万博から仏教の脱宗教化(再宗教化)と美術の歴史を問う「万博と仏教」高島屋史料館 三木学評

「万博と仏教」
会期:2023年8月5日~12月25日
会場:高島屋史料館企画展示室

現在、高島屋史料館企画展示室で、「万博と仏教」という、意外とも思える展覧会が開催され話題を呼んでいる。監修したのは、宗教学者・和光大学講師の君島彩子だ。専門は宗教美術史で、自身も水墨画家であるという。日本各地で建てられた巨大な観音像を考察した『観音像とは何か 平和モニュメントの近・現代』(青弓社、2021)を著している。

本展では、万国博覧会において、「仏教」の表象がどのように近代社会で受容され、変遷していくか歴史的に考察し、1970年の大阪万博は、アジア初の万博で多くのアジア諸国が参加したこともあり、仏教関連の造形物や空間が、オリエンタリズムの表象から、宗教性を帯び信仰の対象となった画期的なものであったという、新たな視点を提示している。

最初に「意外」と書いたのは、万博の中で仏教もさることながら、その性質上、宗教がそれほど大きく取り上げられていないからだ。ご存知のように、1851年、万博はロンドンにおいて産業博覧会として開始された。次の1855年のパリ万博では、美術部門が設置されることになる。その時、アングルやドラクロアといった巨匠は特別室が与えられたが、クールベは幾つかの作品が出品拒否され、万博会場の向いに会場を借りて「個展」を開催したことは有名なエピソードである。1867年のパリ万博以降、非西洋諸国のエキゾチックなブースも展示されるようになった。その際、初めて日本は参加したが、幕末の動乱期のため、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩という3つの組織が別々に出展している。

この時展示された、日本家屋や美術工芸品は、ジャポニスムとして、アール・ヌーヴォーや印象派に大きな影響を与えた。しかし、仏像や寺院のような「仏教」に関わるものはなかった。というのも、逆説的ではあるが、この時までは日本にとって仏像は、美術品ではなかったからだ。仏像が美術品になったのは、明治以降のことである。奇しくも、万博開催中、大政奉還が行われ、翌年の1868年、明治時代が始まる。

明治元年(1868)3月、明治政府は、神道の国教化政策をすすめるために、「神仏判然の令」(神仏分離令)を布告し、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うことなどを命じた。それによって、日本各地の神仏習合していた神社から仏像や梵鐘が取り外され、過剰に受け取った国民は、寺社や仏像を壊したり、売り払ったりする「廃仏毀釈」運動が全国で起こった。それ憂いたのが古美術収集をしていたお雇い外国人のフェノロサである。フェノロサは政府に申し出、翻訳者として同行した岡倉天心と日本の寺院を調査することになる。そこから、仏像は信仰対象から、美術品・文化財としての新たな価値を持つことになった。

明治政府として初の公式参加となったのは、1873年のウィーン万博であるが、その時《鎌倉大仏頭部の張子》や《五重塔の模型》が展示されており、仏教造形物の美術品化が見られる。1893年のシカゴ万博では《平等院鳳凰堂外観を模した日本館》が建てられている。この日本館を見て影響を受けたのが、フランク・ロイド・ライトであり、帝国ホテルにもその面影がみられる。1902(明治35)年に建てられた、関野貞が設計した旧奈良県物産陳列所(現・仏教美術資料研究センター)も、平等院鳳凰堂の影響が見られ、両翼を持つ形が西洋の建築の様式と似ていたという点も大きいだろう。

いずれにせよ、仏教造形物は、日本やアジア諸国が独自の先端科学技術を持ってない間、美術工芸品の中でも象徴的なものであるとともに、西洋の視線を意識したオリエンタリズムの表象として、万博に出品され続けていた。それが大きく変わるのが1970年の大阪万博であると本展は主張する。

しかし、日本の仏教界が積極的にパビリオンを出品したというわけではないようだ。というのも、寺院に関して言えば、会場が京都や奈良に隣接しており、それに勝るものを展示することはできないからだ。結果的に全日本仏教会が大阪万博で建てたのは、法輪閣という無料休憩所であり、万博閉幕後、四天王寺に移設され、庚申堂として使用されている。

外観として、もっとも仏教的な表象をもっていたパビリオンは、東大寺の大仏殿前に二基あったとされる「七重の塔」を原形に忠実に再現した「古河パビリオン」だろう。しかし、展示は、生活の未来像をコンピューターで表現した「コンピュートピア」という内容であり、宗教性とは遠かった。

《ラオス館の釈迦如来立像》(1969) 昭和寺蔵

いっぽうで、アジア諸国が建設したパビリオンは、日本のような「廃仏毀釈」がなかったこともあってか、ラオスの宗教建築を模した「ラオス館」や《ラオス館の釈迦如来立像》(1969)など、宗教性をまとった造形物も多いことが資料展示を見て確認することができた。特に、「ラオス館」は、長野県諏訪市にある中観山同願院昭和寺の本堂として移築されており、現在でも使用されている(追記:ラオスは1975年に王政が廃止され、社会主義体制になった当初、仏教が抑圧された)。今回、昭和寺の本堂に展示されている《ラオス館の釈迦如来立像》(1969)が出品されるだけではなく、関連映像として、会期中のテレビ番組や取材映像や現在の中観山同願院昭和寺の映像が上映されており、貴重な記録になっていた。

