展評「黃 萱(ホアン・シェン)展――Around aground」鹿児島県霧島アートの森 秋丸知貴評

黃 萱(ホアン・シェン)展――Around aground

公開制作:2023年9月16日-2023年9月29日
展覧会:2023年9月30日-2023年12月3日
ライヴ・パフォーマンス:2023年9月30日・10月1日・10月7日・10月8日・10月9日
会場:鹿児島県霧島アートの森(アートホール) 展示ロビー

 

秋丸知貴(鹿児島県霧島アートの森学芸員)

 

鹿児島県霧島アートの森は、2017年度から「霧島ロビープロジェクト」として、アジアの若手作家を招聘して個展を行う「アジア作家招聘事業」を展開している。コロナ禍を挟んで第4回となる2023年度は、台湾から黃萱(ホアン・シェン)を招聘し、公開制作と展覧会とパフォーマンスを行った。

ホアンは、1995年に台湾台北市で生まれた28歳のアーティストである。2021年に国立台湾芸術大学大学院の修士課程を修了し、現在台北を拠点に活動している。本展は、ホアンが台湾で制作した作品と、今回新たに日本で公開制作した作品を展示した。どちらも5点ずつの合計10点で、いずれも2019年以降の新作である。

 

図1 ホアン・シェン《クラシカルな赤い肘掛けソファ》2019年

 

図2 ホアン・シェン《白いストライプのマットレス》2020年

 

図3 ホアン・シェン《深緑のテーブルランプ》2021年

 

 

図4 ホアン・シェン《白いプリーツのあるフロアランプ》2021年

 

「In House」シリーズ

繊維, 鉄, 鋼, 着彩, LED ライト, FRP, 紙, インク, ヴィデオ|サイズ可変

 

ホアンが台湾で制作したのは、「イン・ハウス」シリーズと名付けられた衣装作品の《クラシカルな赤い肘掛けソファ》(図1)、《白いストライプのマットレス》(図2)、《深緑のテーブルランプ》(図3)、《白いプリーツのあるフロアランプ》(図4)と、映像作品の《波》(図5)である。「イン・ハウス」シリーズは、2021年の台北アートアワードの優秀賞を受賞している。本展では関連作品として、「イン・ハウス」シリーズを紹介する作家自作の取扱説明書と、作家が実際に着用したパフォーマンス動画も展示された。

また、日本での制作については、ホアンは2023年9月8日に来日して鹿児島入りし、霧島連山にある栗野岳ログ・キャンプ村に滞在した。以後、ホアンは毎日霧島アートの森で展示打ち合わせを行うと共に、鹿児島の様々な景勝地——桜島を望む湯之平展望所、霧島連山周辺の錦江湾国立公園、曽木の滝、犬飼滝、丸尾滝、丸池湧水等——を精力的に散策した。その取材の過程で生まれたアイディアを基に制作したのが、写真作品の《黒い犬飼滝》(図6)、《栗野橋+1》(図7)、《日々の霧》(図8)と、立体作品の《風と共に》(図9)、《霧島の小さな一部》(図10)である。

公開制作は、9月16日から9月29日までの2週間、展覧会場となる当館の展示ロビーにアトリエを仮設する形で行われた。当初、未知の土地である日本での最初の個展であり、しかも公開制作であるために、ホアンには多少の緊張と戸惑いが見られた。しかし、ホアンは持ち前の聡明さと誠実さで次第に周囲に馴染み、展示準備を着々と進めていった。ホアンは英語が得意で、美術館とのやり取りではしっかり意思疎通を図ってきた。公開制作中に、しばしば物珍しがる観客から質問された時も親切に応対し、言葉が不自由な中で一つ一つ丁寧に自作の意図を説明しようとする姿勢が印象的であった。

展覧会は、9月30日から12月3日まで約2ヶ月間、当館の展示ロビーで開催された。作品の展示配置は、美術館のアドヴァイスを受けてホアンが最終的に決定した。空間全体にバランス良く作品が配置され、照明や動線もよく考えられているので、作品数は決して多くはないが密度の濃い内容に仕上がった。実際に観客の反応も良く、皆一様に笑顔であり、特に子供は作品の周囲を走り回ったり、マネキンと同じポーズを取ったりする仕草がよく見られた[i]

