沖縄はこの150年で3度の世替りを経験し、最後に再度日本の領土に組み入れられた特異なエリアである。本稿では直近の世替り、1972年の日本復帰(日本への施政権返還。以下「復帰」と表記)前後の美術家たちの活動に焦点を当て、後半は復帰後の重要な展覧会等についても触れたい。最後に現在問題になっている首里城本殿の左右の大龍柱の向きについて言及したい。
「復帰」の問題は、政治的制度の移行が終了したにも関わらず、人々のマインドが現在進行形であることだ。日本化が急激に進む現在でも日本国に属することを受け入れがたいと感じる人々が多く存在する。そのことが一連の現在の文化の事象の根底にある。もちろん素直に受け入れて日本人として振る舞うことに何の抵抗もない人も多い。1972年の「復帰」は「県民の悲願」として米軍の圧政から逃れる唯一の救いと考える人が多かった。1950年代後半より米軍の犯罪、強制土地収用、土地の一括買い上げ案に対する反対運動を通じて祖国復帰願望が大多数となって大きな運動へと展開していった経過があった。ところが佐藤・ニクソン会談で「復帰」が決まるとその内実が明らかになるにつれて反復帰思想が徐々に前面に出始めた。この思想は島尾敏雄のヤポネシア論が引き金となって新川明の『反国家の兇区』に結実する。この著作が出版されたのが1971年であり、「復帰」の前年である。「祖国へ復帰」という志向が当然とされる社会の中で異質な考えであった。しかしながら一部の若者や知識層をとらえた。ヤポネシアは日本列島を多様な文化を持つ島々の連なりと考えた最初の明確な概念である。「復帰」前夜は祖国復帰協議会が主軸となり大きなうねりとなったが、反復帰論が支持されるのは、従来からある独立論とは異なるとは言え、日本の政治への懐疑や文化レベルでの大きな変容への不安も根底にはあるといえた。そのような社会状況のなかで美術家は何を表現したのかを考えてみたい。
安谷屋正義と前衛グループの政治的位置
60年代米軍政下でモダニズムが生まれ、発展していった。その中心人物が安谷屋正義(あだにやまさよし)である。安谷屋のバックアップのもとに前衛グループ「耕」が生まれた。「耕」のメンバーは当初早稲田大学を卒業し、那覇市の職員だった大浜用光(おおはまようこう)、琉球大学の学生だった城間喜宏(しろまきこう)、そして立命館大学卒で那覇高教諭だった大嶺實清(おおみねじっせい)である。既成画壇へのアンチの姿勢は、沖縄の現実からくるものでもあった。リーダーの大浜用光は新聞のコラムで、ある展覧会への「絶対権力者」(高等弁務官)のオープニングの訪問へ皮肉を投げる──「ゲイジュツに国境なし。文化の交流!アア」。そして「芸術主義のワクを出なければ、芸術は、現代的虚無と頽廃にのめりこむばかりではないか」(1963年5月28日『沖縄タイムス』)。ある意味では政治的に中立な美術表現などないという論述である。また沖縄の戦後の保守的、閉鎖的な政治、社会、美術状況を批判的に述べながら“大衆とともに”芸術運動を展開したい旨述べる。
「耕」の動きは、歓迎される反面、反発も根強かった。しかし、大浜用光は高い理想を掲げる。
私は、自我とグループ、画家としての自己と大衆を対立するものとして考えない。それどころかこの接点を、まるごと統一的につかむところに今日の芸術運動の課題があるのではないだろうか。(1963年10月20日『沖縄タイムス』)
1965年、アメリカが北ベトナムを直接爆撃し始めた頃、沖縄嘉手納基地からB52爆撃機が毎日のように飛び立った。この年には佐藤・ニクソン会談が始まり、沖縄の処遇が議題に上ろうとしていた。同年に安谷屋正義は《望郷》を描いて沖展(沖縄タイムス社主催の総合展)に出品する。当時の社会状況としては反基地、反米軍が主流であろうが、参観者には感銘を与えたようである。空も海も白っぽい背景の明らかに米軍基地のゲートがあり、その前に歩哨が右側にたっている構図の作品である。
