生駒山上の未来都市計画は幻か? ブルーノ・タウト『生駒山嶺小都市計画』三木学評

奈良側から見た生駒山

関西以外の地域はそこまで著名な山ではないが、関西では生駒山と言えばどこにある山かほとんどの方は想像がつくだろう。大阪と奈良を隔てる比較的低い山であるが、大阪から見れば東には生駒山系があるので、なじみ深い。北は男山から始まり、642mの生駒山を頂点として、南の信貴山、高尾山まで続く南北の山脈となっているがそれぞれに個性がある。生駒山は、「馬」とは直接的に関係はないが、馬の背のような形をしていることから、生駒と名付けられたという説がある。

大阪側から見ると、朝日が昇る山、奈良側から見ると、夕日が沈む山であり、それが奈良と大阪における世界観の軸となっている。大阪湾が上町台地以外、海で覆われていた古代においては、海からせりあがる生駒山は上陸のための目印となっていたことだろう。柿本人麻呂は、旅に出て大和に船で帰る際、明石海峡から見た生駒山系を見て以下のような歌を詠んでいる。

天(あま)離(さか)る、鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ、恋ひ来れば、明石の門(と)より、大和島(やまとしま)見ゆ

つまり、大和の玄関となる山であったことは間違ない。歴史的に言えば、神武東征の際、生駒山系が低くなる北から、大和に攻め込もうと考えたが、長髄彦(ナガスネヒコ)に追いやられたため、熊野の方から紀伊山脈を越えて大和に入ったということになっている。その後も、大阪側から奈良に行く近道は、山道を通って暗峠(くらがりとうげ)を越える必要があった。それが一変したのは、近代に入ってからである。具体的には、大阪電気軌道(現・近畿日本鉄道)が、生駒山にトンネルを掘り、鉄道で大阪と奈良を直線的に往来できるようになってから、その世界観は大きく変わった。

それ以前から、大阪から奈良までは国鉄が走っていたが、生駒山系を南に大きく迂回するルートで時間がかかっていた。大軌は、後続であったこともあり、生駒山にトンネルを掘り、大阪と奈良を直線で結ぶ路線を考えたのだ。その距離は、全長3,388メートル、国鉄の笹子トンネルに次ぐ当時日本2位で、民間では一番長く、複線標準軌では日本最長であった。しかし、脆弱な地質と大量の水に悩まされ、大変な難工事であったという。途中で落盤事故が起きたり、資金が不足したり、難航の連続であったが1914(大正3)年、ついに貫通した。

生駒山上の飛行塔

開通当初は乗客数も順調だったようだが、当時はまだ観光色が強く、天候によって左右される不安定な収入だったという。トンネル工事による巨額な借入れと利息が経営を圧迫し、翌日の切符の印刷代も出ないほどで、生駒山の中腹にある日本三大聖天の一つ、宝山寺に切符代として、資金を借りたという逸話が残っている。その後、大軌の生駒駅建設予定地から、宝山寺まで2kmの坂道を登らないといけなかったこともあり、1918(大正7)年、生駒駅に隣接する鳥居前から宝山寺まで日本最初のケーブルが敷かれる。さらに、1929(昭和4)年、生駒山上までケーブルが延伸し、生駒山上まで容易に登山できるようになった。それに合わせて、遊興施設である生駒山上遊園地がつくられ、現在も残る飛行塔が建設された。

ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880-1938)

さらに、大軌は付加価値を上げるために生駒山上に新しいホテルと別荘の施設を構想していた。それがブルーノ・タウトが設計した『生駒山嶺小都市計画』(1933)である。ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトは、当時、社会主義者として疑われ、ナチスから追われていたこともあり、海外の滞在先を探していた。そして、「日本インターナショナル建築会」を結成していた上野伊三郎の招きにより、1933年から1936年まで日本で活動した。上野は、留学後、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房で働き、リチと出会って結婚し、帰国後京都で活動していた。上野リチは、展覧会が相次いで開催され、そのデザインが再評価されているのでご存じの方も多いだろう。

タウトは、ドイツにおいて、田園都市ファルケンベルクの住宅群や、第一世界大戦後に、労働者のために設計したジードルング(集合住宅)によって、国際的評価を得ていた。これらは、ベルリンのモダニズム集合住宅群の一部として世界遺産にも登録されている。いっぽうで、第一次世界大戦後、アルプス山中にクリスタルな建築物を建て、戦争によって分断された人々の精神をつなぐための象徴的なものとして、『アルプス建築』を構想し、一つの理想郷としての都市計画を提示している。