さらに、本展の展示空間が一つの主題で統一されているように感じられたのは、アーティストとしてのホアンの資質によるところが大きい。というのは、ホアンの作風は一見とても愉快で親しみやすく、ツッコミどころ満載なので誰もがついクスリと笑ってしまう。しかし、ただ単に面白いだけではなく、よく見ると知的な思索が通底している。つまり、ホアンの関心は、様々な「境界」——特に「人間と自然の関係」——にあり、反復的で徒労的な行為を通じて、私達が自明で見過ごしていた自他の関係や物事の本質を立ち現わせようとするところにその一貫した特徴がある。

本展の副題は、ここに由来している。つまり、「Around aground(アラウンド・アグラウンド)」は、ホアン自身が選んだ韻を踏む詩的なフレーズであり、敢えて訳せば「あちこち座礁中」である。なぜ「あちこち座礁中」かというと、本展で出品されている10点は、どれも私達の身近な事物を題材にしているが、全て普通の正常なあり方や使い方とズレているからである。この意図されたズレ――いわば意図された「座礁」――により、私達の普段のものの見方は覆され、日常生活の中で当たり前になり見えなくなっているものに改めて光が当たる。それにより新たな気付きや発見をもたらそうとするのが、ホアンの芸術活動の核心だといえる[ii]

 

◇ ◇ ◇

 

実際に、作品を見てみよう。

まず、「イン・ハウス」シリーズは、その名の通り、「屋内」用の家具と衣装が組み合わされた4つの作品で構成されている。そのいずれも、物と人の関係が通常とあべこべになっている。

実際に、《クラシカルな赤い肘掛けソファ》(図1)は、人がソファに座るのではなく、逆にソファが人に座るような形になっている。そのため、人が寛ぐために座ろうとしても座ることができず、逆にちょうど罰ゲームの「空気椅子」のように苦しく危ない姿勢を強いられることになる。

また、《白いストライプのマットレス》(図2)は、人がマットレスに寝るのではなく、マットレスが人に寝るような形になっている。そのため、人が寛ぐために寝ようとしても寝ることができず、逆にちょうどエクササイズの「プランク」のポーズのように不安定で困難な体勢を取らざるをえなくなっている。

さらに、《深緑のテーブルランプ》(図3)は、照明器具としては役に立たない。なぜなら、照明器具は本来、人がものを見る時に後ろから照らして見えやすくするものであるが、逆にここでは人の目の前で発光してものを見ることを妨げているからである。

同様に、《白いプリーツのあるフロアランプ》(図4)も、照明器具としては使い物にならない。なぜなら、やはりこの作品では照明器具自体を人がかぶることで、逆に前が何も見えなくなっているからである。

つまり、これらの「イン・ハウス」シリーズは、いずれも本来役に立つものであるはずの家具が逆に全く役に立たないものになっている。それにもかかわらず、これらの無益な家具衣装作品には、それぞれそれを使うといかに生活が豊かになるかを称揚する取扱説明書が付設されている[iii]

 

取扱説明書

 

また、そもそも家具を衣装として着用すること自体がとてもナンセンスである。それにもかかわらず、これらの本来ありえない家具衣装作品は、それぞれまるで流行のファッションであるかのようにマネキンにお洒落に着こなされている。

 

展示風景

 

そして、これらの家具衣装作品をホアンが実際に着て、本当の家具店でパフォーマンスした動画も展示されている。すなわち、そこでは現実の生活を模倣した商品陳列の中で、本来ありえない家具型の衣装に身を包んだホアンが芸術活動を行うという、虚実入り交じる多層的な逆説構造が表象されている。

 

パフォーマンス動画

 

ホアンによれば、こうした奇妙な家具衣装作品のアイディアは、デスクワークのアルバイトで長時間椅子に座っていた後に、まるで自分の体が硬直して椅子そのものになってしまったように感じたことがきっかけになっているという。つまり、一般に安らぎを与えると思われているものは、実は不自由を生み出すものでもある。そうした「優しい罠」を暴くこれらの連作には、逆説的なかたちで、人間はもっと自然体で生きられるのではないかというメッセージが込められている。それを誰にでも分かりやすく伝えるために、敢えて身近な日用品を選択しているところに、ホアンの優れた工夫がある。

