質問1これまでの美術評論でもっとも印象的なものについてお答えください。
評論の新たな可能性を考える契機となったものとして、磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」(『批評空間』1992【臨時増刊号】「建築をめぐる思考と討議の場」福武書店、1992)を挙げたい。1991年5月にロサンゼルスで開催された「Anyone会議」で磯崎と浅田が行ったプレゼンテーションの記録である。とはいえこれを既存の「美術評論」の枠に収めることは難しい。
ます形式的な側面である。建築家である磯崎と浅田が交互に口頭で述べるもので(原稿があったのでとは推察するが)、後にテキストとして収録されている。つまり(おそらくテキストから)発話へ、後日テキストとして収録という経緯を辿っている。加えて現場では、プレゼンテーション後に討議がなされ(磯崎、浅田、ジャック・デリダ、マーク・C・テイラー、モデレーター:ジェフリー・キプニス)、本にはその記録も収められている。つまり対話による批評の往還後、それに対する批評が行われている。二つめは内容的側面で、美術ではなく建築が扱われている。
しかし前者は、「評論」をテキストのみならず他の方法との接続においてとらえ、動的に展開していくプロセスへもたらすことといえないか。そして後者は、「美術」という枠では捉えにくいものの、創造主「デミウルゴス」について語られる意味で広義の「創造」についての思考(芸術も含む)に関わるものといえないか。
「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」は、磯崎自身が「デミウルゴス」であるというまなざしから、浅田からの磯崎に対する批評であるとともに、磯崎が自らに向けた批評となっている。創造する側の自己批評とそれに対する批評的創造の往還は、批評のあり方を批評的に更新するインタラクティブな挑戦といえる。磯崎と浅田が検討した「デミウルゴス」や「コーラ」「間」、討議で提起された「クリナメン」や翻訳などの問題は、私にとって現在に至るまで重要な問題系としてある。それは当時自らの書くものを「評論」と名づけも認識もしていなかった私に、批評や評論を自らの方法で探求し実践していく可能性を与えてくれた。
「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」。それは「デミウルゴス」を召喚する可能性として、またそれ自体が「デミウルゴス」でもありうるものとして人々に向け投企された。21世紀の現在、社会もメディアも美術の状況も大きく変化したが、私にとってこのテキストは批評そして美術評論の可能性を検討し続ける原動力となっている。
質問2これからの美術評論はどのようなものになりうるかをお答えください。
1. SNSの普及によって誰でも評論を発信することが可能になり、映像、音声などテキスト以外の方法も生まれている。評論やキュレーションを行うアーティストも増えている。既存の境界がぶれ、フレキシブルに複数の方法やフォーメーションをとりうるデジタルを基盤とした新たな生態系の中で、美術についての言説が広がるとともに、評論家のもつ知見や責任がより重要になるだろう。
2. さまざまな人々が批評的なまなざしをもち美術に接し意見を交わすこと、多様な価値観を尊重すること。それは日常を創造的に生きることでもある。美術評論は、そのような世界をめざしてますます切磋琢磨していく必要がある。
3. 生成AIに代表される近年の科学・技術を反映した作品は、美術において人間と技術、そして創造性のあり方が新たなフェーズに入ったことを示している。このことを看過せずに検討しつづけることも美術評論のミッションである。