文化・思想としての建築を創造した磯崎新

12月末、ギリシアの滞在中に磯崎新の訃報が飛び込んだ。その日は四半世紀ぶりにアクロポリスの丘に登り、以前、『磯崎新の建築行脚』(2001-2004年)という全12冊のシリーズ本のために行った対話での彼の言葉を思い出した直後だった。磯崎は、西洋文明の始原となったギリシア時代を代表するパルテノン神殿は、カッコつきの建築=「建築」、すなわち建築という概念の代名詞だと述べていた。建築はただの建物ではない。磯崎は、文化としての建築作品を一貫して主張した。日本ではしばしば土建業者扱いだが、西洋では建築家は知的な文化人として位置づけられる。彼が体現したのはまさにそのモデルであり、だからこそ海外の建築家と対等な立場で交友関係をもった。戦後日本の国民的な建築家となり、東京にモニュメンタルな作品群を残した師匠の丹下健三に対し、磯崎はコスモポリタンとして活躍したのである。実際、磯崎の代表作は東京になく、福岡、岡山、静岡などの地方都市に点在し、アメリカ、スペイン、イタリア、カタール、中国などでも大型のプロジェクトを手がけた。現在の日本建築家のめざましい海外進出は、彼が築いた礎の上にある。

 磯崎の建築は、合理主義を推進し、世界の風景を画一化させたモダニズムを批判的に乗り越えるポストモダンの流れを意識しながら、時代ごとに変容し、進化を続けた。例えば、1960年代の成長を前提とするデザイン(旧大分県立図書館)、1970年代の幾何学による形態生成(群馬県立美術館)、1980年代の古建築の引用(つくばセンタービル)、1990年代以降の複合施設(秋吉台国際芸術村)の実験などである。問題提起を行う建築家としても、その存在感は突出していた。東京都庁舎のコンペ(1986年)では、超高層の形式に反対し、参加者の中で唯一、落選覚悟で中層案を提出している。ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展1996では日本館に阪神淡路大震災の瓦礫を持ち込み、注目を集めた。コンペの審査員としては、せんだいメディアテークやパリのラ・ヴィレット公園など、話題作を選ぶ目利きとして知られ、1983年の香港のコンペでは、当時無名だったザハ・ハディドを最優秀に選んでいる。また磯崎の事務所からは、坂茂や青木淳らの次世代建築家が巣立った。

 2019年に建築界のノーベル賞というべきプリツカー賞を受賞したように、半世紀以上にわたる様々な活動に対して、磯崎は世界的な評価を獲得している。また彼は数多くの建築・都市論の著作を刊行したほか、浅田彰とのセッションを繰り返した建築と哲学の国際会議「ANY」シリーズを企画し、大江健三郎、武満徹らと雑誌『へるめす』の編集同人などをつとめ、ジャンルを横断する議論を展開した。こうした思想や歴史と建築をつないだ理論家としての功績も大きい。改めて磯崎のような人物が、日本の建築界に登場したことを感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。すでに近年は骨太な建築作品や、長いスパンの歴史を踏まえた議論が減っているから、彼の死は大きな喪失となる。おそらく今後、一人でその代役をできる多才な建築家の出現も難しいだろう。それぞれが得意とする領域で、磯崎の開拓した道を継承していかなくてはならない。

(2023年1月に「共同通信」に寄稿した原稿を転載)