ホアン自身の言葉を引こう。

「イン・ハウス」シリーズは、私が前に事務所でアルバイトをした経験から生まれました。というのも、長い時間椅子に座っていると、誰でも自分が部屋の椅子になったように感じるからです。本来は人体の形状に快適なはずの椅子は、無理を強いる椅子でもあります。普段、私達は事務所に座って仕事をするのはとても「リラックス」して「快適」であると考えていますが、同じ姿勢を保ち続けることは一種の身体的な制約でもあります。そこで、このシリーズでは、快適で心地良い印象を与える家具(ソファ・マットレス・ランプ)を原型として選び、スクワットやプランクといったより苦しく困難な姿勢と組み合わせた、人が着ることのできる一連の衣装を制作しました。それは、支えるものと支えられるものという物と人の関係をひっくり返すものです。私が快適な家具を選んだのは、誰もがしばしばそれらに生活や家庭の中で長時間依存しがちだからです。それらに座ったり、横になったり、休んだりするととても快適なので、私達はそこで無防備に没入するのです。「快適」というのは、ある意味で「感情の消失」ではないかと思います。 例えば、人間工学に基づいた家具は、人体の形状に合わせて不快感をなくし、長時間使用しても痛みを感じないことを宣伝することがよくあります。 また、車のショックアブソーバーは、路面の凹凸によって引き起こされる振動を吸収し、運行をより安定させます。ここでいう快適とは、浮き沈みや変動のない、感情の滑らかな曲線のようなものです。おそらく、この快適さは私達をその過程で利用される対象に変えてしまう優しい罠なのかもしれません[iv]

 

◇ ◇ ◇

 

ここで興味深いのは、ホアンの芸術作品には、愉快さと共にある種の詩情も感じられることである。それは、ただ単に造形的なセンスの良さだけではなく、一段深く世界と向き合うことで、大自然と人間の関係を強く知覚させるからだと思われる。そこに、ホアンの芸術作品に感受されるユーモラスな可笑しさと共に詩情に満ちた美しさの源泉がある。

 

図5 ホアン・シェン《波》2022年

ヴィデオ|16min 30s

 

例えば、《波》(図5)では、ホアンは海岸の波打ち際に立ち、石を一つずつ拾っては沖に向かって投げている。それがタイトルの「波」という意味であるが、石はやがて波に流し戻されるので、そうした無駄な行為を何度も繰り返す彼女をずっと見ていると何だか滑稽に思えてくる。しかし、無限に打ち寄せる波に呼応するように一心に小石を投げ続ける後ろ姿は、一つの画像としてはとても詩的で美しい。そこには、大自然に対して人間は無力だが決して無意味ではないという肯定感さえ感じられる[v]

 

図6 ホアン・シェン《黒い犬飼滝》2023年

写真|75×50 cm

 

また、《黒い犬飼滝》(図6)では、ホアンは霧島連山の周辺にある「犬飼滝」の側で、背後の崖から流れ落ちる滝の水と同じように、自らの黒い髪を地面に垂らしている。それがタイトルの「黒い犬飼滝」という意味であるが、生真面目に滝を真似て髪を垂らしている彼女をずっと見つめていると何だか苦笑してしまう。しかし、その物が滑らかに流れ落ちる姿の絶妙な照応は、一つの画像としてはとても詩的で美しい。そこには、女性を水に喩えてきた人類共有の神話的連想さえ想起される[vi]

 

図7 ホアン・シェン《栗野橋+1》2023年

写真|75×50 cm

 

これと同様に、(図7)では、ホアンは霧島連山の栗野岳の麓にある「栗野橋」の端に立ち、立ち並ぶ道路灯の先にもう一本付け加えるように、携帯電話の明かりを高く掲げている。それがタイトルの「栗野橋+1」という意味であるが、生真面目に道路灯の真似をしている彼女をずっと眺めていると何だか可笑しくなってくる。しかし、その夜空の星々を地上に移したような光の列を延長させる立ち姿は、一つの画像としてはとても詩的で美しい。そこには、世界を一つでも明るく照らしたいという前向きな意志さえ窺える[vii]

 

図8 ホアン・シェン《日々の霧》2023年

写真|26×17.5 cm

 

さらに、《日々の霧》(図8)では、ホアンは霧島滞在中の経験として、風呂上がりの洗面所で湯気に曇った鏡を指でこすって覗き込んでいる。それがタイトルの「日々の霧」という意味であるが、日常のありふれた一場面に大真面目に注目している彼女をまなざしていると何だか微笑ましくなってくる。しかし、その湯気で全く見えなくなった鏡が指の一触れで少しだけ見えるようになった一瞬は、一つの画像としてはとても詩的で美しい。それが濃霧の発生しやすい霧島でのホワイトアウト体験の比喩であることを知れば、そこには彼女の当地に対する深い親しみさえ読み取れる[viii]

