展評「近藤高弘 消滅から再生へ(前編)」東京画廊 秋丸知貴評

近藤高弘《破-7-2024》2024年

 

「近藤高弘 消滅から再生へ」

前期:11月22日(金)-12月7日(土)
後期:12月11日(水)-12月28日(土)
開廊時間:火–土 12:00–18:00
休廊日:日・月・祝
会場:東京画廊
(東京都中央区銀座8-10-5 第4秀和ビル7階)

 

2024年11月22日から12月28日にかけて、前期・後期の二期に分けて、東京銀座の東京画廊で、造形作家近藤高弘の個展「近藤高弘 消滅から再生へ」が開催されている。

東京画廊での近藤の展覧会は、これで4回目に当たる。本展は、特に2回目の作曲家一柳慧(1933-2022)との2人展「一柳慧・近藤高弘 消滅」(2018年5月12日–6月23日)の続編的意味合いを持つ。この2人展では、音楽が「沈黙から演奏を経て沈黙に帰す」のと同様に、彫刻も「無から造形を経て無に帰す」ことを「消滅」というテーマで表現していた。これを受けて、本展では前期で再びこの「消滅」に焦点を当て、後期で新たに「再生」を追求するものである。

近藤高弘は、1958年京都府京都市生まれ。私見では、現代日本美術の最前線に立つ重要な作家の一人である。その仕事の要点は、西洋と日本の境界で生じる諸問題、より具体的に言えば、現代美術と陶芸の関係性の探究にある。

「現代美術と陶芸の関係性の探究」と言えば、すぐに2017年に村上隆のキュレーションによりKaikai Kiki Galleryで行われた「陶芸↔現代美術の関係性ってどうなってんだろう? 現代美術の系譜に陶芸の文脈も入れ込んで」展が思い出される。そもそも、日本では無数の作家がこの問題に取り組んでいるだろう。むしろ、美術家も工芸家も合わせた造形作家全体で見れば全く意識していない方が少数派かもしれない。しかし、その中でも近藤の存在が突出しているのは、造形作家としての資質が豊かで優れていることはもちろん、その出自が非常に特殊だからである。

近藤は、京都市立芸術大学学長を務めた人間国宝(染付)の近藤悠三(1902-1985)を祖父に持つ、三代にわたる陶芸家一家に生まれた。生まれ育った京都市東山区清水は、よく知られているように京都を代表する陶芸「清水焼」の一大生産地である。

高祖父には、幕末の尊王攘夷派の志士である近藤正慎(1816-1858)がいる。正慎は清水寺の寺侍で、兄弟僧であった月照と西郷隆盛が安政の大獄から逃れるのを助けるために自害した烈士である。

近藤自身は、学生時代は卓球選手として活躍し、インターハイ男子シングルス、関東学生卓球選手権大会男子シングルス、全日本学生卓球選手権大会男子ダブルスでチャンピオンになり、国際大会の日本代表にも複数回選出されている。社会人選手としても活躍していたが、25歳のときに芸術の意義に目覚めて陶芸の道に入り、現在ファイン・アーティストとして国内外の展覧会で精力的に活動している。

ある意味で、近藤は生まれながらにして現代美術と陶芸の関係性の問題に取り組むべく5代にわたり宿命付けられていたのかもしれない。

つまり、周知のように、日本は幕末以来、西洋列強による植民地化を防ぐために西洋的近代化を国是として明治維新を成し遂げた。文化面では、西洋から純粋鑑賞芸術としてのファイン・アートを至上とする価値体系を輸入し、「美術」として翻訳した。それにより、本来日本では価値体系において上位にあった「工芸」は美術から除外されると共に下位に位置付けられることになった。また、江戸文化を脱色してできるだけ白紙の状態で西洋文化を志向した東京に対し、京都は千年以上の日本の文化的伝統に根差しつつ革新を求める風土である。それらを背景として、現在近藤は舞台をスポーツからアートに移して世界戦を継続しているのである。

 

会場風景

 

40年以上続く近藤の仕事は、極めて多岐にわたり奥深い。本稿では、まず本展の前期の内容だけに絞って論じよう。

それでは、本展でまず注目すべき点はどこだろうか。一見して分かるように、本展では会場全体に割れた白磁の器が並べられている。ぼんやり見れば、これはよくあるありきたりなセンセーショナリズムに過ぎない。それなら、ただ単に物が壊れた様が面白いというだけである。だが、当然ここにはそれを超える練り込まれた含意がある。

器は、飲食のための道具である。それゆえに実用芸術、つまり工芸である。日本人の感受性では、器の「用の美」は美しいが、カントに言わせればそれは純粋な美ではない。基本的に、西洋では工芸はあくまでも美術ではないのである。なぜならば、美術は生活上の機能連関とは切り離された純粋な鑑賞の対象でなければならないからである。

