だってそうだ。真っ白なランニングシャツに半ズボン、そして大きめの帽子だけを身に着け、顔も1場面だけを除き、すべて帽子に隠されていたりして、その表情はうかがえない。つまり氏名や性別や国籍を持った存在としてではなく、小さな人の象徴として描かれているのだ。

犬と少年の影が小さく、彼らの真下に黒く淀んでいることからも分かるように、太陽は今、頭の真上の位置から直射している。つまり、夏の一日の中でも一番熱い時間帯だ。と、取りあえずは各種の設定を解説してみたが、これは全部当たっていない恐れがある。なぜか? それは物語を追っていけば自然と分かるはずだ。

永遠の友を求める野良犬一匹

野良犬が砂浜を歩くシーンから物語は始まる。砂山の向こうに横たわっている一人の少年を見つけて犬は近寄る。長いこと、探し求めていたのだろう。少年のことを「ともだち」と呼び、その横で寝そべる犬。やがて起き上がった両者が海辺を駆けていくと大きな灯台に遭遇する。

ほどなくして少年が灯台から飛び降りる。いや、飛び降りるというよりも飛翔する。灯台のてっぺんとほぼ同じ高さで真横に移動しているから、落ちてはいない。一方の犬の方は少年の後を追うようにして飛び降りる。こちらは飛んではいない。ちゃんと真下に落下している。

どこかに追突する姿が描写されるかと思いきや、飛び降りた場面の次は、一面の砂浜の上に横たわる犬の姿が登場する。少年は飛んだきり二度と現れない。

ここまで来て、読者は悟る。少年と出会い、灯台から飛び降りるまでの成り行き全部が、居眠りしていた野良犬の見た白昼夢だったのだ、と。

墜落し、地上とぶつかる寸前で目が覚めたと思われる犬が横たわる。頭を心もち上げながら。「なんだ、夢だったのか」とでも心の中でつぶやいていることだろう。その場面に付けられた言葉が「あついひ すなやまに みつけた ともだち」だ。

続くページが最後のシーンになるのだが、冒頭と同じく砂浜を歩く野良犬の姿に「いつか きっと あえる」という言葉が重なって物語は終わる。

音楽を感じさせる登場者の動き

絵に付けられた言葉は全部、平仮名で65文字しかない。句読点も一切ない。きわめてシンプルな絵本と言えるが、丁寧に見ていくとなかなか滋味豊かで驚かされる。

まずは、犬の動線が面白い。絵の中の犬の移動の仕方を見ると明確な規則性、いや規則性と言うか「音楽」が感じられる。この絵本は、洋書と同じく文字は横組みで物語も左から右方向に進行していく作りになっている。犬は、ページの進行方向と同じく、まずは右方向へ進む。ところが、次のページで左側、つまり通り過ぎてしまった砂浜の向こうに少年を見つけ、やや引き返すようにして歩く。少年のもとにたどりついた犬はそこで寄り添うようにして寝そべる。

小休止の後、両者はそろって右方向へと進む。灯台を見つけた犬と少年は、上方へと登り、しばらく海や空を眺めてのその頂から左の方向へと飛ぶ。ここでも、いったん右に進んで、左に戻るという運動が繰り返されているのだ。もちろん灯台でも小休止を挟みながら。

この動線を巨視的にまとめて俯瞰するとこうなる。左から右へ、右から左へ。場面が変わりまた左から右へ、右から左へというジグザグ運動を繰り返しながら物語が進んでいるということだ。ジグで小休止、ザグで小休止、再びジグへと進む音楽を想起させる展開と言えようか。ダンスのコレオグラファーさながらに、絵本が振付師となって、登場人物に優雅なワルツを踊らせているかのようにも見える。