 

図9 ホアン・シェン《風と共に》2023年

扇風機, 枝|87×60×80 cm

 

図10 ホアン・シェン《霧島の小さな一部》2023年

靴, 石|27×31×18 cm

 

そして、《風と共に》(図9)では、ホアンは霧島滞在中に各地で拾い集めた木の枝を扇風機のカバーに大量にはめ込んでいる[ix]。また、《霧島の小さな一部》(図10)では、霧島滞在中に各地で収集した石ころを靴底の溝に大量に詰め込んでいる[x]。それが、タイトルの「風と共に」や「霧島の小さな一部」という意味である。扇風機のカバーや靴底の隙間に何か一つか二つ物が挟まることは、誰もがよく経験する小さな困りごとであるが、その大量さで本来の送風や歩行の用途に支障をきたすほど大きな厄介事にまで発展させている彼女を想像すると、やはり微苦笑を禁じえない。しかし、その日常的な事象の積み重ねが非日常的なレベルにまで強調されている未曾有の外観は、一つの画像としてはとても詩的で美しい。その上で、そこで用いられている小枝も小石も革靴も全て霧島で取り揃えたものであることが分かれば、そこには彼女の当地に対する深い愛着さえ看取できる。

このように、これらのホアンの作品はいずれも、ユーモアと共に詩的叙情を兼ね備えている。その両方の要素に共通するのは、日常の中に非日常を持ち込む手法である。そして、やはりそれを誰にでも分かりやすく伝えるために、敢えて身近な物品や自然現象を取り上げているところにホアンの水際立った創意を観取できる。実際に、海に石を投げたり、滝を真似て髪を垂らしたり、夜道で携帯電話を掲げたり、鏡の湯気を指で払ったり、扇風機のカバーに小枝をはめたり、革靴の底に小石を詰めたりすることは、誰にでも一度は経験があるか、あるいは容易に実行できる行為である。だからこそ、ホアンの作品は台湾でも日本でもどこでも国境を超えて普遍的に理解できるのである。

 

◇ ◇ ◇

 

それでは、これらの芸術作品を通じて、ホアンはアーティストとして一体何を表現しようとしているのだろうか。

もちろん、一見してすぐ分かるように、ホアンの芸術作品にはまず人を楽しませようというサービス精神がある。しかし、それ以上に重要な点は、そこには単なる娯楽に留まらない知的思索も一貫していることである。

前述の通り、ホアンの関心は様々な「境界」——特に「人間と自然の関係」——にある。そして、誰もが知っている本来の文脈をずらしたり、一見無意味な行為を繰り返したりすることで、私達が当たり前だと自明視していた自分と世界の関係やそれぞれの本質を改めて意識化させ、一段深いレベルでより良い生き方や世界のあり方の模索を促そうとする。そのために、ホアンは日常の中に過剰や反復や無駄といった異常を持ち込み——物事を「座礁」させて——認識の刷新を図るのである。

実際に、「イン・ハウス」シリーズでは全て、自然と人為の境界が問題になっている。言い換えれば、人間の内なる自然らしさへの着目である。つまり、座れない椅子や、寝られない布団や、見ることを邪魔する照明器具を、さらに衣装と組み合わせることで、普通は役に立つものが全く役に立たなくなり、通常の物と人の関係が転覆し、普段はその有用性を信じて疑わないでいる私達と家具の関係が相対化されて明るみになる。それにより、実は人工的に快適な生活の中では人間本来の自然性が抑圧されているのではないかという問いが浮上する。すなわち、ここでは、人間はもっと自然で自由に生きられるのでないかという問題意識が隠れたテーマと言える。

