彩字記#17(採取者・市原尚士)

スマホにご用心

JAGDA国際学生ポスターアワード2025入選作品展が毎年、国立新美術館(東京・乃木坂)で開催されるのを楽しみにしています。政治的なテーマに挑戦している海外の学生の力作に出会えるからです。国内の学生にはやや物足りなさを覚えます。政治、外交といった大きく、硬そうなテーマから逃げている、あるいは興味関心がないように見えるからです。

スマホの見過ぎにご用心

とは言ったものの、作品を見て面白いと感じるのが、政治的なものばかりではないということもあります。いえ、むしろ脱力感を漂わせたユーモアの漂うものに目が引き寄せられる場合もあるのです。

中国・上海交通大学のファン ヤンチャオさんによる「A Design Student’s Daily Life」を見て、その人体表現に笑ってしまいました。スマホを見る若者(=ヤンチャオさん自身)の首が非常に長く、そしてぐーっと湾曲しているのです。やや大げさに表現はしているものの、この作品が示している通り、スマホを見ている方たちの姿勢は要するにこういう形状をとっていることは間違いありません。こういった姿勢の弊害は、今さら言うまでもありませんよね。視力は低下します。スマホの画面の外で起こっている出来事への集中力も低下します。首がカチカチに硬くなります。肩はバキバキにこります。スマホの中は広告だらけですから、頭は広告漬けになります。スマホは見ないに越したことはありません。

みちぶしん

多摩美術大学TUBが運営する展示が東京ミッドタウン・デザインハブ(東京・乃木坂)で開催されていましたが、こちらにも感心しました。植える WELL-BEING : Our tools & methods for well-beingと題する展示には、「植える」にまつわる知の集積が一堂に集められていました。

筆者がとりわけ興味を持ったのが「あなたにまつわる百のこと」でした。

多種多様な百の仕事。あなたがしている仕事、してみたい仕事など、あなたの暮らしに植えるものを選び、お持ち帰りください。

そんな呼びかけ文のそばの壁面に農業や山間の暮らしなどと関わる様々なワードとその簡潔な説明文のついた紙片がたくさん展示されています。気になったものを持ち帰っていい、と言われると、ついつい真剣に読んでしまいます。

焼き芋だって、百姓仕事とかかわりがある

この文章を読んでいて、「お百姓さん」と言われる人々は単純に農作物を生産しているだけではないという当たり前の事実に改めて気が付かされました。

ぱっと目に付くものをいくつか列挙してみましょう。良好な環境保全、自然と身体に優しいオーガニックな食材作り、害獣駆除、農閑期の出稼ぎ(酒造り、焼き芋など)、農閑期の工芸品製作などなど。農作物を生産する行程の中に、自然と折り合いを付けながら、自然と共に生きていく姿勢が食い込んでいます。だから、自然を一方的に略奪するのではなく、自然と人間が共に美しい秩序の中で文化的に生きられる空間・時間が生み出されているのです。

筆者は、たくさんある紙片をたくさん取っていくのはつまらないと思い、「1枚だけしか持っていけないとしたら、どの1枚を取るか」という試練(?)を己に課すことにしました。その方が真剣に紙片の内容を読めるからです。

「みちぶしん」。いい言葉です

決めました。決まりました。「みちぶしん」という紙片にしました。道普請、をあえて平仮名で表記しています。解説を全文引用します。

自分たちが暮らす集落のそうじ、草刈りなどをみんなですることです。また集落の困り事をみんなで解決する結という文化もあります。

この言葉、新鮮ですよね。2025年を生きる日本人は、自身の住む地域で何か困ったことが起きても、警察、消防、官公庁、学校などにその問題を丸投げして、自分は指を一本も動かさないまま、解決してもらうことしか考えていません。しかし、本来は、自分の暮らす地域は、そこに住む住民が皆で力を合わせ、助け合いながら維持・管理・運営していくのが筋です。「みちぶしん」の思想が今ほど求められているものはないな、と考え、1枚だけ、この言葉の書かれた紙片をいただいた次第です。

ペペロンチーノ

神奈川県の高校生が書いた書道をたくさん拝見する機会がありました。横浜市民ギャラリー(横浜市)で開催された、令和7年度神奈川県高等学校総合文化祭 第62回高等学校書道展です。たくさん、書道がかかっている壁面を長時間見つめるのはなかなかの苦行ですが、まぁ、書道好きの一人ではあるので、頑張って見続けていました。

もう、駄目。耐えられない。頭が文字で埋め尽くされておかしくなりそう!

