【伝票利用のDIYステッカー】
最近、横浜市内のあちこちで宅配便の伝票シール(≒ステッカー)の上に小さめのグラフィティを施すという作例を見るようになりました。この1〰2年以内で目立ってきたように思えます。画面が小さいので、あまり見た目のインパクトは強くありませんが、一方で箱庭の中にしつらえられた盆栽の鉢を鑑賞しているような気配も漂い、これはこれでありかな、と思います。

イラストタッチの宅配便伝票をしたステッカー
汗をかいた少女を描いた作品は、これがグラフィティなの?と疑ってしまうくらい、イラスト然としています。ただし、右下に小さく書かれたタグ(ライター名)が存在しているので、これを描いた方は、「イラストに見えても、これは立派なグラフィティです」と主張しているのでしょう。

水ヌレ厳禁のステッカー
「水ヌレ厳禁」伝票を使った作例やほぼ子どものラクガキに近い作例もありますが、いずれも宅配便の伝票を利用している点が共通しています。

ほぼ子どもの落書きに近い作品も宅配便の伝票に描かれた
筆者は、これらの作品を見て、「どうして宅配便の伝票を使っているのだろう?」と熟考を重ねました。その結果、ある考えが浮かんできました。宅配便の会社への批判やら抗議といった意味合いではなく、単純に資金不足が原因なのではないかというのが私の仮説です。きちんとした防水性素材のステッカーというのは結構、高額です。そのようなステッカーを使った自作を貼りたいのはやまやまだが、お金がない。そこで、手に入れやすい宅配便の伝票を使っているのでしょう。確かにこれならほとんどお金はかかりませんから。

横浜市内の繁華街で見つけた宅配便伝票を転用したステッカー
また、宅配便に限らず、シールになっているものであれば、何でもグラフィティへの転用が可能なわけです。まさに「Do It Yourself=DIY」精神です。何か新しいものを生み出そうとする人間は、創意工夫を凝らそうとするということが、この伝票利用からも分かります。防水性素材のステッカーと比べると、紙の厚みもなく、色彩や線の風化も激しいという欠点はありますが、この退色・劣化も「侘び寂び」の美学の一環と捉えれば、前向きになれそうな気もします。
都内では結構前から宅配便の伝票シールの利用例は見かけていたので、ずいぶん遅れて横浜にまで到着してきた気がしています。やはり、東京から近いとは言っても横浜は地方都市ですから、若干の時差があるのかもしれません。
【監視下アート】
若手アーティスト支援プログラム「PUSH FOR CREATION(P4C)」はご存じでしょうか? 2024年冬には、相鉄本線・星川駅~天王町駅間の全長約1・4キロの高架下や沿線にあるオフィスビル「横浜ビジネスパーク」などを舞台に、3人のクリエイターが作品を発表しました。

禁止、禁止、禁止だらけの設置物
篠原奏さん、千葉希代美さん、高山力土さんらの作品を鑑賞しようと、筆者は歩き回ったのですが、アートよりも気になったのが、何かを禁止したり、監視したりする夾雑物の存在でした。「監視カメラ作動中」という掲示は本当にあちこちに貼られています。

監視カメラ作動中の掲示。こんなのが、あちこちに大量に貼られている
「巡回強化中」という掲示もあちこちにあります。屋外で誰にも迷惑をかけなさそうな場所であっても「禁煙」を呼びかけています。禁止や警戒を呼び掛ける掲示だらけでアートを楽しむ気分になれませんでした。

巡回強化中の掲示
極め付きが、横浜ビジネスパーク内にある円形の構造をした「憩いの空間」と呼ばれる「ベリーニの丘」でした。様々な映像のロケに使われるというだけあって、確かに印象に残る場所ではあります。
ただ、恐ろしいのが、膨大な数の監視カメラの存在でした。仮に監視カメラが生き物だとしたら、夜、眠りにつくために集まる大きな巣のようなのです。そう、ここはまさに監視カメラの巣窟なのです。もう、ここにも、あそこにも、どこにも、かしこにもカメラ、カメラ、カメラなのです。カメラから熱線が出ていたとしたら、この巣の中に入り込んだ人間は瞬間で焼死することでしょう。カメラの視線から到底逃れらない、と観念するほどの圧倒的な量のカメラが空間を圧しています。
こんな場所で憩える人間が本当にいるとはとても信じられません。この空間では愛をささやくことも、おむすびを頬張ることも、ちょっとしたいたずら描きをすることもできません。ちょっとでも「違法」なことをすれば、カメラを見ている中央監視室から屈強の警備員が飛び出してくるのは目に見えているからです。生き物なら夜は寝てくれますが、カメラは24時間365日起きています。そして、精力的に監視活動を続けているのです。
安全や安心のために設けたはずのカメラがまったく反対の意味合いを帯びてきます。ここを訪れた人間は、こう考えるはずです。「これだけカメラが多くあるということは、ここは何か危険なことが満ちている場所なのだろう」と。「さっさと退散しないと、何か厄介なことに巻き込まれるかもしれないぞ」と。つまり、めちゃくちゃ居心地の悪い場所になってしまっているのです。安全・安心どころではありません。