また、《波》、《黒い犬飼滝》、《栗野橋+1》、《日々の霧》、《風と共に》、《霧島の小さな一部》では全て、自然界と人間界の境界が問題になっている。換言すれば、大自然の中の人間への着眼である。つまり、海や滝は地形上の両者の境目であり、道路灯は市街地と大自然が出会う最前線であり、湯気で曇る鏡とそれに触れる指は住居における自然現象と人間の接点であり、扇風機は住宅の中で風という自然現象を生じさせる人工物であり、革靴は人間と大地を接触させる自然由来の加工品である。そして、《波》では人間は自然の運動を反復し(打ち寄せる=投げ返す)、《黒い犬飼滝》と《栗野橋+1》では人間は自然の形態を模倣し(滝=髪、星空=道路灯)、《日々の霧》、《風と共に》、《霧島の小さな一部》では人工物は大自然に浸透されて使用困難になった姿を提示している(湯気で曇った鏡・小枝に覆われた扇風機・小石だらけの革靴)。それらを通じて、私達は人間の生活がいかに常に大自然に包摂されているかを内省できる。すなわち、ここでは、そうした日常経験や科学技術とは別の仕方で世界における人間の位置を再認識することが隠れたテーマと言える。

一般に、「エスプリ」と「ユーモア」の違いは、同じ笑いの取り方でも、「エスプリ」が少し意地悪に他人を低めて笑いを取ることであるのに対し、「ユーモア」はより友好的に自分を低めて笑いを取ることとされる。その意味で、ホアンは、その芸術作品を通じて、「ユーモア」の力で世界を優しく朗らかに活気付けると共に、健やかで深い認識の刷新をもたらし、人間が自然であることの大切さや、人間にとっての大自然の重要さ等を改めて思い出したり再考したりするきっかけを創出するアーティストと言えるかもしれない。

なお、本展会期中に、ホアンは「イン・ハウス」シリーズを実際に装着して合計5日間のライヴ・パフォーマンスを行った。ホアンはパフォーマンス・アーティストとしてもとても独創的で才気豊かなので、当館のYoutube公式アカウントで公開中のそのダイジェスト版の動画をぜひ視聴して欲しい。

 

パフォーマンス動画(ダイジェスト版)

 

註 本稿の引用の翻訳は、全て筆者による。

[i] 本展では、台湾アート界におけるホアンの先輩であり、霧島ロビープロジェクトにおける第3回「アジア作家招聘事業」の招聘作家でもある、賴志盛(ライ・ヅーシャン)が、展覧会場の設営造作、写真動画の撮影編集、車の運転から様々なアドヴァイスに至るまで、全般的にホアンのサポートを務めた。そのスキルフルで人情味溢れる協力に、記して深く感謝申し上げたい。

[ii] 「『Around aground』は、反復的で徒労的な行為を通じて現実における私達と周囲の関係を露わにします。例えば、投げては波に流され戻ってくる石、座ろうとすると崩れてしまうソファ、押し上げても潰れてくるマットレス、小石や木枝が挟まってしまった扇風機や靴の裏……。それらはまるで、自分自身と周囲の間で座礁しているようです。こうして既成のルールを反復したり逆転したりすることで、何らかの新しい反応や思考が生み出されることを期待しています」(2023年9月12日付の作家自身による展覧会コンセプト)。なお、ホアンの芸術作品の理解に有益だと思われるので付言しておくと、彼女の父親は心理学の大学教授である。

[iii] こうしたホアンの作風は、美術史上は当館で2006年に特別展を開催した、ユーモア溢れる工業製品を芸術作品として発表している「明和電機」の流れを汲むスタイルと言えるだろう。

[iv] 作家自身による説明(以下、全て2023年9月27日付)。

[v] 「私は海岸に立ち、地面に落ちている石を気ままに拾っては、波の押し寄せる海に投げ入れることを暗くなるまで続けました。波が石を流し寄せ、私は石を拾って投げ返す。私と海には大きな力の差があるけれど、私は波と同じようなことをしているのかもしれないと思います。これが、海に対する私の一つの応え方です。」(作家自身による説明)

[vi] 「背後の崖を流れ落ちる滝も、岩場に髪を垂らす女性も、どちらも世界が流転する瞬間です。」(作家自身による説明)

[vii] 「私はいつも道路灯に魅了されてきました。特に山や自然に囲まれたこのような環境では、道路灯は都市から伸びて自然に触れる人間の文明の指先であり、自然と人工物の接点であると思います。日没後の山道は道路灯が少ないので、分かれ道に現れた栗野橋は特に私を惹き付けました。背が高く等間隔に並んだ道路灯は、人工の星々が永遠にここに設置されているようで、私は手持ちの光を発する唯一の道具で、橋の傍にもう一つ光の点を伸ばしたかったのです。」(作家自身による説明)