沖縄は復帰運動の高揚とともに、世界と連帯した反戦運動を展開していく時期である。安谷屋の作品は米軍対沖縄という図式を通り越した、普遍的な反戦=厭戦意識とも結びついたものかもしれない。
実際この年を境に沖縄の言説が変化した。日本の中央に社説、論説で本土批判を明確にうちだしてきた。
当時琉球大学助教授だった故大田昌秀は『毎日新聞』のインタビューで「沖縄の若者に人権意識が芽生えたのである。過去は劣等感の裏返しで心情的。現在は自己の権利意識に目覚め理性的だ」といっている。「人権意識」は皮肉なことにアメリカがもたらしたものでもある。「復帰」によってその醸成された意識も失われるのではないかとも述べている。米軍政下の対立の中で芽生えた「人権意識」が、現在の沖縄人の自己決定権や住民投票、独立論まで結びつくことが考えられる。城間喜宏(しろまきこう)が墜落したジェット機の羽を平面に貼り付けてそのエッジをむき出しに制作し(1968年)、東京で展覧会を開いたのが1970年だ。
最初の前衛グループ「耕」から「復帰」が決まった季節まで次々とグループが生まれ、新たな作品が生み出され、展示が繰り出された。具体的な政治的目標があるわけではないが、政治、社会の変動と関わっていたことは確かである。
特に「復帰」は沖縄戦敗戦、米軍の統治以来の大きな変動であり、表現者にとっては見逃すわけには行かないエポックでもあった。
グループ「耕」は60年代始めから終わりまで活動し、その中からもっと新たな前衛グループを生み出した。永山信春(ながやまのぶはる)、新垣吉樹(あらかきよしき)、高良憲義(たからけんぎ)、金城瑛芳(きんじょうてるよし)ら4人は「現代美術研究会」、「NON」、「現」と名称を変えて活動した。彼らは「耕」が相変わらずタブローにこだわっていると見た。1968年に那覇市の与儀公園(1972年には復帰記念祝賀会場であり、基地付き、核付き施政権返還に抗議する集会が開かれる場所である)で場所を占拠するように古タイヤ、段ボールを数十個並べ、ベニヤ板に1セント硬貨を碁盤目にはりつけたキャンバス、潰された空き缶の塊など、モノに語らせた。当時の英字新聞にはAngry Young Artists というタイトルで紹介された。一体何に対して怒っていたのか。ひとつは「既成なものへの反抗」であった。自明なものを疑う思潮が世界的に広がる頃だ。
二つめは米軍との戦いの中で培われた抵抗する意志が、日本という国にすがっていく運動に変化していくこと。三つめは消費社会へのアンチとして。ところが72年復帰の年に解散してしまう。解散の動機は絶望、シラケであった。
新垣安雄(あらかきやすお)はほとんど常に一人で反戦のメッセージをストレートに出し続ける。1968年に与儀公園向かいの空き地で抗議の座り込みをした。公園での野外展に不許可を出した米国民政府への抗議である。新垣は1972年には反戦の野外展、1973年には「反戦のオブジェ展」、1975年には与儀公園で反戦・反海洋博の野外展をした。「芸術活動と政治活動とは切り離せない」旨述べている。しかし70年代後半から真っ白の平面やオブジェに変化する。
1972年6月に「大日本帝国復帰記念」と題して諧謔に満ちた個展を開催した真喜志勉(まきしつとむ)がいる。壁一面にー硫黄島の米国の奪還のシンボルである星条旗を立てるシーンの星条旗を日の丸に変え、もう一方の壁を東條英機の肖像を無数のシルクスクリーンプリントで埋めたのである。真喜志は前年にニューヨークに渡り、復帰の年に帰ってきたのであった。
「‘76展」
