漢字と展示、いい感じ#3(最終回) 市原尚士評

命名する難しさ

漢字と展示、いい感じ#2」では、美術館のキャプションにもっとルビを振ろうと呼びかけました。と同時に、原稿の末尾で、「実は美術館の人も漢字が読めていないのではないか」という疑惑について#3で述べることを予告しました。「読めない」というよりも「正解がよく分からない」というのが本当のところです。以下、筆者なりに懸命に考えたことを皆さんにお伝えします。

古い作品の場合を考えてみましょうか。そもそも作品名がついていなかったり、作品の箱書きも異なるものがあちこちに墨書されていたりするので、これはもう調査研究にあたる学芸員や学者が、これまでの類似した作品の命名にならって「えいやっ」と名称を決定するしかないことになります。過去の多くの作品をどれだけ血肉化しているかによって、その名称のもっともらしさが左右されますので、命名には細心の注意を払わなければならないことでしょう。また、過去の類似作品の命名の際の慣例も多く知っていればいるほど参考になるでしょう。

要するに日頃の学びの成果を活かしながら、適切な作品名を考えなければいけません。しかし、どんなに苦労して、工夫を凝らしたとしても、この作品名は“仮説”に過ぎません。蓋然性の高い仮説なのか、それともそうではないのかということを第三者の目で冷静に判断していくことによって、多くの者が支持する命名が、徐々に仮説から定説へと変容していくのです。そして、研究者や学芸員が名づけの親ですから、一応、その読み方も“正解”が決められます。

近代以降の画家や陶芸家の作品の方が実はやっかいな気がします。芸術家自身が作品の命名を行ってくれているので、それ以前の作品よりも「楽ちん、楽ちん」と思えるのですが、よくよく考えれば、箱書きに記載されている文言が本当に作品名なのかどうかは作者自身にしか分かりません。こちらも結局はその作家や同時代を生きた他の作家、さらにもっと時代をさかのぼった先人たちの過去の類似作品の慣例を参考にしながら命名するしかないのです。もちろん、箱書きされた名称は最大限に尊重しながら、です。

そして、読み方を決定するのも極めて難しいです。漢字には本当に色々な読み方がありますから。該当する作品が、過去の古典文学を下敷きにしているのであれば、その文学作品に紐づいた命名をするのが正しいでしょう。作者が、中国の古典的な思想に傾倒し、それを作品にも強く反映させていた方だったら、命名もその古典の一節を反映させた方が良いでしょう。ライバルの画家への「アンチ」として提示した作品であるならば、それも読み方に影響を及ぼすかもしれません。作品発表当時の気象天候、人災、天災も読み方と関係はありそうです。作家個人の生老病死、連れ合いの生老病死、係累の生老病死といったパーソナルな事情も読み方と関係ありそうです。

そもそも、作家本人が亡くなっていますから、読み方についてご本人に確認もできませんから、たとえ作品名らしきものが残っていても、その読み方は推定するしかないのです。要するに作家にまつわるありとあらゆることを学び、その同時代や過去の典籍にも明るくないと近代以降であったとしても作品の命名(及び読み方)と言うのは非常に難しい作業なのです。

慣例に基づいた命名をしても、工芸や染織の場合、絵画よりもさらに複雑怪奇なものになります。「技法」「文様」「形状」「色」といった作品にまつわる各種の要素を組み合わせて作品名を決定しますが、こちらも統一されたルールや法則性があるようでない。結局は「昔からそう呼ばれていたようだから」という極めて曖昧模糊とした根拠によって命名が行われているのです。作品名が曖昧なら、その読み方はもっと曖昧なものになるのは自明の理です。

美術館や博物館の学芸員さんがどんなに博識で勉強熱心であったとしても、作品名の命名一つでも極めて難しい。さらに読み方を決めるのを難しいということをしつこく繰り返してしまいましたね。私が思うに、このように難しい作業であるからこそ、軽々にキャプションや作品リストなどにルビ(読み方)を記載できないのかな、という気もしているのです。つまり、学芸員さん自身も実は漢字が読めていない、あるいはその読みに自信がないのではないか?という疑惑がわいてくるのです。

集合知を活用しよう

ここで、美術にまったく詳しくない筆者がある提言をしたいと思います。美術館や博物館で展示される作品の名称について、「なぜ、その読み方にしたのか(決めたのか)?」についての情報を開示してみてはいかがでしょうか?

担当される学芸員が赤裸々に手の内を明かそうということです。「●●という根拠があるので、▲▲の部分は、こういう読み方にした。でも、■■の部分については、正直、読み方に自信がない」といったメモ書きを美術館のSNSやホームページ上にあげて、多くの人々からの意見を募ってみるのです。

研究者のみならず、一般の市民などから寄せられた「あーでもない、こーでもない」という諸説を蓄積していくことによって、専門家である学芸員でも気が付かないような発見が生まれる可能性があると思うからです。たとえ、発見が何もなかったとしても、皆が作品の命名と読み方に興味を持つということは、非常に意義深いと思います。

美術館・博物館側が「本音を言えば、この命名、自信がないんですよね」と自己開示をすれば、周囲も知恵を貸しやすいし、何よりも学芸員さんの率直な姿勢に感銘を受けると思います。ですから、自信がなければ、そう公表した上で、どんどんルビは入れてほしいのです。全部の作品にきちんと読み方をつけてほしい。そこからしか、作品及びミュージアムを巡る民主主義的な議論は生まれないはずです。

