一昨年の11月、「この夏以来やや体調を崩し気味の毎日、この後の年末あるいは年始等のご挨拶を失礼させていただこうと思っております。」との挨拶状をいただいた。平素、お元気な武田さんから、このようなハガキをいただき、心配していたところ、昨年の春、訃報がとどいた。享年84。
武田さんは、ものごとに真正面から取り組み、正しいと思える道を選んで果敢に生きてこられた。現在の北海道立近代美術館、その建設に先立ち、東京から北海道に戻ったのは27歳のときだった。道教育庁で新美術館の開設準備、各部署との調整、そして倉田準備室長(後、館長)を迎え、1977年、近代美術館が開館した。きっと難題が多くあったことだろうと思う。
私が道立近代美術館でお目にかかった時は、学芸課、普及課のふたつを総括する、学芸部長職にあって、忙しく立ち回っておられた。このころ、道立近代美術館の学芸員は、道外からのものが多かった。親睦が大切と思われたのか、何度か新年会を部長宅でひらいていただいたものだ。
道立近代美術館は、「開館記念 世紀末から青騎士へ ミュンヘン近代美術展」(1977年)や「世界現代ガラス展」(1982-1994年)等々、大型企画展を次々と実施するとともに、広報・普及にも力を入れていた。学芸員が執筆する出版物「ミュージアム新書」の第一号は武田さんの『パスキン パリの憂愁』(1981年)であった。美術館の収集の柱の一つであったパスキン。日本でのパスキン論の先駆けだと思う。
色々な業務、課題をこなしながら、いつも学芸部長席で原稿用紙にむかっておられた。忙しい業務の間での論文執筆で、1983年に棚橋賞を受賞された。その執筆される姿は、すらすらと文章が湧き出て、書きあげておられるように見えた。かつて、故桑原住雄さんが武田さんの執筆本を読んで「ことばが生きている。」と高く評価されていた。
武田さんは、安田侃作品を早くから高く評価をされていて、収蔵にも尽力された。また世界現代ガラス展を実施した時の縁でガラス作家藤田喬平と出会い、それが大きな研究テーマとなった。それから国内外の現代ガラス作家との交流を重ね、今日では、現代ガラス研究所や美術学校などで指導者として活躍しておられた。
1987年、横浜美術館に移られてからは、美術館の仕事は無論だが、評論活動の量が断然、多くなったようだ。武田さんの関心は、ガラスの造形論は無論、彫刻の分野、近年では、近現代の書に関心が広がっていた。武田さんには、文筆活動を後ろで支えていた優秀な編集者がいた。その存在は大きく、武田さんをおおいに助けていたと思う。ある時、八重洲口付近の地下鉄出口でその人にばったりと会った。「今から、武田先生に会います」と言われ、三人一緒にお茶をしたのだが、この偶然と、不思議な縁に驚いたものである。
武田さんの近年の力作として、『無縫の書』(2023年)がある。近現代日本を代表する書家のひとり、手島右卿とその子息を紹介したものだった。
年に2回程度、札幌に帰って、北海道の美術らの取材を重ねておられた。次なる目処は、武田さんの故郷、歌志内の隣町にしばしば来ていた日本を代表する前衛書家を描こうとされていたようである。この作家のことは、そのうちに是非、伺いたいと思っていた。だが無情にもその機会はなくなった。まことに残念である。
眼鏡をかけた、ちょっとシャイな笑顔に優しさと厳しさが漂う表情が忘れられない。ご自宅の台所で、江戸前寿司を握っておられる姿。カラオケにもご一緒したな~。こころに響く歌声だったな~。谷村新司の「昴」、南こうせつの「夢一夜」。武田さんの歌声は、いまでもその余韻が私の中に残っている。家族を慈しみ、ひとを愛した武田さんだった。
ご冥福をお祈りします。有難うございました。合掌。
20260109

