地域の肖像:日本博京都府域アートフェスティバルの南丹エリアについて


「地域文化と先端技術を組み合わせたデジタルアートによる空間演出や、地域文化資源発信型のアーティスト・イン・レジデンスを活用した現代アート作品展示によって、地域の文化資源の魅力を引き出し、国内外へ発信、観光インバウンドの拡充と地域経済の活性化につながる取組として実施します」

ーALTERNATIVE KYOTO「開催概要」2021年

 

地域経済の活性を求めて

「日本博京都府域アートフェスティバルALTERNATIVE KYOTOもうひとつの京都 想像力という〈資本〉」は、京都の京丹後市、宮津市、与謝野町、福知山市、南丹市、八幡市と広域で、たとえば京丹後市は京都駅からざっと3時間はかかる。この展覧会は引用のとおり、地域活性を目的とした地域アートのひとつと考えることができる展覧会だ。会期も会場もバラバラで、有給休暇を使い切ったわたしは南丹の八木駅周辺にしか行けなかった。

 

 「いつになったら責任を持って「批評」できるまで作品に接したことになるのか、よくわからないのだ」
藤田直哉「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」『すばる』2014年10月号

 

地域アートと批評の機能不全性

批評家の藤田は2014年に「地域アート」について、その祝祭はワークショップや地域別に多発するため全貌を把握不可能であることや、地域交流を主眼としているが故にワークインプログレスの形式をとる作品が多いために、帰結に力点が置かれてないこと、そもそもの目的が地域創生であれば、作品自体の最終的なフォームに意味はなく、どれだけ客を招くことができたかが命題だとまとめている。そして、藤田はこの官僚的な芸術使役が目指す、素朴な善良性(過疎化する土地のおじいちゃん、おばあちゃんに元気になってもらう)のもとでは、作品批評や最終的な造型性への考察が不要ないし拒否されているとして、この状態をどう受け止めるべきか、自分は批評してよいのかと思案するのだ。そのときの一文が引用2である。この文章から7年が過ぎ、地域アートといえる本展で作品や作家は地域活性のための透明なメディウムでしかないのだろうか。あるいは?


地域のステルスマーケティングを超えて

ここで注目したいのは、本展では企画側が、引用1の通り、作品を地域固有の魅力を伝えるものであり、かつ、それが普遍的な訴求力を国内外にもつ手段と位置づける点である。作品には、地域を世界的な水準で再発見させる強度が求められるわけだ。建前だとしても、南丹という土地性(ルビ:ヴァナキュラー)をまとめあげた広告代理店の代理の安価化を目論んだ要請になりかねない。しかし、本展では地域創発か作品性かの二者一択の倫理ではなく、これもあれもの美学が作品の倫理となって芸術を形づくる非常に稀有な展開が生じた。南丹の諸作品の造形は、ケネス・フランプトンが建築の前衛の歴史について語る上で道標とした批判的地域主義を、リサーチベースドアートの隆盛を経て再解釈したような造形、さらに今回の事象に即していうと、批判的私的主義ともいえるような統合が行われていたのである。短く言ってしまえば、ここでしか生まれない作品であると同時に、ここになくてもよい作品ということである。それは、文明的=普遍的命題と伝統的=地域的事物を鑑賞者の私的記憶のところまで結びつけてスパークさせつつ、鑑賞者の記憶に寄り添うことで、全ての価値を底上げしてしまい、結果、何のマーケティングとも言い切れなくなる作品である。
 以下、特に批判的私的主義的である作品分析をそのスパークの様相の説明にかえたい。

 

黒木結《完璧な歴史》2021年

戦国時代のキリシタン武将でマニラに追放された、南丹の領主であった内藤如安に関する地方史の書かれ方に関する分析と歴史編纂自体についての作者の毛筆の覚書が地元の今西表具店で軸装された作品。そして、その覚書は、完璧(ルビ:パーフェクト)なパフェ(ルビ:完璧)をつくる映像に、ナーレションとして割り当てられる。南丹市役所八木支所近くにある喫茶しおんのパフェの調理工程映像と、その完璧なパフェを目指す黒木の調理工程が交代で上映される。まごうことなく南丹のお店のパフェの作られ方を知る物であり、内藤如安についての地方史の編纂を分析するものである。にもかかわらず、その土地と結びついた映像は、鑑賞者のいままでの人生で出会った地方史やパフェが代入可能であると気付かせると同時に、鑑賞者自身の歴史意識、食生活、郷愁を省察させる。パフェと地方史がある土地に黒木が行けば、どこでもあらたなヴァージョンが生まれうる。世界中が《完璧な歴史》に紐付けられる日も遠くない。今回の展示場所は八木駅近くのまるや食堂。

 

荒木悠《The Last Bell》2019年

鹿鳴館で煌びやかな洋装姿の男女が互いをスマートフォンで撮影しようと躍起になることが舞踏のステップに見立てられる映像作品。この男女は、明治期に来日したフランス海軍将校のピエール・ロティと、芥川龍之介がロティの滞在記に出てくるダンスのお相手である女性の視点を描いた小説『舞踏会』(1920年)が参照されている。ロティは多くの来日西欧人と同じく、日本の西洋化や女性の着飾りや化粧を辛辣に描写しているのだが、芥川がロティを描き直すのと同様に、荒木の作中の女が男を撮影し返し、ロティの眼差しは吟味され直すことになる。2019年の本作の初出は、東洋と西洋のハイブリットを目指してきた資生堂のギャラリーで展示され、日本の近代化の歩みを複数の次元から見直す契機となる作品であった。そして、この豪華絢爛の映像が今回は、地方都市に探せばきっとひっそりある小さな個人経営店舗「YOUR SHISEIDO みの吉」で投影されたのだ。店内には、デザイン史に輝く杉浦俊作の名品がラフに並んでいる一方で、「みの吉」の営業で使用されてきた住所印や販売業績の賞状がショウケースの中で端正に置かれている。歴史化されてきた名作と地方の小さな店舗の軌跡の価値が、鑑賞者の中で見事に転倒する。かの店にこそ、わたしの叔母の人生にこそ価値があると。今回、女性が家政と同時に生計を立て、長期雇用が可能な職としての、数多くの美容メーカーの美容販売員という存在の遍在を照らす光として、《The Last Bell》はリプレイされた。

著者: (KIRITORIMEDERU)

1989年生まれ。2016年に京都市立芸術大学大学院美術研究科芸術学を修了。特に、視聴覚文化の変容と伴走する美術作品をデジタル写真論の視点から 企画、執筆を行っている。2017 年から美術系同人誌『パンのパン』を発行。著書に『インスタグラムと現代視覚文化論』(共編著、ビー・エヌ・エヌ新社、2018年)。2022年のT3 Photo Festival Tokyoゲストキュレーター。