[viii] 「霧島では、私はいつも不意に濃霧に包まれ、眼の前の山の景色が見えなくなることがよくありました。宿に帰って熱いシャワーを浴びると、鏡に残った湯気で一時的に視界が遮られました。これは、私の日常生活の中で最も自然に接近する経験の一つだろうと思います。」(作家自身による説明)

[ix] 「私にとって、ここ霧島で最も印象深いのは背の高い森林です。そこで、地面から小枝をたくさん拾い集め、扇風機のカバーに詰め込みました。様々な木から落ちていた小枝を、私は集合させました。小枝の詰まった壁掛け扇風機が回転すると、小枝の間から風が吹き出し、まるで野生動物が周囲を見回すようで、山や森は生命力に満ちていると感じます。」(作家自身による説明)

[x] 「霧島の様々な道で小石を拾い、ここで買った中古の革靴の底に詰めました。このようにして、霧島——森の中、火山の傍、曲がりくねる山道、スーパーマーケットの隣——を思い出したり思い描いたりすることで、それらの道を私の足裏まで伸ばし、風景の小さな一部を持ち運びたかったのです。」(作家自身による説明)

 

(図8は黃萱撮影、それ以外の写真・動画は全て賴志盛撮影)

 

* English version: Review ‘Huang Xuan Exhibition — Around aground’ at Kirishima Open-Air-Museum (by Tomoki Akimaru)

 

鹿児島県霧島アートの森公式ウェブサイト
黃 萱(ホアン・シェン)展――Around aground
黃 萱(ホアン・シェン)個人ウェブサイト

 

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著者: (AKIMARU Tomoki)

美術評論家・美学者・美術史家・キュレーター。1997年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業、1998年インターメディウム研究所アートセオリー専攻修了、2001年大阪大学大学院文学研究科文化表現論専攻美学文芸学専修修士課程修了、2009年京都芸術大学大学院芸術研究科美術史専攻博士課程単位取得満期退学、2012年京都芸術大学より博士学位(学術)授与。2013年に博士論文『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房)を出版し、2014年に同書で比較文明学会研究奨励賞(伊東俊太郎賞)受賞。2010年4月から2012年3月まで京都大学こころの未来研究センターで連携研究員として連携研究プロジェクト「近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究」の研究代表を務める。主なキュレーションに、現代京都藝苑2015「悲とアニマ——モノ学・感覚価値研究会」展(会場:北野天満宮、会期:2015年3月7日〜2015年3月14日)、現代京都藝苑2015「素材と知覚——『もの派』の根源を求めて」展(第1会場:遊狐草舎、第2会場:Impact Hub Kyoto〔虚白院 内〕、会期:2015年3月7日〜2015年3月22日)、現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ~いのちの帰趨~」展(第1会場:両足院〔建仁寺塔頭〕、第2会場:The Terminal KYOTO、会期:2021年11月19日~2021年11月28日)、「藤井湧泉——龍花春早 猫虎懶眠」展(第1会場:高台寺、第2会場:圓徳院、第3会場:掌美術館、会期:2022年3月3日~2022年5月6日)等。2020年4月から2023年3月まで上智大学グリーフケア研究所特別研究員。2023年に高木慶子・秋丸知貴『グリーフケア・スピリチュアルケアに携わる人達へ』(クリエイツかもがわ・2023年)出版。上智大学グリーフケア研究所、京都ノートルダム女子大学で、非常勤講師を務める。現在、鹿児島県霧島アートの森学芸員、滋賀医科大学非常勤講師、京都芸術大学非常勤講師。

【投稿予定】

■ 秋丸知貴『近代とは何か?――抽象絵画の思想史的研究』
序論 「象徴形式」の美学
第1章 「自然」概念の変遷
第2章 「象徴形式」としての一点透視遠近法
第3章 「芸術」概念の変遷
第4章 抽象絵画における純粋主義
第5章 抽象絵画における神秘主義
第6章 自然的環境から近代技術的環境へ
第7章 抽象絵画における機械主義
第8章 「象徴形式」としての抽象絵画

■ 秋丸知貴『美とアウラ――ヴァルター・ベンヤミンの美学』
第1章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念について
第2章 ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について
第3章 ヴァルター・ベンヤミンの「感覚的知覚の正常な範囲の外側」の問題について
第4章 ヴァルター・ベンヤミンの芸術美学――「自然との関係における美」と「歴史との関係における美」
第5章 ヴァルター・ベンヤミンの複製美学――「複製技術時代の芸術作品」再考
第6章 ヴァルター・ベンヤミンの鑑賞美学――「礼拝価値」から「展示価値」へ
第7章 ヴァルター・ベンヤミンの建築美学――アール・ヌーヴォー建築からガラス建築へ