「復帰」からしばらく、沖縄は判断停止状態が続いた。沖縄の文化が立ち上がり、「復帰」前とは異なり、アイロニカルに自らを批判しつつ、状況に切り込んで行くのが海洋博覧会狂騒後の76年といえる。「海洋博」は1975年に半年間開催された。海をテーマにした沖縄での初めての国際イベントであった。列島改造計画の俎上に上り、格差是正の意味合いもあったが、空港、道路などのインフラは整備されたが入場者数は当初の予想をはるかに下回り巨額の投資も県外企業に周り、関連施設や企業倒産が相次いだ。この年、復帰と海洋博の後遺症が逆に沖縄の文化が自らの足元を見させることになった。
この年の主要な事柄を列挙するだけで、一つのエポックだったことがわかる。(ここでは省くが)「‘76展」はその名称からして、かなり時代意識が明瞭に出ていたグループ展といえる。沖縄タイムス3階大ホールで、「チルダイ(ダレている)している沖縄の社会へ活を入れる」べく企図されたものであった。メンバーは豊平ヨシオや真喜志勉らの6人。たとえば豊平は会議室を模し、焼け焦げたテーブルセットがあたり一面にこげた匂いを漂わせ、ガラスケースのなかに食パンが黴びていく様を見せ,復帰後の「判断停止」した時間を表した。新垣安之輔はコーラ瓶のかけらで日の丸を作り、真喜志は新聞紙の一方の塊の上にネズミ捕り器もう一方には口を塞がれたマネキンの首を置いた。
戦後の沖縄での前衛は政治の動きと連動していると言えよう。復帰を巡る文化的闘争は未だ顕在的、潜在的に続いている。
首里城大龍柱の向き
この数年問題になっているのが首里城の龍柱問題である。この例は一見表題と関係ないように見えるけれども、「復帰」の問題、沖縄人のアイデンティティーの問題と絡んでくるのである。
首里城の龍柱問題は30数年前、龍柱の復元担当の彫刻家西村貞雄が常々主張していた説、左右の龍柱が実は正面向きであるというものである。
1992年の首里城復元(平成の復元)では大龍柱は2体がお互い向き合う形で設置されていた。今回の再建に向けた国や県の検討委員会でも、大龍柱に関しては向かい合わせとする前提で検討が進んでいる。それに対して、市民団体などからは正面向きが正しいのではないかとの意見が上がっている。( 2020年10月14日『琉球新報』デジタル)
『琉球新報』のインタビューに国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」委員長の高良倉吉氏は答えて、
「平成の復元」で正殿復元の根拠資料としたのは3点ある。1点目は首里王府の公式記録「寸法記」(1768年に修理した際の記録)、文化庁所蔵の「拝殿図」(正殿が「沖縄神社」となった昭和初期解体修理の記録)、首里王府の公式記録である尚家文書4冊だ。(同上)
ところが新たな証拠写真が見つかった。琉球国王が日本政府に首里城を明け渡す2年前の1877年に撮影された正殿の写真で、龍が正面を向いているのが確認できるのだ。
尚泰王を表敬訪問したフランス人一行のルヴェルトガ海軍中尉が撮影したものだ。正面向きを支持する側は、相対向きは日本の狛犬と同様神社に設置されているものであり、熊本の部隊が首里城鎮圧の際に相対向きにしたと考える。沖縄独自の思想は正面向きだと主張する。ところが「検討委員会」は現時点で方針を変える気配はない。
字数の関係で細かいことは省くが、底に流れているのは復帰の時よりも強い沖縄自立の思想の広がりだ。ここ十数年沖縄の自己決定権が県民にクローズアップされるようになった。照屋勇賢や山城知佳子が日本美術の脱中心化の役割の一端を担い始めたのも同時期だ。ただそれとは逆行する大波が押し寄せている。辺野古の新基地建設や最近の南西諸島へのミサイル配備だ。着々といわゆる南西シフトがすすんでいる。つい最近与那国町の住民避難訓練を実施したのは戦場となる想定の下の訓練であることはいうまでもない。