【真っ白な空間の魔力】
東京・表参道を歩いていた時のことです。今まで何かの店舗が入っていたビルが空き家になっていることに気が付きました。余計な什器が取り除かれたそこは、壁も天井も床も真っ白で非日常的な空間になっています。分電盤やコンセント、ガス管に空調設備だけがむき出しになっていたわけです。
私は横目でこれらの光景をちらっと捉えた瞬間、「あっ、アート作品がある」と認識してしまったようです。通り過ぎて10メートルくらいしてから、もう一度、この空きテナントに引き返して、じっくりと拝見したのです。よくよく見れば、アート作品なんて何もなかったのです。ただの白い空間にむき出しの分電盤などが存在しているだけ。

表参道の空きテナント。瞬間、アートに見えてしまった室内の様子
ロシア抽象主義の作家、カジミール・マレーヴィチ(1878~1935年)の「シュプレマティストのコンポジション」(トゥーラ美術館蔵)や中国・清王朝の山水図あたりを想起してしまっていたようなのです、どうやら私は。何の変哲もない日常の光景を著名なアート作品に見間違えただけかと思い、その時はあまり気にもせず、「表参道→外苑前→原宿」といういつものルートで画廊巡りを楽しみました。
そんな何でもない記憶が、後から別の意味を醸してきました。何でもない日常の光景をアートと錯誤したわけは、私の頭が、白い天井に白い壁という白い立方体、いわゆる「ホワイトキューブ」に代表される美術館的なるものに完全に洗脳されているからではないかと思い始めるようになったのです。
読者の皆さんも、こんな思考実験をしてみてください。立派な美術館の展示空間の中に、麗々しく建立された台座があって、透明なケースの中に、3つのゼムクリップが無造作に置いてあるのです。キャプションを見ると、今を時めく超有名なアーティスト、マルセル・ビュラン(偽名)の作品のようです。タイトルは「自由・平等・博愛」(2012年制作)。
「酢豆腐は一口に限りやす」と画廊で常に呟いている、訳知り顔の筆者は、眉間にしわを寄せながら、ぺらぺらと解説を始めることでしょう。多分、こんな風に。
「意識を持たないゼムクリップは、それ自体として完全に充実・自立した即自存在といえよう、1個のりんごのように。それを鑑賞する人間は常に他者とのコミュニケーションを交わし合い、自己を常に意識せざるを得ない対自存在である。自由・平等・博愛という本来、対自存在のみが実現可能な理想的理念が、ここでは即時存在そのものであるゼムクリップに仮託されているわけである。つまり、現代社会において自由・平等・博愛という理想の実現は絶望的であることが示唆されているのではないだろうか? いかにも頼りない一つひとつのゼムクリップを見ていると、ビュランの皮肉めいたメッセージを感じさせられる。一方で、軽やかで世界のどこにでも移動可能なゼムクリップにこそ、新たな他者理解の突破口を見出そうとしているようでもある。3つのゼムクリップという極めて日常的で些末かつ卑近な題材ではあるが、その意味するところは非常に深いものがある。ビュラン屈指の名作であり、2025年の時点で『21世紀の美術を代表する名作』と言い切っても過言ではないだろう」
繰り返しになりますが、これ全部、私が今、瞬間的にでっち上げた嘘ですよ。でも、立派な美術館で、偉そうな学芸員とか美術評論家が、いかにも確信に満ちた調子で解説していたら、皆さんも信じ込んでしまうのではないでしょうか? 優秀なキュレーターなら、3つのゼムクリップを巡る、それらしい解釈文なぞ、あっという間に5通りくらいは作れるはずです。美術史や美学理論をたっぷり学んできた彼ら、彼女らにしてみたら、そんなの御茶の子さいさいでしょう。
いささか、偽悪的すぎる物言いかもしれませんが、私はこう思うのです。「素晴らしい作品だからホワイトキューブの中に収められているのではなく、ホワイトキューブの中に収められているから人は(この作品が)素晴らしいと思い込むように洗脳されているのではないか」と。雑然とした小汚い街の貸画廊に置かれていた作品が、美術館の真っ白で大きな壁に設置されると、見違えるくらい立派に思えるのは、このような「美術館マジック」が働いているからです。
逆もまた真なり、です。有名なギャラリーで購入した作品を自宅の居間の壁に掛けたら、急にみすぼらしく見えることもあります。生活空間の中に絵を置けば、当然、鑑賞の際の夾雑物は多いわけです。集中して鑑賞するのに、やはりホワイトキューブに一日の長があることは認めないわけにはいかない。
でも、そうだとすると、私たちは、3つのゼムクリップそのものを鑑賞しているのではなく、ホワイトキューブという一つの制度を信用・愛好しているだけとも言えるのではないでしょうか? 汚い自宅の居間にゼムクリップを3つ置いても、そこに何らの異化効果も生じません。真っ白で無菌なあの空間に置いて、初めて作品は「作品」に生まれ変わるのです。
反美術館を標榜する作家や作品は、これまでも多く存在してきました。しかし、「美術館=ホワイトキューブ」の存在を前提としたアンチというものは、ある意味、美術館的なるものに依存しているとも言えます。また、壁も天井もガラス張りで外光をふんだんに取り入れた美術館だったら、ホワイトキューブではないと言えるでしょうか?
筆者は、ガラス張りの美術館であったとしても、ホワイトキューブの亜流・亜種であると思います。審美的な判断を下す、権威を持った美術館として来場者の前に出現してくる美術館的なるものは、全面ガラス張りにしたくらいでは払しょくすることはできません。
やはり、一番肝要なのは、美術館的なるものにいともたやすく騙されてしまう鑑賞者側の意識向上ではないでしょうか?
言い換えれば、美術作品のリテラシー(読解能力)をいかなる他者にも預けることなく、鑑賞者自身が徹底的に練り上げ、考察を深める姿勢が求められています。読者の皆さん、もっともらしい3つのクリップ解説文に騙されないでくださいね!
【過防備遊具】