唐招提寺《如来形立像》(模造) 1970年 大阪府蔵

薬師寺東院堂《聖観世音菩薩立像》(模造) 1970年 大阪府蔵

もう一つ、移築されたアジアのパビリオンとして、「カンボジア館」の現在の映像も紹介されていた。こちらは宗教施設ではなく、住宅開発業者により購入され、住宅販売の広告として兵庫県神戸市に移設された後、現在では集会所として機能している[1]。「オーストラリア館」や「サンヨー館」のように、移築され用途変換された例の一つといってよいだろう。

善水寺《不動明王座像》(模造)

仏像という観点から言えば、今回、日本館に設置されていた、著名な仏像のレプリカが4体展示されていたのが興味深かった。歴史展示「奈良の文化」のコーナーで展示されていた唐招提寺の《如来形立像》、同じく「奈良の文化」のコーナーで円柱型の台座に設置されていた薬師寺東院堂の《聖観世音菩薩立像》、「平安の文化」のコーナーで展示されていた四天王寺の《阿弥陀如来坐像》、善水寺の《不動明王座像》である。すべてFRP製であるが、さすがに精巧につくられており、完成度が高い。

四天王寺《阿弥陀如来坐像》(模造) 1970年 大阪府蔵

精巧過ぎて国宝の仏像が間近にあることに少し畏怖を感じる。これらの仏像が置かれた床には、茶色い石が敷かれ、9月16日から高島屋史料館TOKYOで常滑の「陶彫」をテーマにした「陶の仏」展をすることから、二つの展覧会を結ぶ意味も込めて、大阪万博で展示された常滑造形集団が制作した《月の椅子》が配置されており座りながらじっくり見ることができる。

常滑造形集団《月の椅子》 1970年 とこなめ陶の森資料館蔵

通常、EXPO‘70パビリオン(旧鉄鋼館)の倉庫に収蔵されているが、それ以前に万博閉幕後、ほとんど展示されたことがないのではないか。宗教性ということで言えば、日本において仏教は仏像が中心にあったので、これらの仏像のレプリカが、信仰の場に置かれなかったことは、宗教的な意味を持ったという論をややトーンを弱めているようにも思える。

ただし、テーマ館の一部として立てられた《太陽の塔》は、岡本太郎は「マンダラである」(テーマ館パンフレット)と述べているし、空中展示でも、粟津潔が192面スクリーンによる「マンダラマ」を制作しており、最新の技術を使った展示においても、西洋思想ではない東洋の表現として、仏教的な世界観やマンダラが広くアーティストに共有されていたのではないかと考えている。そこまで広げ考えてもよかったかもしれない。

話は変わるが、毎年、東大寺の法華堂(三月堂)では、12月16日に秘仏、国宝「執金剛神立像」が開扉される。それは、東大寺を開山した良弁の命日が12月16日(陰暦11月16日)であるからだ。良弁は、東大寺の前身寺院・金鐘寺に入山し、入唐して法蔵について華厳経を学んだ審祥を招くなどして法華経を説いたという。金鐘寺は今の法華堂の場所にあったとされる。

法華堂は不空羂索観音を中心とした仏像群で知られているが、北にあたる内陣の裏にあるのが「執金剛神立像」だ。通常は1年に1回だけ開扉されるが、今年は、良弁の1250年御遠忌法要が営まれることもあり、10月1日から16日の2週間という異例の長さで開扉されることになった。

万国博古河館東大寺七重塔相輪 1970年

そのような貴重な機会でもあり、法華堂に向かった。現在、東塔(七重の塔)院跡地区では、2015年からの発掘調査を経て奈良時代の建物基壇の復元整備中である[2]。鏡池から横断する道が封鎖されていたため、中門を右に曲がっていくと、東楽門の東辺りに巨大な相輪が設置されている。実は、これが古河パビリオンの上部にあった相輪で、東大寺に寄進されたものなのだ。

1971(昭和46)年に移築された。

碑文

そもそも、1966年、東塔跡を訪ねた万博準備委員の人々が、「天平の人々の偉大なる霊感に打たれたことが万博七重塔起案の動機となった」という。そして、碑文には「此の相輪を燈として幻の塔を現実のものとした万博が終了した後も、七重の塔が決して幻の如く消え去ることなく、何時の日か後世に遺すべき優れた七重塔が大地に涌出する日を宿願とするものである」と記されている。

東塔は1180年に平氏に焼き打ちされ焼失し、鎌倉時代に再建されたが、南北朝時代の1362年に再び落雷で焼失している。東塔の再建は、東大寺にとって今日においても悲願であり、それが大阪万博を経て、今日でも継承されていることがよくわかる。東塔は、奈良文化財研究所や橿原考古学研究所の発掘調査の結果、約96メートルという異例の高さであったと推定されている。古河パビリオンですら86メートルだった。

大仏殿から「万国博古河館東大寺七重塔相輪」を見る

大仏殿内部にある七重の塔の模型

そもそも、博覧会も美術も、西洋文化の輸入であり、日本にとってそれは仏教造形物を脱宗教化する歴史でもあったといえる。大阪万博において、そこに再び宗教的意味が含まれたというのは重要な視点であるのは間違いない。それはそのまま私たちとって、美術とは何か?アートとは何か?という本質的な問いもはらんでいる。その意味で、本展は現在のアートワールドや博覧会を問い直すものにもなっているといえよう。

[1] 米澤隆「万博建築にみる建築転用の可能性」『新建築.ONLINE』(2023年4月21日)
https://shinkenchiku.online/column/7446/

[2]東大寺東塔院跡地区
https://www.todaiji.or.jp/wp-content/uploads/2022/04/totoinato.pdf

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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