だからこそ、近藤は割れた器を提示する。機能性を失った器は、純粋な鑑賞の対象にならざるをえない。そこでは、いつのまにか工芸が美術に転じている。これらは、オブジェとしての美術作品なのである。

ここには、東京画廊所属アーティストとしては近藤の先輩に当たる、高松次郎が1971年に制作した《複合体(脚立とレンガ)》の確かな残響がある。すなわち、レンガに一脚を載せ傾いて安定を失った脚立は、実用性も失ってただのオブジェ、つまり美術作品にならざるをえない。

さらに、これらの白磁の器が暗示する遠い淵源は、マルセル・デュシャンが1917年に発表した《泉》だろう。言うまでもなく、ここでは、デュシャンが白い便器でもサインをして展覧会に出品すればファイン・アートになることを例示した現代美術の文脈がしっかりと踏まえられているのである。

さらに注目すべきは、近藤はここでただ主体的に器を壊しているのではなく、器が自ずから壊れた様を作品化していることである。ここでは、土と水と火の相互作用により、器はそれぞれ自然にたわみ、ひしゃげ、ひび割れ、崩壊している。その暗示する先は、消滅である。その一方で、ここには造形上の「無作為の作為」というべき明確なコンセプトがある。だからこそ、これらの割れた器は明示的な美術作品なのである。

これは、西洋由来の美術の枠内で、つまり西洋と同じフォーマットあるいはプラットフォームで、西洋では基本的に重視されない土や水や火という自然の性質と協働する日本の伝統的な造形感覚を表象しているところが極めて意義深い。さらに、ここには、器が形作られた後に崩れ落ちる過程、すなわち無から有となり再び無へ帰ろうとする時間性も可視化されている。そうした時間性も、人間が意図的にコントロールできない大自然の一つの象徴といえる。ある意味で、これらは、人間が主体的に自然を全て操作管理できるという近代西洋文明に対し、大自然信仰を旨とする東アジアからの一つの疑義の表明として受け止めることもできるように思われる。

西洋由来の美術において、日本の伝統的な工芸的感受性をどのように生かすことができるか。より正確に言えば、そこに日本の風土に長年培われた伝統的な自然観に基づく美意識をどのように反映させることができるか。明治維新以来、日本では実に150年以上取り組み続けられてきたその試みの地に足の着いた最新形の一つがここにある。まず、この点に本展の見どころを指摘することができるだろう。

(写真は全て東京画廊提供)

 

近藤高弘公式ウェブサイト
http://www.kondo-kyoto.com/

 

(以下、近日公開予定の「後編」に続く。)

著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。

2010年4月-2012年3月: 京都大学こころの未来研究センター連携研究員
2011年4月-2013年3月: 京都大学地域研究統合情報センター共同研究員
2011年4月-2016年3月: 京都大学こころの未来研究センター共同研究員
2016年4月-: 滋賀医科大学非常勤講師
2017年4月-2024年3月: 上智大学グリーフケア研究所非常勤講師
2020年4月-2023年3月: 上智大学グリーフケア研究所特別研究員
2021年4月-2024年3月: 京都ノートルダム女子大学非常勤講師
2022年4月-: 京都芸術大学非常勤講師

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における形式主義と神秘主義
第5章 自然的環境から近代技術的環境へ
第6章 抽象絵画における機械主義
第7章 スーパーフラットとヤオヨロイズム

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ Tomoki Akimaru Cézanne and the Railway
Cézanne and the Railway (1): A Transformation of Visual Perception in the 19th Century
Cézanne and the Railway (2): The Earliest Railway Painting Among the French Impressionists
Cézanne and the Railway (3): His Railway Subjects in Aix-en-Provence

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――観念性から実在性へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

■ 秋丸知貴『藤井湧泉論――知られざる現代京都の超絶水墨画家』
第1章 藤井湧泉(黄稚)――中国と日本の美的昇華
第2章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(前編)
第3章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(中編)
第4章 藤井湧泉と伊藤若冲――京都・相国寺で花開いた中国と日本の美意識(後編)
第5章 藤井湧泉と京都の禅宗寺院――一休寺・相国寺・金閣寺・林光院・高台寺・圓徳院
第6章 藤井湧泉の《妖女赤夜行進図》――京都・高台寺で咲き誇る新時代の百鬼夜行図
第7章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(前編)
第8章 藤井湧泉の《雲龍嘯虎襖絵》――兵庫・大蔵院に鳴り響く新時代の龍虎図(後編)
第9章 藤井湧泉展――龍花春早・猫虎懶眠
第10章 藤井湧泉展――水墨雲龍・極彩猫虎
第11章 藤井湧泉展――龍虎花卉多吉祥
第12章 藤井湧泉展――ネコトラとアンパラレル・ワールド

■ 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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