なかのひとなどいない

2017年5月から6月にかけて、六本木・芋洗坂の歩道を若者の大行列が埋め尽くした。列が連なるのはブラックボックス展と題した展覧会(5月6日~6月17日)。アニメ「サザエさん」の口調を借りつつキャラクター像とかけ離れたドグマティックなtweetを繰り出す人気アカウント「サザエbot」の“中の人”である匿名アカウント「なかのひとよ」(@Hitoyo_Nakano)がリアル空間ART & SCIENCE gallery lab AXIOMで開いた初個展である。タイトルが示す通り内容はまったくの秘密。酷暑にもかかわらず人々が行列に精を出した現象の裏にあったのは、フォロワー20万人を誇る「なかのひとよ」の人気と、謎の展示に対する野次馬・出歯亀根性、そして何よりその展示の仕掛けであった。

来場者はまず、内容を外部に漏らさないという同意書に入り口で署名すると会場へ通される。だが肝心の展示室はこれまたタイトル通りの暗闇のみ。退場すると次のような条文を記した「許可書」が渡される。会期終了以前に展示内容や配布物に関する情報を公表・口外することの禁止/ただし絶賛もしくは酷評の感想ならば許可/そして、それが虚偽の展示内容を連想させる感想であるならば、許可。

果たして来場者は喜々としてこの誘導に乗った。もとよりtwitterを主な情報源として集まった来場者のほとんどは各々アカウントを持つ「中の人」であり、ネタとしてのつぶやきは自発的に大量生産された。秘密共有の快楽とともに拡散されるフェイクニュース(というかデマ)こそ本展の 本体であったといっていい。このいわばポストトゥルース・ゲームはまんまと功を奏し、行列が行列を呼び、ついには警察が出動するほどの話題を集めた。その上で主催者は「ネクストレベル」次いで「アルテマレベル」と称して段階的に規制を敷き、新たに入場料を徴収、加えていかにも屈強な黒人の門番を配して無差別に来場者を選別するという露悪的なパフォーマンスを始めた。玩具を使って任意の来場者を列から撥ねるというあからさまにふざけたあしらいにさえ人々は喜び、最終日の待ち時間は6時間、小さなギャラリーに延べ3万人以上が詰めかけることになった。

だが会期後、展示内容が一斉に明るみに出ると同時に、暗闇の展示室で何者かによって痴漢行為があったことが警察沙汰となり、主催者に対する社会的制裁が始まった。展示の仕組みをよく把握した者による犯行に違いないが、ともあれ仮に犯罪が発生せずとも、そもそも愚かな好事家が使役され踊らされる非道な構図からして、いずれ主催 者が参加者=秘密共有者から内ゲバ的逆襲を受けることは必然であったろう。なお僕はネクストレベル時に1時間並んだ末に門番に撥ねられた愚者の一人だ。痴漢被害の訴えは会期中からネットや警察に複数申し立てられていたものの、主催者はゲームルールのゆえにそれを虚言だと考えていた、とのコメントを残しているのはこの企画の滑稽きわまるおぞましさを物語る。会期終了とともに性懲りもなくギャラリー扉に裏文字でBLACK BOX ALTERNATIVE LEVELと記した表示が貼られたのは、よく知られたハイレッド・センターの「大パノラマ展」や赤瀬川原平《宇宙の缶詰》の翻案だろう。

展覧会を告知しておきながらそこには何もないという、半世紀も前のイブ・クラインの「虚構」展同様の設定にSNSの味付けを施して焼き直してみたら、思惑通り異様に高速回転する空疎な言表空間が現れ、あげく企画者自身がコントロールを失って晒し上げを喰らった──言ってみればただそれだけのことだが、じつに直裁な今日のドキュメンタリーではあった。

最終的に貼り出された扉の掲示は、ネットを介して情報 授受のからくりを操作するその企画内容にもかかわらず、主催者が意外なほど無垢に内(「なか」)と外を安定的にとらえていたことの最たる証であった。まるで無意味な掲示である。そこには(赤瀬川らが執着したような)裏返すべき境界などないのだから。本展が焦点を結んだのは会場の入口ではなく、端から内外がリキッドに溶解した熾烈な領土争いの場であったはずだった。その流動性に耐えられる設計を欠いたがために、結局展覧会はほぼ乗っ取られてしまったのだ(本展公式HPの最後に記されたAll Rights Reservedの一文が皮肉で泣ける。いまやこれほど形骸化した文言もない)。権利を主張する者が私的領域に踏み込み、一方で享受する者がアナーキーなコピーを撒き散らす。権利意識が肥大し、しかしその権利がたやすく横取りされ、そのことがまた肥大を招く。本展において最もおぞましかったのは、領域侵犯が繰り返される殺伐とした無法地帯、公私の概念がぶっ壊れた共同体モデルがみだらに露出したことだった。当事者になるという欲動に駆られて集まった、というより動員された参加者、そして主催者は、皆ひっくるめて被害者と加害者いずれかの役割(ここにはそのふたつしか選択肢がない)を入れ替わり立ち代り演じることとなった。あるいはこれは今日言われるところのソーシャリー・エンゲージド・アートの分身でもあったろう。あの展覧会を通じてたしかに人々はつながり、支配的な立場に固執した主催者の意図に反して特権性も相対化された。ただそこには何ひとつ共有すべきものがなく、あり得べき公共像も想定されていなかったのである。

(美術評論家連盟会報第7号、2017)

著者: (NARIAI Hajime)

東京国立近代美術館主任研究員。1979年生まれ。一橋大学言語社会研究科修了。府中市美術館学芸員、東京ステーションギャラリー学芸員を経て2021年から現職。戦後日本のアヴァンギャルド芸術を中心に、マンガ、大衆誌、広告ほか雑種的な複製文化と美術を交流させる領域横断な展覧会を企画。単著『芸術のわるさ』(かたばみ書房)2023年刊行予定。主な企画展に「石子順造的世界―美 術発・マンガ経由・キッチュ行」(2011-12 年、府中市美術館、第 24 回倫雅美術奨励賞)、「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」(2014 年、東京ステーションギャラリー)、「パロディ、二重の声――日本の 1970 年代前後左右」(2017 年、同)など。主な論考に 「俗悪の栄え――漫画と美術の微妙な関係」『実験場 1950s』(東京国立近代美術館、2012 年) など。