監視カメラの間に設置された高山さんの作品(中央)
テレビや映画やミュージックビデオで撮影する際は、多分、映像の技術者が膨大な数のカメラを一つ一つ消去しているのだと思われます。映像そのままだと監視カメラだらけで興ざめになるので、かなり面倒でもそうしているのでしょう。この場所に高山力土さんの写真が展示されたのですが、面白いのはその飾り方でした。監視カメラと監視カメラの間のブラインドスポット(死角)に作品を配置していたのです。これなら、作品も作品を鑑賞している人もカメラからすると捉えにくいことでしょう。高山さんが、そこまで意識されたのかは分かりませんが、私はこの作品の見せ方にP4Cへの批評的な眼差しを感じ取りました。
アーティストというのはたくましい存在です。どんな場所でも自身の作品を最も効果的に見せるための方法を考え付くのです。私は、監視カメラの死角に置かれたアート作品を見て、そんなことを考えていました。ベリーニの丘の居心地の悪さを解毒するかのような作品群、なかなかしたたかでした。
【視線よ死線を飛び越せ】
東京・天王洲の寺田倉庫周辺にはギャラリーが多く集まっているので、筆者も月に2~3回程度は訪れています。最寄駅からギャラリーまで歩いていると、天王洲運河沿いの公共空間にパブリックアートが描かれています。公共空間に描かれる作品です。勝手にグラフィティとして描いたら、建造物損壊罪などの犯罪行為になってしまいます。ただ、同じ行為(=絵や字を描く)でも行政などのお墨付きを得て描けば合法行為になります。

天王洲運河そばのホワイトウォールに描かれたキンジョーさんの作品(部分)
行政などのお許しを得て描いた、KINJO(キンジョー、1990~)の作品「River eyes」が大傑作です。ホワイトウォールのあちこちに猜疑心に満ちた目が何者かを監視するかのように描かれています。また、それらの怖い目の存在に脅えているかのような純粋無垢な感じの目も描かれています。どう見ても、監視カメラだらけで窮屈さを覚えている人間の姿を描写しているとしか思えません。
そして、キンジョーさんが作品に寄せたステートメントが、最高に知的でクールだったので痺れました。全文を引用します。
天王洲は都市にある水辺の街。様々な目的でここを訪れる人々が日々行き交っている。ここを訪れると、高層ビル、川や緑などの自然に加えアートが至る所にある。それらを見る人々の眼差しが色々な表情をしている。その人々の様々な眼差しからイメージした。
この作品を観ることで、眼差しが交差する天王洲の彩りある空気を鑑賞者が感じることを期待する。
しつこいですが、繰り返します。描かれているのは、猜疑心と恐怖に満ちたような視線、監視カメラ的な視線なのです。普通に読解力があれば、小学生でも「あぁ、この目は監視カメラみたいだ」と思うでしょう。「至る所にある」のはアートだけではありません。監視カメラも天王洲の街頭、路面に立地するビルの上部、建物内などなど至る所にあるのです。「眼差しが交差する天王洲」というのは、「監視カメラだらけの天王洲」とほぼ同義です。
また、人間そのものが、すでに監視カメラ的な視線を内在化させていることをキンジョーさんが皮肉っているようにも思えます。相互監視をしながら、少しでも“不審”な人物がいれば、ただちに警察や警備員に通報する心根を私たちはすでに持っていますから。また、スマホの動画を回しながら、「あなたのこと今すぐにでも警察に通報するよ」と不審な相手に告げる心根も持っていますから。
キンジョーさんは、表面上は何も抗議していません。お役所や警察のお許しを得た上で、現代社会への批評性あふれる作品を堂々と公開している姿はいっそう痛快です。まるで治安維持法下の戦前日本で巧みに本音を表現し、「わかる人にはわかる作品」を制作した芸術家のようです。
最後に一言、言わずもがなの蛇足です。高山さんもキンジョーさんも決して、お上に逆らうような不逞の輩ではありません。知性も常識も兼ね備えた立派な社会人、紳士だと思います。この文章で書いたことはすべて筆者が感じ、考えたことを独りよがりな視点で記述しただけの話しです。あくまでも私が鑑賞・解釈しただけなので、そこはくれぐれも誤解なさらぬよう。
横浜・ベリーニの丘での高山力土さんといい、天王洲のキンジョーさんといい、逆境をむしろプラス要素へと変換するアーティストのしたたかさには舌を巻いてしまいます。監視カメラと、一人びとりが持つスマホのカメラで覆いつくされ、すでに窒息死しそうなこの社会に対して「視線」一つを武器にして死線を飛び越えようとする芸術家の営みに感動する筆者でした。(2025年6月1日16時56分脱稿)