専門家だけで行う議論は閉じられています。老若男女、様々な国籍の方も交えた議論を重ねることによって、つまり集合知を活用することによって、「100%の正解ではないかもしれないけど、85%の正解を提示する」ことはできるのではないでしょうか? 集合知を活用した上で決めた作品名と読みはコンセンサスも得られやすいでしょう。

平塚市美術館の出品リスト(部分)。鏑木清方先生の「小園夏趣」に読み方は記されていない

最近、平塚市美術館で同館が所蔵する日本画家・鏑木清方の名作「小園夏趣」を拝見しました。キャプションに読み方の記載はなく、作品リストにも読みはありません。平塚市美術館のデータベース内にも読みの記載はありません。数奇和(東京)が修復を実施した後に作成した「平成30年度(2018)修復報告書」にも読みはありません。さらに、平塚市美術館の令和3年度事業報告書の中に「小園夏趣」が登場していたのですが、やはり読み方がありません。

絵を実際に見ると美しい女性が描かれているので、私は「小園(こぞの)さんが夏の趣の中で優雅にたたずんでいる」絵だと判定し、「こぞの●●」と仮定しました。さすがに「夏趣」を「なつおもむき」という読み方はないな、と思ったので、最終的には「こぞのかしゅ」が正解なのではないか、と仮定しました。しかし、美術館側としては、一切、読み方の記載をしていないので、何だかモヤモヤします。

パソコンの検索窓に「鏑木清方 小園夏趣 読み方」と入れて、検索をしましたが正解らしきものがなかなか見当たりません。検索結果に上がったものを一つ一つ開いて見ていくと、ようやく答えらしきものに遭遇できました。

平塚市美術館が「小園夏趣」を鎌倉市にある鏑木清方記念美術館に貸し出した際、鎌倉市の「広報かまくら」(令和3年度6月1日号)が展示を紹介する記事を書いています。その中で「小園夏趣(しょうえんかしゅ)」として紹介されていたのです。鎌倉市役所の広報担当者が記事を書く際、どうして「しょうえんかしゅ」という読みを入れたのか? 何らかの根拠がなければ、そうは書けないはずです。しかも、所蔵先の平塚市美術館では「しょうえんかしゅ」とは書いていないのです。ですから、この「広報かまくら」の記述が正しいのか否かも実ははっきりとはしていないのです。

「小園(こぞの)さん」ではなく「小園(しょうえん)」が正しいのだとしたら、「小さな園」もしくは「小さな公園」という意味になろうかと思います。しかし、縦129センチ、横35センチの縦長の作品のどこを見ても、この絵の背景が「小さな園(公園)」であることを完全に証明するような描写がない。余計にモヤモヤしました。

まさか、私の大学時代の恩師が披露した裏技、つまり分からない漢字があったら何でも音読にしてしまえばいいという「当たらずといえども遠からずメソッド」を鎌倉市担当者が採用しているはずはない。やはり、何らかの根拠があって「しょうえん」としているのでしょう。その理由が、根拠が、私は知りたいのです。私自身、その説明を読んで納得が行けば、自信を持って今後、「しょうえんかしゅ」と発音することができますから。

私が勉強不足なだけで、過去の有名な文学作品や漢詩に登場する「小園(しょうえん)」を参考にして、この名づけを採用しているのかもしれません。ただ、私が鏑木清方の随筆「こしかたの記」やこの随筆に関連する鏑木清方記念美術館の過去の図録など、関連していそうなテキストを多く調べて、読んだ限り、「小園」に関連する記述を見つけることはできませんでした。

少なくとも平塚市美術館は、「小園夏趣」の読み方を公表する必要性があるでしょう。自信がないのであれば、なぜ、どうして自信がないのかもきちんと自己開示してほしいです。そして、「小園夏趣」の読み方を探しています、誰か教えてください!と公式のSNS等で呼びかけ、幅広い人からの集合知を蓄積していこうということです。

このような手法を採用することには大きなメリットがあります。美術作品の命名に一般市民も参加することによって、作品への関心を自然な形で多くの人に持ってもらえるからです。仮に採用されなかったとしても、自分が命名に関係している作品であれば、「ちょっと顔でものぞいてこようか」と美術館に足を運びやすくなります。今はやりの言葉でいうと、作品を「自分事(じぶんごと)」として捉えてもらいやすくなるわけです。

どのみち正解があるのか、ないのかすらはっきりしないのです。鏑木先生自身も「小園夏趣」という四文字の漢字をイメージとして浮かべただけで、その読み方まではまったく考えていなかったという可能性すらあるのですから。

一方で、私自身も反省点はあります。美術館や学芸員や専門家は何でも正解を知っている、という思い込み(前提)があるからこそ、その美術館が正解を示してくれないことについついいら立ってしまったわけです。つまり、権威的なるものだけが答えを持ち、一般の庶民はその答えをありがたがって押し頂くだけの存在に過ぎないと信じ込んでしまっているがゆえに、自分の頭で作品の読み方を調べてみようという行動にまではなかなか至らなかったわけです。

専門家が必ずしも正解を知っているわけではないーーそんな当たり前のことをかみしめながら、展示のキャプションとも向き合いたいものです。展示と漢字の関係性が、もっといい感じになれば美術鑑賞が楽しくなると思います。(2025年6月1日9時19分脱稿)

*連載「漢字と展示、いい感じ」は今回で終了です。過去に掲載した#1#2も併せてお読みください。作品にルビを振らなければいけない理由がお分かりになるはずです。「たかが読み、されど読み」です。

 

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。