字が沸騰しています。ペペロンチーノという文字がグラグラと煮えています

そう思いながら、会場内をよろよろと歩いていた時のことです。「ペペペペペロンチーノ」と題する大作に邂逅して、一気に心が明るくなったのです。巨大な画面の中央に「ペペペペペペロンチーノ」という文字が立ち上がっています。タイトルの「ペ」は5つなのに、実際の作品では「ペ」が6つ書かれているのはなぜなのか少し悩みましたが、まぁ、些末なことでしょう。

筆者には、この書道作品全体が、寸胴鍋(パスタ鍋)を示しているように見えました。鍋の中に「ペペペペペロンチーノ」というパスタが縦方向に放り込まれている。グラグラと煮立った湯の中に、放り込まれた瞬間のパスタが画面(鍋)中央に書かれていると解釈しました。そして、調理方法を示したいわゆるレシピの文章が、湯の中で一文字一文字、煮立っているのです。

ああ、実においしそうです。頭の中に、湯から出された後のパスタの様々な調理の行程が浮かびます。そして、熱々のパスタを口中に放り込む自分自身の姿も目に浮かびました。これは、素晴らしい作品ですね。拙稿「書は楽しいのが一番」でも訴えた通り、自分が本当に好きでたまらない言葉を書くべきです。ペペロンチーノを調理する際の興奮、楽しさ、そして、出来上がった一品を思い切り頬張る際の喜びを書にするべきです。

禅宗の最高峰とされる公案集「碧巌録」82則の「山花開似錦」(山花開いて錦に似たり)を高校生のあなたが書く行為の中に、リアリティーは宿っていますか?
中国の古典籍から引っ張ってきた、格調高い名句を2025年の現在、あなたが書くことにどんな意味がありますか?
書道界の偉い人が、そうしろと指導してきたら、あなたはそれを鵜呑みにするのですか?
あなたは何のために書に取り組むのですか?

「碧巌録」は筆者も大好きな本です。しかし、文字だけでグラグラと煮立ったお湯に満たされた寸胴鍋とパスタを表現しきった高校生の作品の放つ活力に軍配を上げたいと思います。

ものすごく乱暴な要約をしますと、「碧巌録」という名著は、「ペペロンチーノ」とは何ぞや、という議論を千年、真面目くさった表情で繰り返す僧侶たちに対して、「ごちゃごちゃ言っていないで、今すぐペペロンチーノを食べてみよ」と迫る本と言えます。格調高い名句を一万回繰り返して書いても、多分、あなたは格調高い人間にはなれませんよ。そのような“効能”を期待して書道に取り組んでも無駄、無駄、無駄、です。

格調の高い権威に縋り付こうとする性根を叩きなおさない限り、あなたが格調高い人間になることはありません。
いえ、「碧巌録」は、そのもっと先までを伝えています。筆者の超訳でこの名著のエッセンスをまとめるとこうなります。

お前は生まれた時からすでにして格調高い人間(=仏)なのだ。そのことに今すぐ気づけ!
キョロキョロとさもしい表情で権力や権威を持つ者に近寄って、「お前は格調が高い」という免状をもらおうとするなぞ愚の骨頂。
繰り返す。オマエは、今、ここで、すでにして仏である。それを知りさえすれば、ほかに何がいる?

いかがでしょうか?
まったく理解もしていない名言名句を書くよりも、自分が本当に好きでたまらないペペロンチーノのレシピを楽しく、おいしく書く行為に宿る、力強い実感の方がはるかに「碧巌録」的なのです。

書は、もっと自由で、楽しくあってほしい。高校生の素敵な「ペペペペペロンチーノ」を見て、改めてそう感じました。(2025年12月26日19時11分脱稿)

*「彩字記」は、街で出合う文字や色彩を市原尚士が採取し、描かれた形象、書かれた文字を記述しようとする試みです。不定期で掲載いたします。

著者: (ICHIHARA Shoji)

ジャーナリスト。1969年千葉市生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。月刊美術誌『ギャラリー』(ギャラリーステーション)に「美の散策」を連載中。