大軌が、生駒山嶺にホテルや別荘群を依頼したとき、タウトは、馬の背のようななだらかな稜線、大阪と奈良から見える生駒山系を見て、かつて構想した「アルプス建築」の実現を夢想したことが推察される。タウトは、依頼からごく短期間で、計画案を書き上げ、大軌に提案したという。そこには、シードルングにみられる馬蹄形の庭や城壁のような高層建築がみられる。しかし、それ以降いっこうに進む気配はなく、タウトの面会依頼に、あれこれ理由を付けて、結論を先延ばしするなどしたため、すっかり頓挫したと思われていた。

しかし、大軌はタウトの都市計画を、基本計画という位置づけにし別荘は、芝川ビルなどの意匠設計で知られる本間乙彦が担当することを雑誌に発表した。本間乙彦の別荘の建築は丸太でできたコテージ風のものだった。タウトの建築が実現しなかったのは、当時の日本人のクライアントが外国人に求めていた西洋風の建築ではなく、日本の風土に合わせた、日本風の建築を提案したことが大きいだろう。モダンな暮らし思わせる別荘ではないと、売れないので致し方ない部分もある。タウトは怒り心頭だったらしいが、日本の法律もわからず、なす術がなかったという。

タウトは、上野の案内で、桂離宮や修学院離宮、比叡山延暦寺、伊勢神宮などを視察している。それらの経験をもとに、日本の建築美についてタウトが記した本は、後に日本の建築史にも大きな影響を与えた。また、群馬県高崎にあった井上工業研究所の顧問になり、さまざまな伝統工芸のデザインを指導したが、建築はほとんど実現に至っていない。また、上野の母校でもある早稲田大学などの教職なども得られなかった。タウトは、日本の建築を知りすぎたため、まったく別の西洋風の建築を移植するのは「イカモノ」と考えていた。しかし、日本は本場から来たタウトに、西洋建築を設計して欲しかったのである。タウトは、失望のうちに、トルコにわたり、アンカラの文部省建築局首席建築家として、多くの建築を建てる。そして、そのままトルコの地で客死する。

タウト『生駒山嶺小都市計画』についてはある程度知っていたが、そこに至る魅力的なストーリーについて、生駒市役所職員で『生駒山嶺小都市計画』を調査している森康通氏に直接レクチャーしていただいだ。

森氏によるとこのストーリーには続きがあるという。『生駒山嶺小都市計画』は、国立国際美術館等で開催された「インポッシブル・アーキテクチャー ―建築家たちの夢」展でも、タウトのスケッチが展示され、「未完」のプロジェクトとの位置づけになっていた。しかし、タウトのスケッチを生駒山上遊園地と重ね合わせると、山の稜線に沿って伸びる直線の道路などに採用されていることがわかる。さらに、本間乙彦のコテージも少しだけ痕跡がみられる。つまり、タウトのイメージは一部ではあるが、実現していたということになる。

生駒山上宇宙科学館跡地

1969(昭和44)年、生駒山上遊園地には、生駒山上宇宙科学館が建設されるが、これは早稲田大学出身の吉阪隆正の手によるもので、地球の軌道をもとに楕円の平面と円筒形の建築をつくっており、そのUFOのような形は長年生駒のシンボルとして愛されてきた。また、吉阪はル・コルビジェの弟子でもあり、コルビジェのインドのチャンディーガルの都市計画やコルビジェが影響を受けたインドのジャンタル・マンタルの天文台とも影響関係があったのではないかと言われている。もし、タウトが早稲田大学で教職を得ていたら、おそらく吉阪も、コルビジェではなく、タウトに大きく影響を受けただろう。

生駒山が日本のモダニズムにとって果たした影響はことのほか大きい。現在でも春や夏などの長期休暇中は、夜間営業もしている生駒山上遊園地は光り輝いており、そのイメージは、『アルプス建築』のイメージを想起させる。都心周辺に山のない東京では見られない、別の可能性があったことを生駒山を中心に再度振り返る必要はあるのではないだろうか。

初出:『eTOKI』2022年6月23日公開。

著者: (MIKI Manabu)

文筆家、編集者、色彩研究、美術評論、ソフトウェアプランナー他。
独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行っている。
共編著に『大大阪モダン建築』(2007)『フランスの色景』(2014)、『新・大阪モダン建築』(2019、すべて青幻舎)、『キュラトリアル・ターン』(昭和堂、2020)など。展示・キュレーションに「アーティストの虹-色景」『あいちトリエンナーレ2016』(愛知県美術館、2016)、「ニュー・ファンタスマゴリア」(京都芸術センター、2017)など。ソフトウェア企画に、『Feelimage Analyzer』(ビバコンピュータ株式会社、マイクロソフト・イノベーションアワード2008、IPAソフトウェア・プロダクト・オブ・ザ・イヤー2009受賞)、『PhotoMusic』(クラウド・テン株式会社)、『mupic』(株式会社ディーバ)など。

https://etoki.art/

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