さて、ここまでの流れで行くと最後の「いつか きっと あえる」の犬は右方向へ向かっていなければならないのに本作では左の方を向いている。なぜだろうか。絵本をじっと見つめていて、その答えが見えてきた。絵本の最後のページの右端と最初のページの左端をくっつけて欲しい。つまり本の上側と下側を背の方向に思い切り開いた状態だ。そこからさらに最後のページを最初のページとが重なるまで引っ張った状態を想像してみるのだ。するとどうだ。最終ページの左を向いた野良犬は、いつしか最初のページで右側に向かって歩いているではないか。

友達を探し求める孤独な野良犬の旅は永遠に続くことになる。終わりと始まりと、2つのページが重なり、溶け合い、終わりのない円環状の絵本へと変身することによって。だ。読み手は自身の来し方行く末を絵本の展開と重ね合わせ、絵本には書いていない自分だけの風景を思い浮かべることだろう。「見つけたぞ」と喜んでは、それが、ただの「覚めてしまう夢」だったと分かる、そんなことの繰り返しがすべての存在のたどる運命なのかもしれない。

文明の象徴から飛び降りる

興味深いのは、犬の動き方だけではない。本作で一番、大きくて立派に描かれている灯台にも注目しなければならない。灯台のある場所に欠かせない要素は、空と海と大地と岬があることだろう。必ず陸地の端っこにあるということは、言い換えれば人里離れた岬の突端か絶海の孤島にあるはず。

ところが、この灯台はその両者のどちらでもない。クリーム色の台形状の土台の上に建てられている。灯台の背景に描かれているはずの空と海もその境目がはっきりしないせいで、全体が大きな空のように見える。クリーム色の土台にはあまり厚みが感じられないから、極めて高度で酸素の濃度も薄い空中に飛び込み用の薄い板が伸びていて、その先っぽに灯台が立っているようにも見える。言い換えると、灯台は宇宙空間にでも達するばかりの高さで上方に背伸びしているようにも見える。

そして、灯台が本作の中で唯一、文明を象徴する存在である点にも注目したい。海も空も砂浜もすべて自然空間である。それらの中にあって、人類が自然をコントロールしようとして作る灯台が置かれている。そして物語の中で、野良犬と「夢の少年」は文明を放棄するかのようにそこから飛び降りてしまうのだ。文明秩序を表す灯台と広大な自然空間との対比の中で、自然環境を選び取ったということか。

野良犬と少年には、小さいながらも影はあったが、灯台には影なんて見当たらない。それが余計に非現実的な光景であるように確信させる。そして、私は、ニューヨーク近代美術館にある1枚の絵のことも思い出す。イタリアの「形而上学的絵画」の創始者、ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978年)の油彩画「無限の郷愁」(1911年頃)が、それだ。

時代も場所も判然としないキャンバスの上には灯台が描かれていて、タイトルの通り、「無限」とか「永遠なるもの」を思い起こさせるような作品だ。そう、谷内の描くところの灯台も、キリコの絵と同様に、永遠性を感じさせる。

文明を象徴する灯台が、同時に永遠なるもののイメージを兼ね備えることができるのだろうか。文明の作り出すものはすべて有限ではなかったのか。いずれ、朽ち果てて姿を失うのが文明の産物ではなかったのか。そんな疑問もわいてくる。だが、すべてが野良犬の見た夢の中の光景だったのだから、灯台が文明(かりそめ)と自然(永遠)の両義性をあいまいに示す存在であったとしても、すんなりと了解できてしまうのである。

時に矛盾するかもしれない視点が混在しながら、全体としては見事に統一感が取れている。つまり、飛躍があるのに自然に映るというのは、その作品がただの情報を伝達するだけのものか、それとも芸術の域に達しているかを分かつ、大きな判定基準となりうる。そして谷内の好ましい矛盾に満ちた絵本「のらいぬ」は、疑いようもなく芸術作品と言えるだろう。

野良犬の旅は永遠に終わらない。だから、ページをめくるあなたの旅も終わらない。何度でも何度でも絵本の中に旅をしたくなる。そんな感情を百年後、千年後の読者も覚えるだろう。(2026年3月18日20時59分脱稿)

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。