■ 秋丸知貴『近代絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに』
序論 近代技術的環境における心性の変容の図像解釈学的研究
第1章 近代絵画と近代技術
第2章 印象派と大都市群集
第3章 セザンヌと蒸気鉄道
第4章 フォーヴィズムと自動車
第5章 「象徴形式」としてのキュビズム
第6章 近代絵画と飛行機
第7章 近代絵画とガラス建築(1)――印象派を中心に
第8章 近代絵画とガラス建築(2)――キュビズムを中心に
第9章 近代絵画と近代照明(1)――フォーヴィズムを中心に
第10章 近代絵画と近代照明(2)――抽象絵画を中心に
第11章 近代絵画と写真(1)――象徴派を中心に
第12章 近代絵画と写真(2)――エドゥアール・マネ、印象派を中心に
第13章 近代絵画と写真(3)――後印象派、新印象派を中心に
第14章 近代絵画と写真(4)――フォーヴィズム、キュビズムを中心に
第15章 抽象絵画と近代技術――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

■ 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道 補遺』
第1章 ポール・セザンヌの生涯と作品――19世紀後半のフランス画壇の歩みを背景に
第2章 ポール・セザンヌの中心点(1)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第3章 ポール・セザンヌの中心点(2)――自筆書簡と実作品を手掛かりに
第4章 ポール・セザンヌと写真――近代絵画における写真の影響の一側面

■ 秋丸知貴『岸田劉生と東京――近代日本絵画におけるリアリズムの凋落』
序論 日本人と写実表現
第1章 岸田吟香と近代日本洋画――洋画家岸田劉生の誕生
第2章 岸田劉生の写実回帰 ――大正期の細密描写
第3章 岸田劉生の東洋回帰――反西洋的近代化
第4章 日本における近代化の精神構造
第5章 岸田劉生と東京

■ 秋丸知貴『〈もの派〉の根源――現代日本美術における伝統的感受性』
第1章 関根伸夫《位相-大地》論――日本概念派からもの派へ
第2章 現代日本美術における自然観――関根伸夫の《位相-大地》(1968年)から《空相-黒》(1978年)への展開を中心に
第3章 Qui sommes-nous? ――小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察
第4章 現代日本美術における土着性――小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ-モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に
第5章 現代日本彫刻における土着性――小清水漸の《a tetrahedron-鋳鉄》(1974年)から「作業台」シリーズへの展開を中心に

● 秋丸知貴『比較文化と比較芸術』
序論 比較の重要性
第1章 西洋と日本における自然観の比較
第2章 西洋と日本における宗教観の比較
第3章 西洋と日本における人間観の比較
第4章 西洋と日本における動物観の比較
第5章 西洋と日本における絵画観(画題)の比較
第6章 西洋と日本における絵画観(造形)の比較
第7章 西洋と日本における彫刻観の比較
第8章 西洋と日本における建築観の比較
第9章 西洋と日本における庭園観の比較
第10章 西洋と日本における料理観の比較
第11章 西洋と日本における文学観の比較
第12章 西洋と日本における演劇観の比較
第13章 西洋と日本における恋愛観の比較
第14章 西洋と日本における死生観の比較

■ 秋丸知貴『ケアとしての芸術』
第1章 グリーフケアとしての和歌――「辞世」を巡る考察を中心に
第2章 グリーフケアとしての芸道――オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』を手掛かりに
第3章 絵画制作におけるケアの基本構造――形式・内容・素材の観点から
第4章 絵画鑑賞におけるケアの基本構造――代弁と共感の観点から
第5章 フィンセント・ファン・ゴッホ論
第6章 エドヴァルト・ムンク論
第7章 草間彌生論
第8章 アウトサイダー・アート論

■ 秋丸知貴『芸術創造の死生学』
第1章 アンリ・エランベルジェの「創造の病い」概念について
第2章 ジークムント・フロイトの「昇華」概念について
第3章 カール・グスタフ・ユングの「個性化」概念について
第4章 エーリッヒ・ノイマンの「中心向性」概念について
第5章 エイブラハム・マズローの「至高体験」概念について
第6章 ミハイ・チクセントミハイの「フロー」概念について

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