畑祥雄「奇跡の森 EXPO’70」
会期:2024年10月5日~11月2日
会場:The Third Gallery Aya
畑祥雄の写真展「奇跡の森 EXPO’70」が、The Third Gallery Ayで開催されている。会期前に少し紹介しようと思っていたが、すでに会期は明日までなので急いで筆をとる。
「奇跡の森 EXPO’70」と題されたこの展覧会がどのようなものか詳細に記述するには時間が足らないので簡単に説明したい。来年開催される2025大阪・関西万博のことではもちろんない。1970年にアジアで最初に開催された万国博覧会、通称大阪万博の跡地に出来た万博記念公園の森を撮影したものだ。関西に在住している人間ならもちろん万博記念公園は知っているだろうし、一度は訪れたことはあるかもしれない。関西以外でも2000年以降は特に岡本太郎の再評価に伴い認知が広がり、その象徴でもある「太陽の塔」が人気であるし、2018年には再生された塔内に入るために来た人もいるだろう。一方でその西側一帯に広がる森に分け入った人は多くはないだろう。
そもそもなぜ森なのか? 未来都市のモデルとしてつくられた大阪万博の開催期間はわずか半年程度。2025年の万博もそうであるが、基本的には仮設建築であり、耐久性はそこまで想定されていない。だから閉幕後は一部の例外を除いて解体することに規約で決まっている。「太陽の塔」ももちろん解体する予定だったが、保存運動によって残ることになった。そして、当時の設計者や竹中工務店のような施工会社の心意気で、10年は持つようにつくられていたということもあって残ったのだ。
しかし、跡地計画は最初から決められていたわけでなく、閉幕後に有識者の会議によって、「緑に包まれた公園」とすることになった。この「緑」というのは比喩的な意味も込められているのだが、大阪万博で散々アピールした先端技術も、その「緑」に集約することにし、大阪万博の基本計画案を策定した丹下健三の副都心案を退けて、都市公園とすることになったのだった。それを発案し、取りまとめたのが高山英華で、丹下健三の先輩にあたり、戦災復興都市計画をはじめとした戦後の日本の都市計画を牽引した人物で、東京大学の都市工学科を創設した教授でもある。しかし、戦前には同じくマルクスの影響を強く受けた西山卯三らと青年建築家クラブをつくるなど、思想的にも丹下とは真逆であったかもしれない。西山卯三は、戦後も社会主義的な思想が強く、そのこともあってか、万博の基本計画は初期は西山卯三や上田篤らが担当したが、その後、丹下健三と磯崎新らに交代した形になった。
閉幕後の跡地計画については、丹下健三との思想的対立と、高山英華が当時、四日市ぜんそくの公害対策を立案していたこともあって、大阪万博の跡地も副都心として使用するのではなく、都市公園とすることを強く推し進めたのだった。ちなみに、大阪万博の当時の主な技術的テーマは、原子力発電、宇宙開発、コンピューターであり、公害をテーマにしたものはスカンジナビア館のみであった。その意味では、高山は先見の明があるといえるし、技術楽観主義的な大阪万博の成功をやや冷ややかにみていたかもしれない。ちなみに、生命科学をテーマにしたパビリオンもほとんどなく、「太陽の塔」を含むテーマ館がほとんど唯一、生命や生命科学を扱っており、その意味では岡本太郎も極めて先見の明があったといえる。
そして、跡地計画は丹下の基本計画、つまり南北にシンボルゾーンをつくり、そこから枝が生えるように幹線を延ばし、パビリオンを華のようにする、といったもののほとんどすべてといっていいくらい消去するものであった。万博記念公園を分断する中国自動車道を結ぶ南北のシンボルゾーンの位置付けを弱め、むしろ東西の軸線を強くし、最終的には「太陽の塔」も「お祭り広場」も消そうと考えられていた(結果的に「太陽の塔」や「お祭り広場」が残り、基本計画と跡地計画の混ざった形になっており、それが未来都市、大阪万博を回顧しに来る人達を迷わせている要因でもある)。
ただし、すり鉢状になっている地形を利用することは踏襲されている。大阪万博ではすり鉢状の端には大きなパビリオン、中心部になるほど小さなパビリオンという形で、すり鉢状を強調するように設計されていた。それと同じように、端には大きな木を植え密生林、中間を疎生林、中央には開けた散開林にし、30年で自立する森を目指していた。その意味では、明治神宮以来のビックプロジェクトであったといえるかもしれない。
畑は1996年に、デジタル時代のバウハウスを標榜してつくられたインターメディウム研究所(IMI)のゼネラルマネージャー、実質的な創業者であり、中津、南港へ移転後、2000年あたりには万博記念協会ビルの1階にIMIを構え、何度も万博記念公園に通うようになる。そのような経緯があるが、今回、万博記念公園の森を撮影するようになったのは、高山英華の基本計画を実施した造園家、吉村元男の著書に出会ってからになる。
畑は長く教鞭をとっていた関西学院大学を退官し、毎週、万博記念公園に通って撮影を続け、50年を経た人工の森が、いかに生物多様性を持つ生態系を形成しているか克明に記録していった。その集大成が本展と、合わせて出版された『奇跡の森 EXPO’70』(ブレーンセンター、2024年)である。
この写真群を見れば、誰もそれが人間の手でつくれた自然と思わないだろう。もちろん、ニューヨークのセントラルパークや明治神宮など手本としたものはある。しかし、わずか30年で自生した森をつくろうとしたことは、今までなかったものであり、もちろん手を入れないで自生するまでには至っていないし、これからも人間の手は入れないといけないだろうが、時代に逆向して木々が伐採されるようなニュースが流れるなか、50年前の決断と実行の成果を今一度振り返る時期に来ているのではないだろうか。
日本人が自然を愛し、自然に親しんできたというのは、半分は本当であるかもしれないが、半分は欺瞞である。首都のあった関西付近は、燃料として伐採され続け、かなりの周辺地域が禿山になっていたことはわかっている。燃料や木材として利用価値がなくなったから、森が復活したということもできる。しかし、それだけ森に復活する潜在的な回復力、環境はあるのである。
気候変動と自然災害が、現実の危機として訪れている現在、自然の回復力をどのように取り戻し、維持していくことができるのか。「奇跡の森」をここだけのものにせず、広げていくことができるかが、今こそ問われているのである。