東京都西部の某市にある公園内の児童用木製複合遊具
東京都西部に位置する某市をぶらぶら歩いている時、公園内の児童用木製複合遊具に目が吸い寄せられました。多摩産の木材を使った、それはそれは立派な遊具の前と後ろの2か所にでかでかと設置された注意書きの掲示板の内容がすさまじかったのです。
「あそびかたに きをつけて たのしく あそぼう!」と大書してから、個別の注意事項・禁止事項が列挙されています。うんざりしますが、いくつかご紹介しましょう。
ゆうぐのうえからものをなげてはいけません
すべりだいをかけあがってはいけません
たかいところでてをはなしてたちあがってはいけません
てすりにむりやりのぼってはいけません
たかいところからとびおりてはいけません
むりをしないでたいりょくにあわせてあそびましょう
「あんぜんなふくそうであそびましょう」と大書して、個別の注意事項も列挙されています。
かばんはとりましょう
マフラーはとりましょう
ひもつきてぶくろははずしましょう
うわぎのまえのボタンをとめましょう
ぬげにくいくつをはきましょう

遊具への過剰なまでの注意書きにへきえきとする
この公園の公式HPを閲覧しました。すると、やはり公園の目玉はこの木製遊具のようで、HPにも写真が大きく掲載されていました。そして、「子どもたちが楽しく遊べるやさしさのイメージの公園」であることが高らかと主張されていたので思わず笑ってしまいました。遊具の2か所に大きく、禁止事項ばかりが書かれていますが、私がこの公園周辺の児童だったら、こんな遊具で遊びたくないです。禁止事項に背いて、上から物を投げたり、滑り台を駆け上がったりしたら、どんなお目玉をくらうか分かったものではないからです。何か忌まわしい、陰惨な結末が遊具の向こうに待ち受けているようで恐ろしくて遊べません。
そうです、市当局の管理者の頭の中には、陰惨で忌まわしい事故が頭の中に渦巻いているのでしょう。マフラーを付けたままの児童が遊んでいる際、マフラーが遊具の一部に引っかかり、首が締まって縊死してしまうかもしれません。かばんだって遊具のどこかに引っかかれば宙ぶらりんの状態に陥り、頭を強打するかもしれません。滑り台を駆け上がったら、途中でバランスを崩し、地面に転落するかもしれません。遊具は常に死亡事故と隣り合わせの危険な装置なのです。だから、死亡事故や障害が一生残るような大事故が発生するかもしれません。
このような危険性が常につきまとうから、市当局は、禁止事項を大書した掲示を前と後ろの2か所に、ご丁寧に付けているわけです。運悪く事故が発生したら、市当局者は「我々は、きちんと掲示板で注意を促していたので、事故に関する責任はございません」と言うのでしょうね。責任逃れのためだけの掲示ということが、利用者にバレバレです。
この遊具のどこに、「子どもたちが楽しく遊べるやさしさのイメージ」が感じられるのでしょうか? 筆者には責任逃れの言葉で埋め尽くされた、地獄巡りのイメージしか、この遊具から感じられませんでした。はなから、事故が発生した際に、どうやって責任を免れるかを考えているような遊具とお付き合いしている時間なぞ全くありません、創意工夫に満ちた遊び方をしたい児童たちには。
こんな、あらかじめ惨事を予想して、言い訳ばかりしている遊具なんて設置しない方がよほどすっきりしています。でも、頭の中が防衛本能でいっぱいのお役人たちなら、多分、遊具も何もない、地面だけの公園でも大きな看板を数か所設置することでしょう。そこには多分、こんなことが書いてあります。
はしるときはころばないようにしましょう
かたいボールをなげてはいけません
さきのとがったぼうであそんではいけません
よそみをしながらあそんでもいけません
あついときはぼうしをかぶりみずをのみましょう
あそぶときはかならずおとうさん・おかあさんといっしょに!
しらないおとなとはあそばないようにしましょう
スマホなどでしゃしんをとっているへんなひとがいたらすぐ、けいさつにつうほうしましょう
,etc.
こういった意味のない注意書きを並べれば並べるほど、公園の持つ楽しさ、公共性がすべて台無しになります。注意事項を1000個書いたとしても、1001個目の予測もしない事態が起きえます。お役人の愚かさが遊具に付けられた掲示に凝縮されているわけです。そもそも、注意の掲示を公園内に100か所設置したとしても、大事故発生後に児童の保護者から裁判を起こされた際、市側が無罪を勝ち取れるかどうかは微妙な気がします。公園に代表される公共空間で事故が発生した際、地方自治体が国家賠償法に基づき損害賠償責任を負う恐れは常に付きまといます。だから、公園なんてすべて潰してしまえ、と結論付けたら、市民の憩いの場が一切、なくなってしまうかもしれません。
結論です。意味のほとんどない禁止看板を遊具にべたべた付けるのは、もうやめましょう。遊ぶ気がうせてしまいますから。禁止すればするほど、お役所が責任逃れをしたいという意味合いだけが前景化してしまい、「子どもたちが楽しく遊べるやさしさのイメージ」から離れていってしまいますよ。(2025年5月6日11時45分脱稿)
*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。