クレア・ビショップの論考 「Rise to the Occasion」について

『ARTFORUM』2019年5月号に掲載された、クレア・ビショップ “Rise to the Occasion”という文章を取り上げ、その簡単な紹介と感想を記しておきたい。原文は以下で全文読むことができる。 https://www.artforum.com/print/201905/claire-bishop-on-the-art-of-political-timing-79512

一言で言えば、本論は、「ポリティカル・タイミング・スペシフィック」という概念に関して、そしてその概念を通してタニア・ブルゲラについて論じた文章である。

そもそも「ポリティカル・タイミング・スペシフィック」という概念は何なのか? 簡単にまとめてみよう。それは、「サイト・スペシフィック」をもじってタニア・ブルゲラによって提唱されたものだという。アートへの反応というよりも、政治的アクティヴィズムの慣習的な形態とジェスチャーへの反応である。西洋の批評家とキュレーターは、ブルゲラの実践の政治的力学よりもむしろ文化的・人類学的側面に焦点を当てるので、彼女はポリティカル・タイミング・スペシフィックという語をつくった。ブルゲラのポリティカル・タイミング・スペシフィックな作品は、西洋の美術史において十分に検討されてこなかった仕事の仕方を例示するものである。それは、「介入 intervention」というラテンアメリカの伝統、つまり地域の軍事独裁の時代のあいだの政治的芸術制作の範例的スタイルのひとつである。介入は、通常都市空間において行われ、60年代半ば以降異議の公的な強力な表現となった。こうした行為は、アクティヴィズムやパブリックアートという西洋的題目にはうまくはまらない。可能な限り広範な観衆に届くようデザインされた一時的なジェスチャーであり、緊急性、フラストレーション、大胆さから生じる。ビショップは、アメリカでもこうしたやり方をもっと活用できるだろうとも述べている。ポリティカル・タイミング・スペシフィックな芸術は、大義を提唱するのではなく、問いを発したり挑戦をしたりする。ビショップはスチュアート・ホールや、マキアヴェリ、グラムシを援用しつつ、ポリティカル・タイミング・スペシフィックな作品が瞬間の特殊性に密接に結びついていることを強調する。瞬間の複雑さを超えていないという理由で、政治的な現在の白熱状態において創造された芸術的ジェスチャーを否定する傾向が一般にあるが、ポリティカル・タイミング・スペシフィックな作品はそうした無時間性timelessnessに対立する時事的なものtopicalityである。

ざっくりとまとめるとこういった感じなのだが、いくつかこの論文に関して興味を引いた点について指摘しておきたい。第一に、ビショップのさらなる政治化について。もちろん彼女は以前から政治的に左翼であり、『人工地獄』においてもすでにそのような旗幟を鮮明にしていた。だが、『人工地獄』では「参加の目的=終わり end of participation」というかたちで、芸術作品が政治的にできることの限界を示しそこから先は政治が担うべきであると主張していたのに対して、本論ではその限界がさらに拡げられている印象がある。オキュパイ運動等の影響のせいや、トランプなどアメリカの状況がひどいためなのだろう。

第二に、先述のように理論的な参照項として、スチュアート・ホールや、マキアヴェリ、グラムシを援用していることである。ビショップの理論的な参照項の変遷を簡単にたどると、彼女の有名な論文「敵対と関係性の美学」ではラクラウ&ムフ、『人工地獄』ではランシエール(さらにジジェクやバディウ)であった。だが、本論では、管見ではいままでほとんど参照されてこなかったホールやグラムシ(そしてマキアヴェリ)というカルチュラルスタディーズ系の理論家に言及されている。ホール等のconjectureという概念を大いに用いているところも興味深い。

第三に、「瞬間の特殊性や時事性topicality vs. 無時間性timelessness」といった少々単純に思える二項対立が用いられている点である。もちろんビショップはこの論文では両者のうち前者を選択する。この点も第一と第二の論点と密接に関連している。現在というひどい状況に美術的にいかに介入することができるかという意識に基づいているのである。私もそういった政治的意識を必ずしも否定するつもりはないが、芸術作品において瞬間の特殊性を超える部分を無視してしまってよいのだろうかという思いもある。「戦略的普遍主義」を主張したヒト・シュタイエルと対照的に見える。そもそも『人工地獄』において提示された「二次的観客」という概念は、「瞬間の特殊性 vs. 無時間性」といった二項対立を「脱構築」するためのものでなかっただろうか。

といった感じで多少とも否定的な取り上げ方になってしまったが、「ポリティカル・タイミング・スペシフィック」という概念自体は、例えば日本ではChim↑Pomの作品にも適用できそうであるし、もう少し検討の余地があるだろう。現在のコロナ禍(そしてそれへの政府の対応)に応答したポリティカル・タイミング・スペシフィックな作品が出てくるかもしれないし、すでに出てきているかもしれない。

著者: (SUGAWARA Shinya)

美術批評・理論。1974年生まれ。コンテンポラリー・アートそしてアートと政治との関係を主な研究分野としている。最近の関心は、アートと移動性について。主な論考に、「質問する」(ART iT)での、田中功起との往復書簡(2016年4月~10月)「タニア・ブルゲラ、あるいは、拡張された参加型アートの概念について」(ART RESEARCH ONLINE)がある。他には、奥村雄樹(『美術手帖』2016年8月号)やハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Tokyo Art Beat)へのインタビューがある。最近の論考には、「現代的な、あまりに現代的な——「ユージーン・スタジオ / 寒川裕人 想像の力 Part 1/3」展レビュー」(Tokyo Art Beat)や「同一化と非同一化の交錯——サンティアゴ・シエラの作品をめぐって」(『パンのパン 04下』近刊)。

連絡先:shinyasugawara.critique[at]gmail.com

Shinya Sugawara is an art critic based in Tokyo. His major area of study is contemporary art and the relationship between art and politics. He is currently researching art and migration. He has written exhibition reviews for Bijutsutecho and Tokyo Art Beat, and essays such as “Tania Bruguera, or the Expanded Concept of Participatory Art” (ART RESEARCH ONLINE) and “Intersection of identification and disidentification: Around the works of Santiago Sierra” (Pan no Pan 4 vol.3 forthcoming). He has also interviewed artists and curators like Yuki Okumura(in 2016)and Hans Ulrich Obrist (in 2020) .

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