「美術評論のこれまでとこれから」水野勝仁

質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。

「これまでの美術評論でもっとも印象的なもの」と聞かれて,すぐに頭に思い浮かんだのは「画鋲を抜いてみて剥がれたらそれは写真なのだ。」だった.最初は,もう少しメディアアート寄りにしようかなとも思っていて,別のものもある気がするけど,それは美術評論とは言えないとも言えるので,それは質問2で書くとして,私はこのフレーズがずっと印象に残っているし,このような一文を書きたいとずっと思っている.だから,これが一番印象的的な美術評論とした.

「画鋲を抜いてみて剥がれたらそれは写真なのだ。」は,今話題の『非美学』,芸術と哲学との馴れ合いではない関係が書かれていて早く読みたいと思いつつまだ読めていない,の著者・福尾匠が美術手帖に書いた迫鉄平「FLIM」展のレビューのタイトルであり,本文にも「おいしかったらそれはチャーハンなのだ」という一文の前に出てくるフレーズである.このレビューは短いけれど,私の〈視界〉を占めるあらゆる「面」をめぐる認知の話であり,「写真である」ということをめぐる「それが面であったことの発覚」という出来事についての話が詰まっている.そして,何よりもこのレビューを読むと,迫鉄平「FLIM」展を見逃したことがとても悔しくなるし,作品をどうしても見たくなる点が,このテキストの一番いいところである.

読んだら,その作品を隅々まで見たくなる.これが美術評論の最も重要な役割であるということを思わせてくれる点も,福尾匠の「画鋲を抜いてみて剥がれたらそれは写真なのだ。」は,私に影響を与えている美術評論である.

https://bijutsutecho.com/magazine/review/16887

 

質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。

これからの美術評論は,ヒトの認知を扱うものが多くなっていくのではないかと思います.特に,メディアアートと呼ばれるものは,コンピュータを使うことで,ヒトの認知プロセスにアクセスしてきている気がしています.私はコンピュータはヒトの意識の外側だけれど,身体で起こっている情報処理領域である非意識にアクセスしていて,メディアアートはこの非意識を意識に上げる表現ができるのではないかと考えていて,美術評論はそれを文字列として記述することが求められていると思っているし,自分がやりたいことはそれです.

私は東京都写真美術館で開催されたエキソニモの個展「UN-DEAD-LINK展」で,もともとあったインタラクションを削除して,作品を展示したことを「「認知者」としての作品」という論文で論じました.その最後に次のように書きました.

「なんかピンときた」や「ものすごくグッとくる感じ」という明確に言葉にできない「非意識的認知」のレイヤーで絡み合っているヒトと作品とのリンクをどうにかして言葉で捉えていく試みとなるだろう。
『映像学』第107号,p. 37

私がやりたいことであり,これからの美術評論の一つのあり方は,作品を見たときに感じる「なんかピンときた」や「ものすごくグッとくる感じ」を科学の知見を活かしながら,テクノロジーによって変化する環境におけるヒトの感覚の変化を鑑みながら,作品体験そのものや体験から生じる質感を記述し続けていくことだと思います.それは,作品を考えるときに美術史に頼るのでもなく,社会状況の反映としてみるのもなく,作品自体の体験と質感を主観的に捉え,記述していくことになるでしょう.

 

 

著者: (MIZUNO Masanori)

1977年生まれ。メディアアート/インターフェイス研究者。甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授 。主なテキストに物性からアートを論じた「サーフェイスから透かし見る??????」、ディスプレイをモノのように扱った作品を集中的に論じた「モノとディスプレイとの重なり」(MASSAGE MAGAZINE )、インターフェイスの歴史に振り返りつつ、コンピュータを介したヒトの認識を探っていく「インターフェイスを読む 」(?KRITS)など。インターフェイス体験と作品体験をもとに、アートと哲学と科学とのあいだで、ヒトの認識・意識について、言語でうねうねと考えている。